3. 木刀と筋肉痛、ときどき殺意
午後。太陽が中天に差し掛かり、庭の木々が濃い影を落とす頃。
俺は、屋敷の裏庭にある練兵場に立っていた。手には、子供用にあつらえられた木刀。ただの樫の木を削り出した棒きれだが、今の俺にとっては鉄塊のように重い。
「……重っ」
握った瞬間、手首が悲鳴を上げた。前世の俺なら、こんなもの片手でブンブン振り回せただろう。だが今の俺は、脂肪率過多の10歳児だ。腕の筋肉は贅肉の下に埋没し、冬眠中の熊のように沈黙を守っている。
「ヴェルト様。まずは構えから……」
セバスチャンが心配そうに声をかけてくる。彼は燕尾服の上着を脱ぎ、ワイシャツの袖を捲り上げていた。その腕には、執事にあるまじき引き締まった筋肉がついている。そうだ。こいつ、ゲームの設定では元・王宮騎士団の分隊長だったはずだ。レベルは確か40前後。序盤の壁としては十分すぎる実力者だ。
「……構え、だな。わかっている」
俺は足を肩幅に開き、腰を落とす。ドスン、と膝に体重がかかる。きつい。スクワット状態で静止しているだけで、太ももがプルプルと震えだす。
だが、俺の脳内には『ドラファン』の主人公・アレクの剣術モーションが完璧に焼き付いている。理想のフォームはイメージできているんだ。あとは、このふざけた肉体をそれに従わせるだけだ。
「ふんっ!」
俺は気合一閃、木刀を振り下ろした。
ブォン。
……とはいかず、ヒョロ……という頼りない音と共に、木刀が空気中を泳いだ。遠心力に負けた俺の体は、そのまま前のめりに倒れ込む。
ズサァッ!
顔面から砂利に突っ込んだ。本日三度目のダウンだ。
「ぐ、うぅ……!」
鼻の奥にツンとした痛みが走り、涙が滲む。情けない。あまりにも情けない。悪徳領主の息子が、素振り一回で自爆して泣きそうになっている図。喜劇を通り越して悲劇だ。
「ヴェルト様!無理はいけません、休憩を……」
「……いらん!!」
駆け寄ろうとするセバスチャンを、俺は手で制した。鼻血を袖で乱雑に拭い、木刀を杖にして立ち上がる。
「たかが一回振ったくらいで……へこたれてたまるかよ……!」
俺は、あの『死』の恐怖を知っている。トラックに轢かれたあの一瞬の暗闇。そして、ゲームの中でヴェルトが味わう焼身の苦しみ。それに比べれば、鼻血くらいなんだと言うんだ。
俺は再び構えた。息を吸い、腹(贅肉)に力を込め、振る。
二回目。三回目。十回目。
腕の感覚がなくなってくる。肺が焼け付きそうだ。だが、俺は止まらない。いや、止まれない。
なぜなら――。
【筋力】3 → 4 【筋力】4 → 5
視界の端に表示されるステータスウィンドウが、振るたびに更新されていくからだ。通常、素振りだけで筋力を上げるには、数百、数千回の反復が必要だ。だが、この『10倍バグ』の前では、十数回の素振りが、数百回のトレーニングに匹敵する効果を生み出している。
楽しい。苦しいけれど、最高に楽しい。努力が、数値という目に見える形で、即座に裏切らずに返ってくる。これぞRPGの醍醐味だ。レベリング中毒者の血が騒ぐ。
「九十……九っ!ひゃ……くっ!!」
百回目の素振りを終えた瞬間。俺の手から木刀がすっぽ抜け、数メートル先に飛んでいった。そして俺自身も、糸が切れた操り人形のようにその場に崩れ落ちた。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
大の字になって空を見上げる。指一本動かせない。全身が鉛のように重い。だが、脳内にはファンファーレが鳴り響いていた。
ピロリン♪
【スキル】<剣術 Lv.1>を習得しました 【筋力】3 → 12 【防御】2 → 5
たった一回の稽古で、筋力が4倍になった。さらに、戦士系の必須スキル『剣術』まで覚えた。これは本来、兵士たちが数ヶ月の訓練を経てようやく習得するものだ。
「……化け物かよ、俺」
自分の才能に戦慄しつつ、俺はニヤリと笑った。
と、その時。庭の植え込みが、ガサガサと激しく揺れた。
「ん……?」
風ではない。何かがいる。野良猫か?それともウサギか?癒しが欲しい俺は、少しだけ体を起こして植え込みの方を見た。
――そして、後悔した。
ガサァッ!!
植え込みを食い破って現れたのは、猫でもウサギでもなかった。
体長1メートルほどもある、巨大な昆虫。鎌のような前脚、鋼鉄のように硬そうな甲殻、そしてギョロリとした複眼。『キラーマンティス』の幼体だ。
「……は?」
思考が停止する。なんで?ここは貴族の屋敷の庭だぞ?なんでモンファンの大型虫みたいなのが湧いてるんだよ!
キチチチチッ!
マンティスが俺を認識し、翅を鳴らして威嚇する。その鎌は、子供の首くらいなら容易く切断できそうなほど鋭利だ。
「う、わ……!動けない」
筋肉痛と、本能的な恐怖で、体がすくむ。ゲーム画面で見るのと、実物を見るのとでは訳が違う。殺気だ。純粋な捕食者の殺気が、俺に向けられている。
死ぬ。チュートリアル開始前に、雑魚モンスターに食われて死ぬ!
マンティスが地面を蹴り、俺に向かって跳躍した。スローモーションのように鎌が迫る。
「――失礼」
ヒュンッ。
風切り音と共に、銀色の閃光が走った。
ボトッ。
空中で真っ二つに両断されたマンティスが、俺の目の前に落ちる。緑色の体液を撒き散らし、ピクピクと痙攣して絶命した。
「……庭師に言っておかねばなりませんね。害虫駆除が甘い、と」
俺の横には、懐から取り出したナイフを一振りした体勢のまま、涼しい顔をしているセバスチャンがいた。ナイフには一滴の血もついていない。神業だ。
「せ、セバス……」
「お怪我はありませんか、ヴェルト様」
セバスチャンがハンカチで俺の顔に飛んだ体液を拭ってくれる。俺は腰が抜けたまま、ただコクコクと頷くことしかできなかった。
……思い知らされた。ステータスが上がった?スキルを覚えた?だからなんだ。俺はまだ、ただの「素振りができるようになったデブ」に過ぎない。
この世界は、屋敷の庭にすらこんな化け物が出る『修羅の国』なのだ。Lv.40の元騎士・セバスチャンがいなければ、俺は今頃カマキリの餌になっていた。
勇者アレク。あいつは、こんな世界を旅して、魔王を倒すような奴だ。生半可な覚悟じゃ、3年後どころか明日生き残れるかも怪しい。
「……セバス」
「はい」
「明日からは、走り込みの量を倍にする。……あと、そのナイフの使い方も教えろ」
俺は震える手で、真っ二つになったマンティスの死骸を睨みつけた。恐怖はある。吐きそうだ。だが、それ以上に「強くなりたい」という渇望が、腹の底から湧き上がってきた。
「……かしこまりました。ですがその前に、お風呂に入って泥と……その、虫の汁を洗い流しましょう」
セバスチャンは苦笑して、俺を抱き上げた。お姫様抱っこだ。10歳児とはいえ、この巨体(推定60キロ)を軽々と。やっぱすげぇよ、レベル40。
俺はセバスチャンの胸に顔を埋め、密かに誓った。いつか絶対に、この爺さんより強くなってやる、と。
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