2. 豚の疾走(ポーク・ラン)
シーン……。
俺の決死の土下座(DOGEZA)に対し、返ってきたのは静寂だった。
まあ、無理もない。昨日まで「肉が硬い」だの「水がぬるい」だのと暴れ、メイドへ平気で手を上げていたクソガキが、一夜明けて使用人の前へ頭を擦りつけているのだ。
俺が逆の立場なら、「こいつ、頭の血管が切れたな」と判断して医者を呼ぶ。
「ヴェ、ヴェルト様……?」
マリアが震える声で俺を呼んだ。
ゆっくりと顔を上げようとするが、腹の肉が邪魔をして、起き上がるだけでも一苦労だった。
(くそ、この体型……早急になんとかしないと、勇者が来る前に日常生活で死ぬぞ)
マリアは片方の指先を押さえている。先ほど落とした水差しの破片で、浅く切ってしまったらしい。
「その指、見せろ」
「え……?」
「破片で切ったんだろ。セバス、先にマリアの手当てをしてやってくれ」
「こ、この程度でしたら、大丈夫です!」
「大丈夫かどうかは、傷を見てから決める」
俺が言うと、マリアは信じられないものを見るように目を見開いた。
セバスチャンも一瞬だけこちらへ視線を向けたものの、何も言わずに懐から清潔な布を取り出す。傷口を確かめ、手早くマリアの指先へ巻きつけた。
「浅い傷でございます。すぐに塞がるでしょう」
「そ、そうか。よかった」
俺が胸を撫で下ろすと、マリアはますます困惑した顔になった。
昨日まで自分を傷つけていた人間が、今日は指先の切り傷を心配しているのだ。警戒するなという方が無理なのだろう。
「驚かせてすまない。だが、俺は本気だ」
せめて割れた水差しの片づけくらいは手伝おうと、床へ散らばった破片へ手を伸ばす。
「お、お待ちください!」
マリアが慌てて制止した。
しかし、その声が届くより早く、指先が破片の鋭い縁へ触れた。
「痛っ……」
皮膚が浅く切れ、赤い血が滲む。
「ひっ!?」
マリアが再び青ざめた。
俺は指先の血を見つめながら、この突然の変わりようを説明するための言葉を探した。
「痛みで……目が覚めたんだ」
「目が……?」
「昨晩、夢を見た。俺が誰からも愛されず、恨まれ、最後には炎に包まれて死ぬ夢だ。熱かった。痛かった。……怖かった」
夢という部分は方便だ。
だが、炎の中で死ぬヴェルトを、ゲームのイベントムービーで何度も見たのは事実である。そして今、その未来は三年後に自分を待っている。
演技のつもりで口にしたはずなのに、最後の一言だけは本当に震えた。
俺の声を聞き、セバスチャンの片眼鏡が光を反射する。
「……左様でございますか」
彼は表情を変えず、俺の指へも布を巻くと、淡々と割れた破片を片づけ始めた。
当然、まだ信用されてはいない。
たった一度の土下座で、それまで積み重ねてきた悪行が帳消しになるほど、世の中は甘くない。
それでも、マリアの怯えはほんの少しだけ和らいだように見えた。
信頼度がマイナス百からマイナス九十九になった程度かもしれないが、それでも前進には違いない。
◆
朝食を終えた俺は、屋敷の広大な庭へ出ていた。
脂っこいベーコンとパンケーキが山のように並んでいたものの、心を鬼にして半分だけ残した。食べ物を無駄にする罪悪感はあるが、今の身体へすべて詰め込めば、脂肪という名の防具がさらに分厚くなってしまう。
目的は、現状の身体能力の確認と、基礎体力――HPの向上だ。
「まずは、今の身体がどれくらい動くのかを知らないとな」
準備運動を一通り済ませ、庭の端から端まで走ってみることにした。
距離にして、およそ五十メートル。
前世の俺なら、息を切らすほどの距離でもない。
「よし……行くぞ。スタート!」
地面を蹴った。
――蹴ったつもりだった。
ドスッ、ドスッ、ドスッ、ドスッ。
遅い。
絶望的に遅い。
走っているというより、巨大な肉塊が重力に従って前へ転がっているようなものだ。全身の贅肉が上下左右へ暴れ回り、胸の肉まで揺れて痛い。
どういう身体構造だ、これは。
「はぁ、はぁ……ぐえっ!?」
二十メートル地点で、心臓が早鐘を打ち、肺が悲鳴を上げた。
足がもつれる。
敏捷一の弊害が、早くも牙を剝いた。
ズデーン!!
俺は盛大に地面へ転がった。
「がはっ……ぜぇ、ぜぇ……!」
仰向けのまま空を見上げる。
青い。
腹立たしいほど、爽やかに青い。
たった二十メートル走っただけで、こちらは死にかけているというのに。
「大丈夫ですか、ヴェルト様」
いつの間にか庭の隅へ控えていたセバスチャンが、タオルと水を持って近づいてきた。
相変わらず仕事が早い。
「……ああ。問題ない。ただの準備運動だ」
震える足で立ち上がり、差し出されたタオルで汗を拭う。セバスチャンは怪訝そうに眉を寄せていた。
「一体、何をなされているのですか? 突然、庭を走り始めたりして」
「……ダイエットだ」
「はい?」
「このままじゃ、俺は早死にする。だから、身体を鍛えることにした」
真剣な目で見返すと、セバスチャンは一瞬だけ虚をつかれたような顔をした。
しかし、すぐにいつもの無表情へ戻り、恭しく頭を下げる。
「……左様でございますか。健康的で、よろしいかと存じます」
言葉は丁寧だが、その目は「どうせ三日坊主でしょう」と語っていた。
(見てろよ、ジジイ。ゲーマーの反復作業への耐性を舐めるな)
俺は再び、庭の端へ戻った。
ゲーム『ドラファン』には、通常のレベルアップとは別に、行動によって能力値が成長する隠し仕様がある。
走れば敏捷。
身体を限界まで追い込めばHP。
剣を振れば筋力。
攻撃や衝撃へ耐えれば防御力。
それぞれ微々たるものだが、繰り返した行動に応じて関連する能力が上昇する。いわゆる熟練度システムに近いものだ。
本来なら、気の遠くなるほどの反復作業が必要になる。
同じ走り込みを百回繰り返して、敏捷が一上がるかどうか。普通のプレイヤーなら、効率が悪すぎて途中で投げ出す。
だが、俺には成長率十倍がある。
「うおおおおおおお!!」
俺は走った。
何度も足をもつれさせ、転びそうになるたびに踏ん張り、息を整えてまた走った。
肺が焼けるように熱い。
膝は笑い、汗が滝のように流れ続ける。
屋敷の窓から、使用人たちがこちらを眺めていた。
「坊ちゃんが、またご乱心を……」
「今度は庭を走り回っているぞ」
「何か悪い物でも召し上がったのかしら……」
そんな囁きが聞こえてくる。
(知ったことか! 俺は生きるんだ!)
三年後に笑って生き残るためなら、今はどれだけ泥まみれになっても構わない。
午前中いっぱい走り続け、最後の往復を終えたところで、俺は自分から地面へ仰向けになった。
視界が白い。
意識まで飛びかけた、その時。
ピロン♪
脳内へ、待ち望んでいた電子音が鳴り響いた。
「……ステータス、オープン……!」
地面に大の字になったまま、ウィンドウを開く。
【敏捷】1 → 6
【HP】15 → 20
【スキル】<忍耐 Lv.1>を習得しました
「……ははっ」
乾いた笑いが漏れた。
たった半日だ。
半日走っただけで、敏捷が五も上がった。普通のキャラクターなら、レベルを数回上げてようやく届く成長幅だ。
おまけに、スキルまで習得している。
バグ万歳。
手抜き工事万歳。
このペースで鍛え続ければ、三年後までに勇者を超えられるかもしれない。
「ヴェルト様、昼食の準備が整いました」
セバスチャンの声で現実へ引き戻された。
身体を起こそうとするが、全身が鉛のように重い。筋肉痛が、発生時刻を待たずに先回りしてきたようだった。
「……セバス。すまん、手を貸してくれ」
俺が手を伸ばすと、セバスチャンはほんの一瞬だけためらった。
それから、しっかりと俺の手を握り、引き上げてくれる。
その手は、意外なほど温かかった。
「……午後は剣術の稽古をする。木刀を用意しておけ」
荒い息を整えながら命じる。
膝は笑い、肺はぜいぜいと悲鳴を上げていた。立っているだけでも精一杯で、普通なら午後は泥のように眠るべき状態だろう。
「……本気でございますか?」
セバスチャンが、片眼鏡の奥の目を僅かに見開いた。
無理もない。
昨日まで「箸より重い物は持ったことがない」と豪語していた肥満児が、自分から剣を握ると言い出したのだ。
「ああ。俺は生まれ変わるんだ。……最強にな」
泥だらけの俺は、引きつりかけた顔で、それでも不敵に笑ってみせた。
これは強がりだけではない。
この世界の理不尽な運命を、力ずくでねじ伏せるための宣戦布告だ。
セバスチャンの口元が、ほんの僅かに動いた。
笑ったのか。
呆れただけなのか。
今の俺には、まだ判断できない。
ただ、朝まで向けられていた氷のような視線とは、少しだけ違って見えた。
「かしこまりました。では、子供用の中で最も『重い』木刀をご用意いたします」
「おい」
「それと、稽古後すぐに倒れられてもよいよう、お風呂と湿布の準備も済ませておきましょう」
「……フン。気が利く執事だ」
午前の走り込みは、予想を遥かに上回る成果だった。
午後は剣術。
目指せ、脱・肥満児。
目指せ、打倒勇者。
だが、その前にもう一つ、避けては通れない戦いが待っていた。
昼食である。
◆
ダイニングテーブルへ並べられていたのは、山盛りのグリーンサラダと、薄い塩味で茹でられた鶏のささ身。そして、申し訳程度の全粒粉パンだった。
昨日までの脂ぎった厚切りベーコンや、クリームたっぷりのポタージュは影も形もない。
どうやら、朝の「ダイエット」という言葉を聞いたセバスチャンが、すぐに料理長へ指示を出したらしい。
(……これが、俺の昼飯か……?)
フォークを持ち上げた瞬間、十年間甘やかされ続けた胃袋が、脳内で猛烈な抗議を始めた。
『ふざけるな! 肉をよこせ! 脂を飲ませろ! 糖分が足りない! こんな草と消しゴムみたいな肉で、このわがままボディを維持できると思っているのかァァァッ!!』
強烈な飢餓感が襲ってくる。
胃袋がキュルルルと抗議の声を上げ、フォークを持つ手まで震え始めた。目の前のサラダはただの雑草に、ささ身は味のしないゴムに見える。
視界の端では、指先へ白い布を巻いたマリアが、恐る恐る俺の様子を窺っていた。
ここで皿をひっくり返せば、彼女はまた昨日までのヴェルトを思い出すだろう。せっかく一つ減らした死亡フラグが、倍になって戻ってくる。
(黙れ、贅肉! これも修行だ!)
震える手でサラダへフォークを突き刺し、口へ運んだ。
バリボリ。
味気ない音。
青臭い葉の味。
「……う、美味い」
血の涙が出そうだった。
それでも俺は、精神力だけでサラダを飲み込んだ。
これも戦いだ。
勇者と戦う前に、まずは自分自身の脂肪――いや、欲望に勝たなければならないのだから。
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