1. チュートリアルの噛ませ犬
「あ、これ死んだな」
2025年、某月某日。時刻は二十三時を少し過ぎた頃。
残業帰りの疲れた身体を引きずり、コンビニで買った夜食の袋をぶら下げて横断歩道を渡っていた時だった。
俺、相川徹の人生は、赤信号を無視して交差点へ突っ込んできた大型トラックによって、唐突に幕を下ろした。
鼓膜を引き裂くようなブレーキ音。
夜の街の光を反射しながら迫ってくる巨大な車体。目を覚ました運転手が血相を変えてハンドルへしがみついているのが、妙にゆっくりと見えた。
次の瞬間、経験したことのない衝撃が全身を貫いた。
身体が木の葉のように宙を舞い、これはもう取り返しがつかないのだと、嫌でも理解した。
痛みは一瞬だった。
熱いとも冷たいともつかない感覚が突き抜け、視界がテレビの電源を切ったように暗転する。走馬灯を見る暇すらなく、意識が途絶えた。
享年二十五歳。
職業、しがないサラリーマン。
来る日も来る日も理不尽なクレーム処理とサービス残業に追われる、代わり映えのしない毎日だった。
趣味はゲーム。それだけが唯一の救いであり、俺のアイデンティティでもあった。
一度のミスが死へ直結する高難易度のアクションRPGや、地図を埋めるだけで数日を費やすようなレトロファンタジーRPGを、骨の髄までしゃぶり尽くすことに生きがいを感じていた。
彼女なし。貯金少々。やり残したゲーム多数。
積みゲーの山は、そろそろ天井へ届きそうだった。
(……無念だ。あまりにも無念すぎる。俺の人生って、いったい何だったんだ)
せめて発売予定の『モンファン』の新作と、リメイク版『ドラファン』の隠しダンジョン、その最深部にいるという隠しボスを倒してから死にたかった。
そのためだけに半年も前から仕事を調整し、来週は奇跡的に有給を取る予定だったのだ。エナジードリンクだって買い込んだ。
昨日の夜、自分へのご褒美に買った、ちょっと高いプリンも冷蔵庫に残っている。
切実な未練が、深い闇の中へ溶けていく。
そして、俺の意識は完全に闇へ呑まれた――。
◆
「……様! ……ヴェルト様!」
「ん……うーん……」
柔らかい。
背中にあるのは、冷たく硬いアスファルトの感触ではない。雲の上へ寝かされているような、高級羽毛布団の感触だ。
鼻をくすぐるのは、ほのかな香水と清潔なリネンの香り。
(……ここは病院か? いや、病院にしては寝心地が良すぎるぞ。個室か? 差額ベッド代、いくら取られるんだよ……)
重いまぶたをゆっくりと押し上げる。
視界へ飛び込んできたのは、無機質な白い天井でも、点滴の袋でもなかった。
深紅のベルベットで作られた天蓋と、その向こうで輝く豪華なシャンデリア。
「……は?」
思考が止まった。
俺はトラックに轢かれたはずだ。下手をすれば原形すら残っていないような衝撃だった。
それなのに、どうして中世貴族の屋敷みたいな場所で寝ている?
「お目覚めになりましたか、ヴェルト様」
横から聞こえてきたのは、抑揚のない冷ややかな声だった。
ギギギ、と油の切れた人形のように首を巡らせる。
そこには、燕尾服を着た初老の男性が立っていた。
白髪交じりの髪を後ろへ撫でつけ、片眼鏡をかけた、いかにも「ザ・執事」といった風貌の男だ。
「……誰だ、あんた」
俺の言葉を聞いた瞬間、執事の眉が不快そうに跳ねた。
侮蔑と諦めが入り混じった、汚物を見るような目で俺を見下ろしている。
「……寝ぼけておいでですか? 執事のセバスチャンでございます。昨晩、『夕食の肉が硬い!』と癇癪を起こして暴れ回り、そのまま興奮して気絶されたのですよ」
ヴェルト様?
セバスチャン?
癇癪?
何の話だ。俺は相川徹だぞ。
肉が硬い程度で気絶するほど軟弱ではない。むしろスルメイカは大好物だ。
強烈な違和感を覚え、視界の端にある自分の手へ目を向けた。
「なんだ、これ……?」
そこにあったのは、見慣れた大人の手ではなかった。
白く、むくみきった、まるでクリームパンのような丸い手。
恐る恐る布団をめくる。
現れたのは、腹の肉が邪魔で足元すら見えないほど肥え太った、樽のような子供の身体だった。
「うわあああああっ!?」
悲鳴を上げながらベッドから転がり落ちる。
ドスンッ!!
重量感のある音が部屋へ響き、床まで僅かに揺れた。
「っ……!」
痛い。
夢ではない。
俺は慌てて立ち上がり、部屋の隅にある姿見へ走った。
ドタドタドタドタ。
走るたびに全身の贅肉が波打つ。
重い。息が切れる。数歩移動しただけなのに、心臓が早鐘を打っている。
姿見の前まで辿り着き、俺は絶句した。
そこに映っていたのは――。
手入れされた金髪の巻き毛。
贅肉に埋もれかけた、生意気そうな青い目。
高級そうではあるものの、パツパツに張り詰めて悲鳴を上げているシルクの寝間着。
年齢は、十歳前後だろうか。
見るからに性格の悪そうな、我儘を絵に描いたような肥満児だった。
「う、嘘だろ……」
俺は、この顔を知っている。
鏡の中にいるブタ――いや、少年を指差し、震える声で叫んだ。
「ヴェルト・フォン・アークライトじゃねーか!!」
思わずフルネームを叫んでしまったが、間違いない。
こいつは俺が生前、何周もやり込んだアクションRPGの金字塔『ドラグーン・ファンタジア』、通称『ドラファン』に登場するキャラクターだ。
ただし、主人公ではない。
仲間になる善人でもない。
ゲーム開始直後、プレイヤーへ操作方法を教える「チュートリアル章」。
ヴェルトは主人公の故郷を支配する悪徳領主の息子として登場し、重税を課して民を苦しめ、あろうことか主人公の幼馴染を「俺の側室にする」と言って攫おうとする。
そして最終的には、怒りによって覚醒した主人公――勇者アレクにボコボコにされた挙句、イベントムービーで屋敷ごと炎に包まれて死ぬ。
所要時間、ゲーム開始から約一時間。
プレイヤーに「この世界の理不尽さ」と、それを打ち破る「爽快感」を与えるためだけに用意された、正真正銘の噛ませ犬だ。
それが、今の俺だった。
「……詰んだ」
俺は鏡の前へ崩れ落ちた。
転生したのはいい。百歩譲って悪役なのもいい。
だが、よりによって「チュートリアルで死ぬ奴」はないだろう。
寿命が短すぎる。
せめて中ボスくらいにはしてくれよ!
今の俺は十歳。
ゲームが始まり、ヴェルトが死ぬのは十三歳。
つまり、残された時間はあと三年。
三年後には正義の勇者アレクによって物理的に排除され、屋敷と一緒にキャンプファイヤーの薪になる運命だ。
「冗談じゃねぇ……死んでたまるかよ!」
俺は勢いよく顔を上げた。
冷ややかな目でこちらを見ているセバスチャンを無視し、脳をフル回転させる。
生き残る方法は一つ。
勇者アレクに倒されないことだ。
心を入れ替えて善政を敷く?
いや、それだけでは危険すぎる。
少なくともゲーム序盤のアレクは、「悪徳領主の息子」という肩書だけで斬りかかってくるような、悪即斬を地で行く脳筋主人公だった。イベントフラグは鋼鉄より硬い。
なら、夜逃げするか。
それも無理だ。
この世界の街の外は、現代で人気だった狩猟ゲーム『モンファン』並みに過酷な大自然である。
飛竜が空を飛び、魔獣が地を駆ける弱肉強食の世界。
レベル一の肥満児が一人で外へ出れば、三秒で軽食にされて終わるだろう。
戦うしかない。
生き残るには、勇者アレクを返り討ちにできるだけの力が必要だ。
「ステータス・オープン!」
俺は虚空へ向かって叫んだ。
転生者なら見えるはずだ。
お約束だろう!?
頼む、あってくれ!
フォン、という電子音とともに、半透明のウィンドウが目の前へ浮かび上がった。
【名前】ヴェルト・フォン・アークライト
【年齢】10歳
【職業】領主の息子(悪)
【レベル】1
【HP】15
【MP】2
【筋力】3
【防御】2
【敏捷】1
【知力】5
【運】1
……ゴミだ。
産業廃棄物だ。
スライムにすら苦戦するレベルのゴミステータスだ。
敏捷一って何だよ。カメかよ。この脂肪が常時デバフになっているのか?
「くそっ、やっぱり噛ませ犬仕様か……! 初期値が低すぎる!」
だが、まだ諦めるのは早い。
ゲーマーの執念を舐めるな。
俺は『ドラファン』を何周もプレイし、攻略に必要な情報や検証結果なら、設定資料まで漁って頭へ叩き込んでいる。
詳細タブを開き、隠し項目である『成長適正』を確認した。
このゲームでは、キャラクターごとにレベル上限とステータスの上昇限界が設定されている。
村人Aならレベル十が限界、といった具合だ。
ヴェルトのような使い捨ての序盤キャラクターなら、せいぜいレベル五程度で打ち止めのはず。
震える指で、詳細タブを押した。
【成長適正】
【レベル上限】∞(設定なし)
【ステータス上昇率】補正値:×10.0(デバッグ用)
【スキル習得上限】なし
「……は?」
我が目を疑った。
レベル上限、なし?
成長率、十倍?
勇者ですら二倍程度なのに?
その時、開発者インタビューで語られていた裏話を思い出した。
『「あ、そのキャラ設定適当でいいよ」って主任が言ったんですよ。まあ、ヴェルトは序盤マップの動作確認にも使っていたので、成長率を十倍にしたり、いろいろ弄っていたんです。どうせレベル1のまま退場するキャラですし、レベル上限やスキル習得枠を正式値へ戻す作業も省きました。開発工数の削減ですね(笑)』
「開発陣ーーーーーッ!!」
ありがとう。
そして、ざまあみろ。
お前たちの手抜きによって、とんでもない怪物が生まれようとしているぞ!
本来のヴェルトは、経験値を得る機会もなく死ぬ。
だが、中身が俺なら話は別だ。
レベルを上げさえすれば、勇者の五倍に相当する成長補正で、原作主人公を遥かに上回るステータスを手に入れられる。
「勝てる……! これなら勝てるぞ!」
鏡の前で不気味な笑みを浮かべていると、部屋の扉が控えめに叩かれた。
コンコン。
「……失礼いたします、ヴェルト様。お目覚めのお水をお持ちしました」
入ってきたのは、メイド服を着た少女だった。
栗色の髪に、怯えた小動物のような瞳。
名前は確か、マリア。
ゲームではヴェルトから虐待され続け、最後には彼を裏切り、勇者へ屋敷の鍵を渡す重要人物だ。
マリアは震える手で銀の盆を持ち、俺へ近づいてくる。
食器が、カタカタと音を立てていた。
相当怖いらしい。
そして、白く柔らかそうな頬には、昨日までのヴェルトがつけたのであろう、痛々しい平手打ちの痕が残っていた。
(……ああ、クソ)
胸が痛んだ。
俺は、こんな少女を虐めるような趣味はない。断じてない。
それに、このまま恨まれ続けて原作どおり裏切られたら、死亡フラグが加速するだけだ。
まずは、足元から固める。
傲慢な悪徳領主の息子を演じ続けていれば、三年後には勇者襲来イベントが起きる。
その時、屋敷の構造を知り尽くしたマリアが敵へ回れば、俺の生存確率は限りなくゼロへ近づく。
どれだけ強くなっても、眠っている間に扉を開けられ、寝首をかかれたら意味がない。
俺は姿見の前から離れ、ドス、ドス、ドス、と重量級の足音を響かせながら、マリアの正面へ立った。
「ひっ……!」
マリアが小さな悲鳴を上げ、反射的に身構えた。
華奢な肩が震え、きつく目を閉じる。
また殴られると思ったのだろう。
瞳の端には、恐怖から生まれた涙が浮かんでいた。
俺という存在が、彼女にとってどれほど大きな恐怖だったのか。その反応だけで、嫌というほど伝わってくる。
(怖がらせてすまない。だが、今までの俺とは違うと伝えなきゃ始まらない)
俺は、その場へ膝をつこうとした。
だが、推定六十キロを超える脂肪を纏った十歳児にとって、その動作は「屈む」というより「崩落」に近かった。
ズドンッ!!
膝が床へ激突し、部屋全体が揺れるような振動が走った。
膝蓋骨が悲鳴を上げ、腹の肉に肺を圧迫され、息が止まりそうになる。
それでも、俺は止まらなかった。
両手を床へつき、脂汗の浮かんだ額を、高級な絨毯へめり込ませる勢いで擦りつける。
そう。
貴族としてのプライドも、領主の息子という立場も、すべてかなぐり捨てた――ジャパニーズ・DOGEZAだ。
「え……?」
頭上から、マリアの間の抜けた声が落ちてきた。
背後に控えていた鉄仮面のセバスチャンすら、息を呑んでいる気配がする。
無理もない。
この世界の常識では、貴族が使用人へ頭を下げるなど、天変地異が起きてもあり得ないことなのだろう。
俺は腹の肉に肺を潰されそうになりながら、残った息をすべて使い、全力で叫んだ。
「すまん!! 今まで本当にすまなかった!!」
絨毯へ顔を埋めたまま、続ける。
「俺は心を入れ替える! もう二度とお前に暴力は振るわない! 八つ当たりもしない! だから……ッ!」
顔を上げる。
涙と脂汗でぐしゃぐしゃになった顔で、呆然としている少女を見上げた。
「水を持ってきてくれて、ありがとな!!」
「は、はぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」
マリアの口から、可愛らしい容姿には似合わない、素っ頓狂な叫び声が上がった。
思考回路が完全に止まったのだろう。
その手から力が抜け――。
ガシャンッ!
銀の盆が滑り落ち、高価なクリスタル製の水差しが床で粉々に砕け散った。
水と破片が辺りへ飛び散る。
だが、誰もそれを咎めなかった。
ただ、異様な静寂だけが部屋を支配していた。
こうして、死亡フラグをへし折るための、悪徳領主のドラ息子――十歳、肥満児――による、プライドを捨てた過酷なレベル上げの日々が幕を開けたのだった。
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