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2. 豚の疾走(ポーク・ラン)

シーン……。


 俺の決死の土下座(DOGEZA)に対し、返ってきたのは静寂だった。まあ、無理もない。昨日まで「水がぬるい!」と暴れてメイドを殴っていたクソガキが、一夜明けて地面に頭を擦り付けているのだ。俺が逆の立場なら「あ、こいつ頭の血管が切れたな」と医者を呼ぶ。


「ヴェ、ヴェルト様……?」


 マリアが震える声で俺を呼ぶ。俺はゆっくりと顔を上げた。腹の肉が邪魔で起き上がるのも一苦労だ。くそ、この体型、早急になんとかしないと日常生活で死ぬぞ。マリアは指を抑えていた。落とした水差しの破片で切ったのだろう。


「驚かせてすまない。だが、俺は本気だ」


 俺は散らばった水差しの破片を拾おうとして――マリアが慌てて制止するより早く、破片の一つを手に取り、自分の指先を少し切った。


「ひっ!?」


「痛みで……目が覚めたんだ」


 俺は指先から滲む血を見つめながら、できるだけ真剣な(この脂肪まみれの顔でできる精一杯の)表情を作る。


「昨晩、夢を見た。俺が誰からも愛されず、恨まれ、最後は炎に包まれて死ぬ夢だ。……熱かった。痛かった。怖かった」


 これは嘘じゃない。ゲームのイベントムービーで何度も見た光景だ。俺の迫真の演技(と、豚の悲哀)に、セバスチャンの片眼鏡がキラリと光った。


「……左様でございますか」


 セバスチャンは表情を変えず、淡々と割れた破片を片付け始めた。まだ信用はされていない。当然だ。信頼回復には時間がかかる。だが、マリアの怯えが少しだけ――ほんの少しだけ和らいだ気がした。


 とりあえず、第一段階クリアということにしておこう。


         ◆  


 朝食(脂っこいベーコンとパンケーキの山だったが、心を鬼にして半分残した)を終えた俺は、屋敷の広大な庭に出ていた。


 目的は一つ。現状のスペック確認と、基礎体力の向上だ。


「まずは、今の身体能力を知る必要がある」


 俺は準備運動もそこそこに、庭の端から端まで走ってみることにした。距離にして約50メートル。前世の俺なら、数秒で駆け抜けた距離だ。


「よし……行くぞ! スタート!」


 俺は地面を蹴った。……蹴ったつもりだった。


 ドスッ、ドスッ、ドスッ、ドスッ。


 遅い。絶望的に遅い。走っているというより、肉塊が重力に従って転がっているに近い。全身の贅肉がブルンブルンと波打ち、暴れまわる。胸の肉が揺れて痛いってどういうことだ。


「はぁ、はぁ、ぐえっ……!?」


 20メートル地点。心臓が早鐘を打ち、肺が悲鳴を上げた。足がもつれる。敏捷値1の弊害がここで出た。


 ズデーン!!


 俺は盛大に転んだ。地面が揺れた気がする。


「がはっ……、ぜぇ、ぜぇ……!」


 空が青い。たかが20メートル走っただけで、死にそうになっている。これが、悪徳領主の息子の現実か。


「大丈夫ですか、ヴェルト様」


 いつの間にか、庭の隅に控えていたセバスチャンが近寄ってきた。手にはタオルと水を持っている。仕事が早い。


「……ああ、問題ない。ただの、準備運動だ」


 俺は震える足で立ち上がり、タオルを受け取って汗を拭った。セバスチャンが怪訝そうに眉をひそめる。


「一体、何をなされているのですか? 急に走り出したりして」


「……ダイエットだ」


「はい?」


「このままじゃ、俺は早死にする。だから体を鍛えることにした」


 俺は真剣な眼差しでセバスチャンを見つめ返した。セバスチャンは一瞬虚をつかれたような顔をしたが、すぐに恭しく頭を下げた。


「……左様でございますか。健康的で、よろしいかと存じます」


 言葉は丁寧だが、その目は「どうせ三日坊主でしょう」と語っている。見てろよ、ジジイ。俺のゲーマー魂を見せてやる。


 俺は再びスタート地点に戻った。


 このゲーム『ドラファン』には、隠された仕様がある。それは『行動によるステータス上昇』だ。レベルアップによる上昇とは別に、走れば敏捷が、剣を振れば筋力が、打たれれば防御力が、微々たるものだが上昇する。いわゆる「熟練度システム」に近い。


 本来なら、気の遠くなるような反復作業が必要だ。100回走って、敏捷が+1されるかどうか。普通のプレイヤーなら、効率が悪すぎてやらない。


 だが、俺には『成長率10倍』がある。


「うおおおおおおお!!」


 俺は走った。転んで、起きて、また走った。肺が焼け付くように熱い。膝が笑っている。汗が滝のように流れる。屋敷の使用人たちが、窓から「坊ちゃんがご乱心だ」とヒソヒソ話しているのが見える。


 知ったことか!俺は生きるんだ!3年後に笑って生き残るために、今は泥にまみれてやる!


 午前中いっぱい、俺は走り続けた。限界を超え、視界が白み、ついに意識が飛びかけたその時。


 ピロン♪


 脳内で、待ちわびた電子音が鳴り響いた。


「……ステータス、オープン……!」


 俺は地面に大の字になりながら、ウィンドウを開く。


 【名前】ヴェルト・フォン・アークライト  【敏捷】1 → 6  【体力】15 → 20  【スキル】<忍耐 Lv.1>を習得しました


「……ははっ」


 乾いた笑いが漏れた。たった半日だぞ?半日走っただけで、敏捷が5も上がった。普通のキャラなら、レベルを3つ上げてやっと届く数値だ。おまけにスキルまで生えてきた。


 バグ万歳。手抜き工事万歳。これならいける。このペースで鍛え続ければ、あるいは――。


「ヴェルト様、昼食の準備が整いました」


 セバスチャンの声で、俺は現実に引き戻された。起き上がろうとするが、体が鉛のように重い。筋肉痛の先取りだ。


「……セバス、すまん。手を貸してくれ」


 俺が手を伸ばすと、セバスチャンは一瞬ためらい、それからしっかりと俺の手を握り、引き上げてくれた。その手は、意外と温かかった。


「……午後は剣術の稽古をする。木刀を用意しておけ」


「……本気、でございますか?」


「ああ。俺は生まれ変わるんだ。最強にな」


 泥だらけの豚(俺)がニヤリと笑うと、セバスチャンは初めて、片眼鏡の奥の瞳を細めて微笑んだような気がした。


「かしこまりました。……お風呂のご用意もさせておきます」


 こうして、俺の地獄の特訓初日は幕を開けた。目指せ、脱・肥満児。目指せ、打倒勇者。


 ……ちなみに昼食のサラダと鶏のささ身を見て「肉(脂身)がない!」と脳内のデブ人格が暴れ出したが、精神力でねじ伏せた。これも戦いである。

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