120.嫉妬のメイドと暗躍する偽聖女
帝都の地下深くに広がる、龍神城・地下宝物庫。
マリアは自らがモップの柄で物理的にぶち抜いた垂直の縦穴を、一切の足音を立てずにふわりと着地した。
暗く、カビと魔力、そして血の入り混じった淀んだ空気が鼻を突く。本来であれば、ここはドラグノフ帝国の英知を集めた最高難易度の防衛機構が幾重にも張り巡らされているはずの絶対禁忌の領域だ。
しかし、マリアの瞳に映るのは、ただの『酷く汚れた空間』でしかなかった。
一歩踏み出した瞬間、石畳に精巧に偽装された感圧板が沈み、四方の壁から不可視の猛毒の矢が嵐のように放たれた。ただの冒険者であれば回避することもできずに蜂の巣になり、即死する凶悪なトラップ。
だが、マリアは表情一つ変えず、愛用のモップを一閃させた。
「……埃が舞いますね」
ただの一振り。それだけで猛毒の矢はすべて粉砕され、仕掛けられた壁の機構ごと衝撃波で木端微塵に吹き飛んだ。彼女にとって、ダンジョンの凶悪なトラップなど、愛する主であるヴェルトの服を汚す可能性のある『埃』以下の存在でしかない。
「ヴェルト様が後からこの道をお通りになるかもしれないというのに、なんと不衛生な。……徹底的に清掃しなければなりません」
メイド服の裾を翻し、さらに奥へ進む。
次々と襲い来る古代の防衛機構。天井から降り注ぐ致死性の酸の雨は、彼女がモップを回転させて生み出した竜巻によって天井へと逆流し、酸を降らせていた魔法陣そのものを溶かし尽くす。
床から飛び出す無数の刃は、彼女のメイド靴に踏みつけられただけで根元からへし折れ、ただの鉄屑へと変わった。
「本当に、次から次へと……。帝国の衛生管理は一体どうなっているのでしょうか」
通路を抜けた先に広がっていたのは、巨大な地下広場だった。
そこに立ち塞がっていたのは、宝物庫の防衛用に配置された、古代竜の骨を繋ぎ合わせたアンデッド・ボーン・ドラゴン。そして、その周囲を固める数十体のミスリル製リビングアーマーたちだった。
生者を感知したアンデッドと魔法生物たちが、一斉に敵意を剥き出しにしてマリアへと襲い掛かる。瘴気を吐き出しながら地響きを立てて咆哮を上げる怪物たちに対し、マリアは淑女の完璧な所作でスカートの裾を軽くつまみ、優雅に一礼した。
「粗大ゴミの回収日は今日ではありませんが、特別に処理して差し上げます。まずは……そこの酷く汚れた鉄屑から」
次の瞬間、マリアの姿が掻き消えた。
「遅い」
ミスリル製の大剣を振り下ろそうとしたリビングアーマーの背後に回り込んだマリアは、モップの柄でその強固な鎧の継ぎ目を的確に突いた。甲高い金属音が響き、内部の魔力核が破壊されたリビングアーマーはバラバラに崩れ落ちる。
それを皮切りに、マリアの圧倒的な蹂躙が始まった。
弾丸のような速度で広場を駆け巡り、モップの柄、素手、蹴り、あらゆる体術を駆使してミスリルの鎧を紙屑のように破壊していく。彼女の動きには一切の無駄がなく、血の通った人間とは思えないほどの冷徹さと精密さがあった。
「残るは、あなただけですね」
数十体のリビングアーマーをわずか数十秒で『清掃』し終えたマリアは、最後に残ったボーン・ドラゴンを見上げる。ボーン・ドラゴンが巨大な顎を開き、強烈な瘴気のブレスを放とうとしたその瞬間。マリアはボーン・ドラゴンの頭上高くへと跳躍していた。
「ヴェルト様の御前で、そのような悪臭を放つことなど絶対に許しません」
モップの柄に全体重と異常な闘気を乗せて、踵落としのように頭蓋骨へと振り下ろす。凄まじい轟音と共に、古代の怪物は一撃で粉砕され、原型を留めないただの骨粉へと変わった。マリアはふわりと着地すると同時に、モップで器用にその骨粉を部屋の隅へと掃き集めながら、小さくため息をつく。
(……それにしても、最近のヴェルト様の周りは騒がしすぎます)
ゴミを片付けながら頭に浮かぶのは、鬱陶しい女たちの顔だ。帝国の皇女サラシュア。彼女は案内役という立場を利用して、事あるごとにヴェルトへ熱を帯びた視線を向けている。魔導の天才クリス。論理などと賢しらな口を叩きながら、その実、隙あらば彼の傍を陣取ろうとする。生徒会長アリシア。正義という大義名分を隠れ蓑にして、ヴェルトを追い回すことしか頭にないうるさい狂犬。さらには、王都に残してきた者たち。
(どいつもこいつも、ヴェルト様の真の気高さも恐ろしさも理解していないくせに……。気安くお側に寄るなど、不敬にも程があります)
胸の奥でチリッと、どす黒い感情が焦げる音がした。ヴェルトが自分を絶望から救い出し、アークライト家のメイドという生きる意味を与えてくれた。あの気高く恐ろしい主の本当の姿を知っているのは、世界でただ一人、自分だけだという自負がある。
だが、マリアはその独占欲と激しい嫉妬心を、冷たい理性で無理やり押さえ込んだ。彼女たちがどれほど目障りな泥棒猫でも、同行を許しているのはヴェルト自身なのだ。ただのメイドである自分が、主の決定に口を挟むことなど絶対に許されない。
「……いけませんね。つまらないことを考えてしまいました。今は清掃に集中しなければ」
思考を振り切り、さらに地下へと続く隠しルートの奥へ進むと、そこには明らかに人の気配があった。
「な、なんだお前は!?どうやってここまで入ってきた!」「女……いや、ただのメイド?なんでこんなところに?...だがここを見られた以上、生かしてはおけん!」
ライバルドの私兵らしき武装した男たちが、マリアの姿を見るなり武器を構えて殺気を放ち、襲いかかってくる。どうやらこの隠し通路を利用して、ダンジョンの奥底で暗躍していた者たちらしい。
「……生ゴミまで落ちているとは。帝国の衛生管理は最悪ですね」
マリアの冷酷な呟きが通路に響く。
それは戦闘ですらなかった。ただの圧倒的な暴力による蹂躙、あるいは文字通りの『清掃作業』だった。「ば、化け物……ッ!」という男たちの絶叫はすぐに途絶え、数分後、そこには悲鳴の余韻すら残っていなかった。
マリアはモップの柄にこびりついた血糊を無表情に振り払い、周囲に転がるピカピカに『掃除』された男たちを見下ろした。
「……出てきなさい。先ほどからヴェルト様を害そうとする、極めて不快なドブネズミの悪臭が漂っていますよ」
マリアが冷たい声で闇の奥を睨みつけると、コツン、コツンと軽い足音を響かせながら一人の女が姿を現した。
「ふふっ。お掃除ご苦労様、優秀なメイドさん」
闇の中から現れたのは、慈愛に満ちた修道服に身を包んだ女。教会の暗部を束ねる長であり、今はアレクを操るための偽りの聖女として君臨するメルフィだった。
「なぜ教会の犬がこんな所にいるのです?……まぁ、理由は後であなたの脳髄を開いて直接確認します。ヴェルト様の視界に入る前に、ここで微塵切りにして差し上げます」
一切の容赦なく殺気を放つマリアに対し、メルフィは全く動じることなく、むしろ愉快そうに目を細めた。
「怖い怖い。でも、あなたのその目……私にはよく分かるわ。忠誠という綺麗な布で隠しているけれど、その裏でドロドロに渦巻く、醜くて愛おしい『嫉妬』の色が」
「……何を言っているんですか?」
「可哀想なメイドさん。あなたがどれだけ手を汚してあの悪徳領主を守っても、結局彼の隣で笑っているのは血筋の良いお姫様や、特別な才能を持った女たちばかり。あなたがどれほど忠誠を誓おうと、所詮あなたはただの『使用人』……次から次へと湧いてくる泥棒猫たちが彼と親しげに話すたびに、あなたの心は焼け焦げそうになっているのではないかしら?」
メルフィの甘く囁くような言葉に、マリアの表情が僅かに歪んだ。図星だった。マリアの心の中には常に、ヴェルトに群がる女たちへのどす黒い劣等感と感情が渦巻いていたのだ。
「……下等な犬が、口を慎みなさい。私はただのメイド。ヴェルト様にお仕えできれば、それで」
「嘘ね。本当は彼女たちを全員排除して、彼を独り占めしたいと思っているくせに」
メルフィがスッと手を掲げると、その掌の上で禍々しい黒い結晶が脈打つように光り始めた。
「なっ……それは……ッ!」
「第一皇子ライバルドに与えた『嫉妬の魔神の心臓』……その欠片よ。この宝物庫の最深部でこれを見つけた時、とても面白いことを思いついたの。これを、この世界で最も深く純粋な『嫉妬』を抱えるあなたに与えたら、一体どんな美しい怪物が生まれるのかしらって」
「ふざけるなッ!」
マリアが地面を蹴り、モップを構えて踏み込もうとした瞬間。
黒い結晶が意思を持つようにメルフィの手から弾け飛び、凄まじい速度でマリアの胸へと真っ直ぐに突き刺さった。
「がッ……あぁぁぁぁぁッ!?」
心臓に直接入り込んだ呪物が、マリアの中で押し殺されていた感情を爆発的に増幅させる。
「ふふふっ。抗わなくていいのよ。あなたの心の奥底にある黒い炎を、その欠片が解き放ってくれるわ。あなたの主人の周りにいる邪魔な泥棒猫たちをすべて掃除して、彼を完全にあなたのものにしてしまいなさい」
「……ふざけ、るな……ッ!」
ガギッという鈍い音が響いた。
マリアは自らの太腿に、モップの柄をへし折ってできた鋭利な木片を深々と突き立てていた。鮮血が飛び散り、激痛によって脳内を侵食しようとする漆黒の霧を無理やり押さえ込む。
「あら?」
「ヴェルト様は……私などより、ずっと気高く……恐ろしい方……。私が……私のちっぽけな感情などで……あのお方の邪魔をすることなど……アークライト家のメイドとして……絶対に……ッ!」
血を吐きながら、マリアはメルフィを恐ろしい形相で睨み返す。
彼女の心にある嫉妬は本物だ。だが、それ以上に「ヴェルトの完璧なメイドでありたい」という矜持と忠誠心が、魔神の呪いすらも凌駕しようとしていた。
「ヴェルト様が……同行を許した者たちです……。どれほど目障りでも……ヴェルト様のお命じにならないなら……私は……ッ!」
「……へえ。凄い精神力ね。でも、いつまで耐えられるかしら?」
メルフィの冷酷な声と共に、心臓の欠片がさらに強く脈打つ。ドクン、ドクンと鳴るたびに、サラシュアの笑顔が、クリスの顔が、アリシアの声が、そしてロザリアや王女達の姿が、マリアの脳内をどす黒く塗り潰していく。
木片を握る手が震え、瞳孔が収縮と拡大を繰り返す。
それでも彼女は歯を食いしばり、自らの皮膚を引き裂きながら、己の中の闇と死闘を繰り広げていた。
「あ……あぁ……ヴェルト、さま……。わたくしは、あなたの……ただ一人の……」
ギリギリまで、本当に最後の最後まで、彼女は血の涙を流しながら主への忠誠にしがみついた。
しかし、その忠誠心が強すぎるが故に。ヴェルトを想う気持ちが重すぎるが故に。
ついに許容量を超えた呪物は、その『巨大な愛』そのものを燃料にして『嫉妬』という名の狂気へと反転させたのだ。
「……ヴェルト、さま……ああ、ヴェルト様……ッ!あの目障りな泥棒猫どもを、私が、すべて……綺麗に、しなければ……ッ!」
マリアの瞳からついに理性の光が完全に消え落ち、代わりに禍々しい漆黒の嫉妬のオーラが全身から嵐のように立ち昇り始める。
愛する主を守るための最強のメイドは、最凶のヤンデレの怪物へと堕ちた。
「ふふっ、あはははっ!素晴らしいわ!なんて醜くて、なんて美しい怪物なのかしら!」
自らの傑作を前に、メルフィは愉快そうに歓喜の声を上げる。そして、頭上の遥か上部、マリアが開けた大穴の奥からやってくる微かな気配を感じ取り、蠱惑的な笑みを深めた。
「さぁ、ちょうどお望みの泥棒猫たちが上から降ってくるみたいよ。心ゆくまで鏖殺を楽しんでね♡」
偽りの聖女は闇に溶けるように姿を消し、後にはどす黒い殺意を放つ最凶のメイドだけが残された。




