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第十九波「暮年、月天、佳日、切り抜くその絵」

 天佳は息をするのも忘れた。地鳴りのような音を立て、前後に別れていく戦艦の上に、一本の棒になったように立ち尽くしていた。


 船は傾きさえせず、派手に構成物をまき散らすこともなかった。

 大上段に振りかぶった大業物が、据え物を何の抵抗もなく切るように、空手家の鉄拳が、瓦の中心にのみ亀裂を入れるように。

 超越者たちの攻撃は、その威力ゆえに、余波が拡散するよりも先に、

 現役を引退したといえど鋼鉄合金の類で構成されたそれを、打ち砕いたのだった。


 いかに肉体を強化しようと踏み込めない領域。そこでもまた、一つの決着がついたことを天佳は知った。

 舞い上がったしぶきが『マルコキアス』の力を受けて氷結し、霰、みぞれの類となって、頭上から落下する。海上はそこが雲であるかのように、乳白色の霧が敷かれていた。

 バラバラと、頭で小さな氷片を甘受しながら、天佳は漆黒の荒海を、固唾を呑んで凝視する。

 泡一つ見逃すまいと、最初に現れるであろう勝者が何者か、それを見届けるべく。


 衣を一枚ずつ剥いでいくように、霧は薄れていった。

 幻のように孤影がポツリと一つ、海を足場に立っている。


「き……」

 思わず天佳の口から漏れた言葉と笑みには、一体どちらが勝者であって欲しいか、その願望が込められていた。

 だがそれらは、半端な形で凍り付いた。

 その勝者が踏みしめる氷の床と、彼女を睨め付ける双眸と同等の冷たさをもって。


「お前も、しぶとい女だ」

 勝者、島津新野はそう言って、天佳の背後で倒れ伏す黒米を見て、浅く唇を吊り、鼻で嗤う。


 周囲数メートルに、切絵の、『X』の姿はなかった。

 十数メートル離れた対の戦艦の破片にも、彼が吹き飛ばされたような気配はなかった。


「……切絵はどうしたのよ」

「ヤツは再び海底に沈んだよ。……祭は準備が華というが、まったくその通りだ。つまらん幕切れだ」

 心底悔しげにそう言い切ると、島津はゆっくりと歩き出す。

 まるでそこが地続きのように。アイスブルーの怪光の輝きが彼女の足下で冴え冴えと輝き、氷の領土を広げていく。

 両の拳に、妖炎と狼を同居させて。

 あれが、現代にも通じうる防御力を保持していた近代兵器を、生身で容易に切断した。その事実を目前にすれば、並の男なら逃げ惑っていただろう。


 だが、天佳は逃げもしなかった。

 目すらそらさなかった。

 まるで国を守る騎士のような、誇りに満ちたかんばせで。氷の魔女の威圧感に報いるかの如く、視線を射返す。


「……切絵が死んだというのに動揺さえしないのか」

「あいつの首でも投げつけてくれれば、眉の一つでも動いたでしょうよ」

 その言葉に、逆に島津が眉をひそめた。

 だが歩行は止まらない。


「切絵は、生きている」


 口走った直後に、確信は、遅れてやってきた。

「自分の首が飛ぶのが先かもしれないのに、他人の生死を断じるとはな」

「あいつは来栖切絵よ。例えそれがどんな相手でも、どんな危険を孕んでいても、伸ばしたその手を取ってきた。だからこうして手を伸ばせば……あいつは必ずやってくる」

 伸ばした右手の先に、顔をしかめる島津がいた。

 氷と鉄の女に、天佳は淡々と


「あんたが教えたのよ」


 と、真っ直ぐ伝える。

「あんたが、手を伸ばし、すくい上げた。そこに繋がる頭に、どんな陰謀が詰まっていたかなんて切絵には関係ない。ただ、救われたのよ。ただ、暖かかったのよ。あいつはそのことを、あんたの手を通じて知った。だから自分も手を伸ばすの」


 ――その鉄面皮が破れる様が、見物だった。

 

「まるで、知っているかのように、言うな……っ」

「知ってんのよ。あいつの手を通じて、私も」


 ――私も、それだけで、救われた。


「そして今も感じる。求める誰かがいる限り、切絵は……」


 島津が氷水を足で叩く。

 透明の足場が踏まれて崩れて、島津はその上を飛んだ。

 振りかざされる手刀が、炎が、伸ばした天佳の手を焼き切り、刎ね飛ばす。


 その寸前、刹那に、


「あいつは、何度沈められたって、暗い海から這い上がる」


 氷層が割れる。

 中から一筋の流線が飛び出た。

 島津の攻撃の前に立ちはだかり、受け止める。


 現れた紺碧と赤銅の異人は、嬉しげな二人の女の間で立っていた。


 表情を和らげさせる少女を、その背で守るべく。

 前で猛々しく笑う女を、敵として。


 姿は変われど、そのポジションこそが、来栖切絵であることの証明だった。

 彼の紺碧の肌で血が、何をするでもなく、ひとりでに爆ぜた。

 その突発的な出血が、激戦の厳しさと、切絵の肉体的限界を物語っていた。


「切絵」

 名を呼んだ。

 振り返りはしなかった。しかし、肩越しに頷く姿が見えた。


 それ以上の言葉は、三人には不要だった。


 切絵が虚空を蹴ると、空へと舞い上がった。

 脚に炎熱を宿した島津が、それを追った。

 彼らがたどり着いた先は、対岸とも言うべき、艦の片割れ。

 太平洋を背にして、二人の影が頼りなさげに立っていた。


 天佳は、少し長めの瞬きをした。

 まるで、それを合図としたかのようだった。

 彼らの姿が消え、直後、向こうの戦艦は幾重にも交錯する閃光によって、微塵に分解された。


 ~~~


 そして文字通り、明暗を分ける二色の光は、線を描き、絡み合って束となり、夜の帳を下布に綾を成す。


 互いにぶつかり、軌道は交わり、時に曲がり、時にまっすぐ天高く並走し、そうして交わりながら相手の致命的な隙、決定的な隙を手探りしていく。


 何度目かもしれない激突。

 互いに突き放され、そして切絵は風に乗って上昇した。


 島津もそれを追って浮上する。

 雲を突き破り、さらに先へ。

 宇宙にまで達するのではというほどに高く、船がもはや見えないほどに。


 全て取り払われた。淀みのない、清浄な空気が二人の間にあった。

 切絵の身体が天上で固定される。彼が振り返った時、島津もまた、彼の足下に留まった。


 島津は、今生の好敵手とも言えるべき相手を見上げた。目だけでしずしずと微笑んだ。そして、異形の面相に隠された彼の素顔も、同じ表情であることを願った。


 初動は、ゆるやかだった。

 天地で向かい合う二人は、互いに歩み寄るような速度から、接近を始めた。

 だが、次第に、急激に、段階を飛ばすように、速く、速く……


 限界を超え、音の壁さえ超えた。


 ――これで、本当に決する。


 周囲に見るべきものは何もなく、島津の神経はただ一点、来栖切絵に全力の拳を振るうことのみに絞られた。

 ゆえに、


「Mixing……」


 その一言に、目の前で赤銅一色に戻った切絵の姿に、この歴戦の『保管者』は、反応を遅らせることとなった。


「No.9×No.X……『マルコキアス』!」


 無より生み出された刻印鎚。その先端に暗い炎が宿る。


 オリジナルより八割程度に軽減された威力。それでも、同じ属性での同士討ちは、島津の視界を一気に潰した。


 ――もし、島津が切絵の狙いを正確に読み取っていれば、光弾を発射し、撃墜していただろう。もし冷静であったのならば、数秒も経ずその判断を下し、行動していただろう。


 しかし、ほんの少し、わずか一粒。本人すら自覚を持たずに、見過ごされていたモノ。


 情。


 それが、島津の判断力をほんの一瞬、ためらわせた。


 切絵には、それがなかったわけではないだろう。

 しかし、情があるからこそ、彼はそこに来た。その思いの丈を、余さずぶつけるためにここに来た切絵に、迷いはなかった。


 かき分けるように、手で炎幕を払う。

 振り払ったその先に、紺青の星夜が広がっていた。


「Single No.……1!}


 目の前に現れた切絵の、赤銅の帯がほどけ散る。

 悟りを開いた修道僧の如き、柔らかな外套にくるまれた一陣の風。

 その風が、島津の腹を突いた。

 小突いた。

 彼女に痛みはなく、ただ身体を突き抜ける小気味よい敗北感だけがあって、じきにそれもすぐに抜けた。


 長年連れ添ってきた刻印が、ガラスのように砕ける音を聞いた。

力の保護が抜けて、一気に空の冷気が身体を苛む。


 そのまま、彼の爪先がトンと離れて、その軽い勢いに押され、島津は墜落して行く。

雲を再びくぐり、海が見えた。


 ……楽しい時間も、終わり。

 それを悟る。


 そして、海面がゆっくりと、実際には凄まじい勢いで迫ってきていた。

 その水面に叩きつけられ、四散する己の肢体を想像し、覚悟を決める。


「……死ぬなっ!」

 と、

 天からの啓示のように、声は上から降りてきた。


「俺の手を掴め!」


 悲痛な声に反応し、自然と手が伸びた。

 不思議な響きだった。

 祈るように、縋るように、逆にこちらが手を差し伸べたくなるような、そんな声。


 しかしどこか懐かしく、どこか面映く、


 ――ああ……あれは、わたしの言った……


 右手を包み込む暖かな感触に、島津新野は頬を緩ませた。

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