第十八波「不動少女の一幕引」
何もない空間から、波を立てて木戸が現れる。
「……げほっ」
埃とカビの異臭から抜け出て、むせ込みながら天佳は門扉を押して『外』へと出てきた。
No.4『ハルファス』の城から。
仮想空間内、無数にある扉でも、必ず外部と接続されているはずだ。
『アリアンロッド』の力さえあれば、出入り口の一つにその『機能』さえあれば、天佳は城主の許しなくして、脱出することができた。
出た先は、『保管庫』。
どうやらまた、ここにたどり着いてしまったらしい。
だがその内容は、一目で分かるほどに変貌していた。
地に転がる無数の屍。
こびりついた血痕。
今まで星の輝きの裏に、隠されていたもの。
「……これが『楽園』の正体ってわけか」
『アリアンロッド』に目覚めたあの時、封印を解けと善人面で迫られた際、組織から逃げ出した自分の行いに、間違いではなかったのだ。
そして今、なりゆきはどうあれ、安全な場所ではなく『アヴァロン』に戻ってきた。それもまた、誤りではなかった。
――私も、決着をつけなきゃなんない。
胸の前、右の拳を左手で軽く包む。
ごう、と。
すぐ耳元で、激しい音の波が襲う。
頬の突っ張るような空気の衝撃が、過ぎ去った後、頬に熱い一滴が流れてつたった。
それを手の甲でぬぐえば、真っ赤な鮮血。目にした瞬間、鈍い痛みが遅れてやってきた。
飛んできたものの正体はすぐに分かったし、それがどこからやってきたのかも、察知した。
――弾丸は、背から飛んできた。
すぐさま天佳は、『アリアンロッド』を浮かび上がらせて身を翻した。
物質を機能させるという特性を使う場はないが、不可視の衣で肉体を保護することはできた。
二発目を屈んでかわす。
射手はすぐに分かった。
――黒米金充。
その右手には『トライバル』の代わりに、大口径のリボルバー。
彼女のように超人的な力は失われているはずにも関わらず、片手で持つことさえ難儀するような銃器を、軽々と扱っていた。
三発目の下を屈んで走り抜け、一気に距離を詰める。
銃を取り上げようと手を伸ばせば、それに抗う黒米と取っ組み合いになった。
執念のなせることか、男の腕力は尋常なものではなかった。数度の応酬の末、銃はそのまま男の手にあった。それどころか天佳は、その至近距離に自ら足を踏み入れていた。
しっとりと汗ばむ額に、熱を持った銃口が押し当てられた。
たった三発撃って弾切れということはないだろうから、期待するだけ無駄なことだ。
いかに『保管者』だとしても、この至近距離からの一発は、確実に頭蓋を砕く威力を秘めているはずだった。
「よくも」
平たい声だった。
「よくもよくもよくもよくもよくもォ!!」
男が「よくも」と繰り返すたびに、その語調と表情とに、激しい憎悪が盛られていった。
対する天佳は、涼しく、不遜な顔つきで迎え撃つようにして睨み返す。
二本の足で仁王立ちし、腕組み、命を相手に掌握されても、怯む色を見せなかった。
「お前自分が何しでかしたかわかってんのか!? 非道行為だ! 残虐行為だ! 将来全人類を導くモーセなりうるこのオレ様を、ここまでコケにしやがって!」
支離滅裂な発言は、そっくりそのまま、男の精神と器量の限界を示していた。
だが振り乱した髪、焦点が定まらない目、震える銃先は、いつ暴発するかもわからない危うさを孕んでいた。
だが、
「あんたがモーセ? 冗談も休み休み言いなさいな」
腕組み、仁王立ちしたまま、天佳は啖呵を切った。
「あんたは所詮ただのヤドカリよ。借り物の財産、借り物の目的、借り物の能力の借り物の記憶で作った、借り物の部下。それで何が生み出せるっての? 唯一自分の持ち物だった『バルバトス』も奪られて、結局あんたに何が残ったのよ?」
「貴様ァァァァァ!」
「撃ってみなさいよ。撃てるもんなら」
銃身が笑うように、小刻みに震えていた。
それを隠すようにして、黒米声を荒げる。
「それは何か? お前の自慢のお顔は、何人たりとも傷つけられないってか? うぬぼれるのも大概にしろ!」
「それもあるけど、コレ」
天佳は組んだ腕を解き、右手を裏返してみせた。
その手の甲に、円形の刻印が浮かび上がり、それを見た瞬間、黒米の表情が凍り付いた。
「さっきの取っ組み合いで、『アリアンロッド』を発動させて、その銃の撃鉄を上げた。だから今それは、撃てない」
だがそれは、少しでも目をそらせば確認できることだった。
だが少しでも目をそらせば、『保管者』たる天佳の反撃はまぬがれなかった。
引き金を引いて、もし弾丸が射出されなければ……その危惧が、かろうじて黒米の自制心を保たせているようでもあった。
「……ハッタリだ! 触れられたのは一瞬だけだ。その間に発動できたはずがないっ」
だから黒米はそう嘲り、反応で天佳の言葉の真偽を探ろうとしていた。
「できる」
それでも天佳の瞳の輝きは、揺れることがなく、強く。
「この私が間違えるはずがない。絶対に」
――ロシアンルーレットのように。
天佳に当てられた銃は、黒米のこめかみにも向けられているようでもある。
波の音。
かすかに、遠く、爆発音が聞こえた。おそらく来栖切絵と島津新野が、船外で戦闘を繰り返しているのだろう。
いつ巻き込まれるかもしれないという恐れ、事が終わる前に見届けなければという焦り。
その二つの感情がわずか十数センチの間合いでせめぎ合い、数分、無言が続く。
「……っ!」
半ば諦めるような、悲壮な表情で。
黒米の視線がわずかにそれた。その目の先には、彼の手の中には撃鉄が落とされたままの拳銃が握られていた。
転瞬、
天佳は翻した手を握り固めた。
そのまま、黒米の水月を突く。分厚いスーツ越しにも、肋骨を抜けて内臓にダメージが入ったと、確信できた。
必殺の一撃を見舞った刹那、小山田かすみや来栖切絵を始め、この戦いの中で知り合った人物が天佳の頭の中を過ぎていった。
「……はぁ……ぅ……!?」
ズルズルと、白目を剥いてつんのめり、黒米は倒れ込む。
脱走兵に殴って気絶させられる。
そんなあっけなくも情けない末路こそが、黒米金充の最後だった。
額や前髪についた硝煙の粉塵を払い、ため息を吐きながら、天佳は崩れ落ちるかつての上司を見た。
「……結局、あんたは自分さえも信じ切れずに裏切ったのね」
その言葉に、怒りや憎しみはなかった。ただ、憐れみの余韻だけが、無人の空間に響いて溶けていった。
――こっちのケリはついた。あとは……
切絵の問題。彼の戦い。
自分たちを欺いていた女との、決着。
それを見届けなければ、自分も、彼も、ゴールどころかスタートラインにすら立てない気がして、天佳の足を意識させないままに速めさせた。
そして、次の瞬間。
天佳の目の前で、彼女を乗せた、彼女の所属した『キャラバン』母船は、
幽遠の炎と共に真っ二つに割れた。