第十五波「波濤蹂躙の怪球」
幾重にも交錯する赤銅色の直線は、わだつみの怒りにも似ていた。
あるいは嘲りか、単なる気まぐれか。
それ自体には、音はなかった。
静かな波が、遅くはないが、早くもないスピードで船を侵食していく。
だが直径十五センチ程度の杭を中心に、まんべんなくそれは、止まることもなく、止めようもなく、上空にさえ広がって行く。
そして、ひとたび触れることさえ許されない代物なのだと、その場にいる誰もが理解していた。
――それ自体に、音はない。
「開けてくれぇ!」
「どけぇ! 俺だ、俺が先だっ!」
「いや! いやぁぁぁ!」
「助けてくれ! 団長っ!? 副団長!?」
だが、その周囲で起こる悲鳴や絶叫や断末魔は、管制室にも肉声として届いてくる。
そして次の瞬間、同じ声は聞こえなくなる。
人も、船も、武装も、刻印も、信念も、今まで得てきたものすべてが、時も経ず飲み込まれていく。
人の所業ではなく、天の災厄だった。
圧倒的優位から一転、その惨状を目の当たりにして、黒米は立ち尽くしていた。
思考と同様、硬直した顔で、唯一唇だけが小刻みに動いていた。
「……『保管庫』を守れ……アレを近づけさせるな……」
うわごとのように呟く黒米に対し、
「無理だ」
島津は冷たく突き放すように言った。
「すでに艦内に侵入してきている。防壁が作動しているにも関わらず、わずかな隙間からでも入り込んできている。もしアレをやり過ごす手立てがあるとしたら、同じく封神十干で防護していた、あの封印だけだった」
ゆっくりと振り返った黒米の表情には、理性さえ残されていなかった。
その彼の背後に、『X』波濤が押し寄せていた。
声も立てずに飲み込まれて行く男を救う手立てはなく、島津は『マルコキアス』を発動させた脚部で、床を焼き破って下層に下りた。
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船底にある貨物庫を占めているのは軍事物資が大半だったが、そのスペースを利用して、ポツンと、小屋が建てられていた。
人のものではない。かと言って、その獣を閉じ込める檻のようなものはない。その主を考えれば、無意味なものだからだ。
彼は、小屋の中の毛布で眠りについていた。
外部の有様などまるで気にせず、やがて自らも同じ運命をたどるかもしれないというのに、呑気なものだと島津は思う。
だけどそこだけが、真の静寂に包まれていて、一時の平穏だった。
「『セエレ』」
彼女は本当の名前を知らない。ネームプレートも名札もない。
だから『トライバル』の個体名で、その老いたレトリバーを呼んだ。しかし賢いその犬は、自分が呼ばれたのだと察してすぐに耳をヒクリと動かして、首を重たそうにもたげた。
島津は膝先をついて犬の正面に座ると、その首の後ろに手を差し入れた。
分厚い毛皮に隠されているが、その首には不相応な金属首輪があった。触れていると、わずかに振動と熱が伝わってくるのがわかる。
それは、対象のある程度の行動を微弱な電磁波によってコントロールし、意のままに操るための、言わば小規模な洗脳装置だった。
団員の中でも持つ人間が限られている専用カードキーを輪の繋ぎ目にある溝に通す。カシャンと音を立てて、外れた首輪が地に落ちる。長い耳を揺らしながらブルブルと首を振り、解放感を素直に表現してくる。
その緩慢な仕草にほろ苦く、笑う。
「すまなかった」
少し時間を置いて、詫びた。
「こんな下らない戦いにお前を利用した。汚い大人の陰謀に加担させ、利用し、今こうして苦しませている。お前を使わなければならなかった。だが、本当は、できることならば、お前には自由に生きて欲しかった」
かつてないほどに、優しい表情を見せた。そして誰にも見せない貌をあえて見せることこそ、謝罪の証なのかな、と彼女は自分で思った。
「行くがいい。お前はもう、どこへだって行ける」
彼女を意を汲んでか、無名のゴールデンレトリバーは人馬の刻印をくぐり抜けて亜空間へ飛ぶ。
「……さて、わたしは」
それを見届け、振り返る島津。
周囲はすでに、逃げ場のないほどに刻印で敷き詰められていた。
そして間も無く、その部屋を最後に『アヴァロン』は無数の『X』の中に取り込まれた。
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No.0『封神十干』
それは、正確には『トライバル』ではない。
先の口述通り、この世にはびこる摂理の外の存在を、天へ送り返す儀に他ならない。切絵が『トライバル』以外、唯一会得した術式だった。
そして自然の逆流現象でもある『トライバル』にとっては、まさしく天敵であった。
それを創り、完成させようとした男は、その道半ばで死んだ。威力は本来ならば封印程度に留まっていた。
本来、ならば。
だが、未完成ということは欠損しているということ。
既にして『破壊されている』それを『トライバル・X』が唱えれば、それはオリジナルでもたどり着くことのできなかった100%、いや制御不可能な120%の領域にさえ昇華する。
切絵自身と『封神十干』の、『トライバル』と『封神十干』の奇妙な親和性が、それに拍車をかけた。
十分もの間、その余波は船と周辺二十キロを喰い続けた。
「はぁ……はぁっ、はぁ……」
残されたのは、空間を埋め尽くす『X』の刻印と、その下敷きになるように倒れ伏す、かつての『保管者』たち。ついに撃たれることのなかった、船の部品を変形させて作られた兵器たち。そして、術者である来栖切絵。
命はある。
だが、『封神十干』によって『保管者』たちの『トライバル』は既に奪われ、ただの人間へと戻っていた。
そして、肉体や精神と癒着していた刻印が、強制的に引き抜かれると言う行いは、激痛を伴うものだ。素手で神経をわしづかみにされ、引きちぎられるような痛みさえあった。
――巻き込まれた、切絵本人でさえ。
首から垂れる雫は、潮水か、汗か、涙か。
自分の内の十の供物を盾にし、基本部分はカバーした切絵でさえ、その影響はまぬがれなかった。
今まで保管していたコピー能力はすべて捧げられて、もはや使用はできない。
濡れた肌で寒風を甘受しつつ、甲板を一人、歩く。
役目を果たして『X』の刻印は、砕けた。
天へと昇る赤銅の球は、異能を消化してできた、何か。
逆行する雪のように、実際に降るそれと交わる。
目の前には、食い散らかしのように、無数の人が転がっていた。
うめき声、すすり泣く声、何者かを呼び、すがる声。苦悶の吐息が所々から、漏れ聞こえてきた。
「……こればかりは、自分の鈍感さに感謝しても良いのかな」
もしあの時、惑うようであれば最後の最後までこんな力は引き出さなかった。
『保管庫』の確認をしなければ。
いや、安全の確保?
島津さんの安否?
とにかく、艦内を目指して進む。
そして、
「なんだ……これ」
入るやすぐに、彼は穴を発見した。
激しい雨風や波、銃弾にさえに耐えられるはずの戦艦の床を、乱暴にブチ抜いた人間がいる。
「…………」
魔性の力の持ち主が集まっていた船だ。これほどの威力を発揮する『トライバル』が存在していても、不思議ではない。
だがその断裂を見ると、心がざわめく。
一人の影が、脳裏にちらつく。
「……流石に、『セエレ』で逃げてる、よな」
誘い込むようにぽっかりと大きく空いた穴に、切絵は躊躇してから飛び込んだ。
抜け穴は存外深く、一気に船底まで達していた。
そのまま一息に降り立った切絵は、並ぶ貨物や犬小屋とは別に、異様なものが中央に鎮座していることに気がついた。
球。
灰色の、用途不明の怪球。
その周囲の壁は隣が透けて見えるほどに溶解していて、床を吹き飛ばした手口とまったく同じとわかる。
材質はなんてことのない、普通の合金。
それがグチャグチャにかき混ぜられ、空気穴もなく溶接されて固められて、コレが、形成されている。
完全な球形と思われたその表面に触れてみると、少しデコボコとしているのが感じ取れた。
大きさは、まるで人一人……入れるほど、で……
すべてを察した切絵が飛び退くのと、球の表面に狼の刻印が牙を剥くのは、ほとんど同時だった。
砲丸のごとき鉄球を、青と黒の怪炎と、拳が内から破る。
切絵は真正面から受ける。逃げる猶予もなく、受けてしまった。
衝撃は、可能な限り逃がしたはずだった。
そんな小手先の技などものともせず、炎拳は、切絵を壁に叩きつけた。
「か、は……っ!?」
呼吸を一瞬忘れるくらい、強烈な一撃。
穿った穴から、じわじわと、球は溶けていく。
「おい」
その中から、つまらなさそうな声が聞こえた。
本人も、額に汗を浮かべながらも、退屈そうな面をしていた。
「まさかお前、あれで終わりと思ってないだろうな?」
島津新野。
卵を割る不死鳥のごとく、球を砕いて現れた恩師を前にして、切絵は、唇を噛み締めた。




