第十一波「真実虚飾の残酷性」
現実世界への生還を果たした『トライバルX』来栖切絵は、周囲を見渡した。
先ほどとそれほど変わらない、それこど通常どおりに鳥居をくぐったような地点に、切絵たちは立っていた。
日を見る。
その高さからして、空間の狭間に追いやられた時から、さほどの時間は過ぎていない様子だった。
時間も天候もない異世界からの脱出中、天佳の幽閉された空間を割り出す中で、「浦島太郎になっていないか」それだけが懸念だった。
そして目前には敵。
一人の人間と、一頭の犬。
だがその人間の方には、先ほどまでの力強さは感じられなかった。
目に強い意思は、宿っていた。
だがそれは、
勝とう、倒そう、捕らえよう。
そういった類のものではなかった。
おそらくは、もう肉体的な限界が近いのだろう。
今までは漲るほどの戦意で自らを欺いていたようだが、一度切れた集中と、緊張の糸はたやすく繋がらないだろう。
「……」
切絵は天佳の身体を離して、そっと地面に置いた。
そして一歩踏み出せば、『マルコキアス』は抗戦の構えをとってみせる。
だが彼の姿勢は、完全に守勢に入っている。
だが彼の姿勢は、自衛のためのものではない。
ただ自らを犠牲にし、その背で唸り声をあげる犬を守ろうという、そんな構え。
――ああ、なるほど。
と。
彼の自己犠牲の精神を見たからこそ、切絵はその犬の、『セエレ』の正体を知った。
そしてそのレトリバー犬の胴に浮かぶ人馬の刻印が、その推測を事実と証明していた。
だが、だからと言って、
自身の命を犠牲にできるほど、その犬と彼は親密なのか?
犬のために簡単に生命をなげうてるほどに、自分を軽んじているのか?
切絵には疑問はあるが、興味はない。
「Mixing No.1×No.2」
鎚は剣に変わる。
斬撃を警戒して構える彼に、なお決定的な隙はない。
ゆえに、
ポン、と
切絵は『カイム』を、宙高く放り投げた。
瞬間、地を足で叩いた。
右ストレートが彼の手甲に防がれる。
左フックが、彼の手甲に防がれる。
それで良かった。
右手、左手、右腕、左腕、左拳、右拳、右打ち、左打ち、
規則性も順序もない無茶苦茶なパンチのラッシュが、彼に思考し、判断させる寸暇を与えない。
宙を舞う曲刀の、その意味、役割。
牽制か、トドメか、それとも……
湾曲した刃が弧を描くようにしてゆっくりと下りてくる。
目測する。
――およそ残り五秒。
それで、切絵のもとに戻ってくるはずだった。
――三秒。
切絵の長いリーチを活かした拳の連打が、男の両腕と何度となく打ち合った。
――二秒。
剣にわずかに意識を向けようとして、『マルコキアス』は一手対応が遅れた。そのせいで、一発もらいそうなところになるのを、すんでのところで右にそれた。
――いち。
捨て鉢か、不意打ちか。乱暴に繰り出された右足のローキックを、切絵は鋭くとがった爪先でスネを蹴って弾き返す。
時至る。
「Mixing No.1×No.X『マルコキアス』!」
武器は消え、異色の炎は、指を畳んだ左手に渦巻く。
腰を低め、ひねて溜める。力の渦が、血液のように全身を巡る。
巡り巡って左の拳に宿ったそれを、目の前で交叉した腕、その中心に叩きつけた。
――当たった。
鉄と骨の感触。しかし感じる確かな手応え。
今まで直撃を避けていた狼の刻印。手甲を砕き、燃える炎にも似たラインのことごとくを、同質の火炎が逆流して焼却していくのが、腕を通じてわかった。
「うわぁぁぁぁ!」
男が低い断末魔をあげた。『トライバル』の力の波が、新野という男を吹き飛ばし、道沿いに生えた幹を三本、根本から折りながら倒れ伏す。
距離にして五メートルの浮遊の後、彼は地を滑り、砂を散らす。
うつぶせになたまま、ピクリともしない。
切絵は勝利した。
ヒビ割れたサングラスを踏み砕き、男の正体を確かめるべく歩み寄る。
その後背の空間に、『セエレ』の刻印が滲むように浮かび上がる。
切絵が振り返れば、牙を剥く犬。
数メートルの距離を飛躍して、襲いかかろうとしていた。
「Mixing No.1×No.4『ハルファス』」
犬の爪牙は、かすりもしなかった。
切絵の消えた空間をすり抜け、空振りし……その喉輪を、再び姿を現した切絵が掴む。
「確かに長距離の空間移動はできないが、入って出ることぐらいはできる」
老いた犬だった。
腹にはだらしない肉、骨。
牙にも鋭さはなく、歯茎の血色も良くない。
ほんの少し力を入れれば、首の骨をたやすく手折れてしまえそうだ。
試しに力を込めてみると、先ほどとまでの威勢はどこへやら、キュンキュンと、裏返ったようなか細い悲鳴が痛ましく漏れてくる。
――ゴールデンレトリバー……
その麦穂のような金色の毛並みに触れた時、彼の記憶が、何の前触れなく弾ける。
~~~
天佳とじゃれ合ったあの日、子どものように追いかけっこをして、くたくたになりながら、切絵は自分から彼女に尋ねていた。
――そういえばあのレトリバー、結局どうしたんだ?
――さぁ
――さぁ、って……
――施設が潰された時までは一緒にいたはずなんだけど、それからどっか行っちゃったのよ。確か、別に飼い主に引き取られたとか……
~~~
そして自分が首を圧迫しているのは、
老犬、
ゴールデンレトリバー
――まさか。
だがその「まさか」は、十分にありえる。
天佳が今まで『セエレ』と巡り会えなかったのは、格下だったというわけではなく、顔見知りであったからではないだろうか?
けどそれが、なんだ?
『X』の手に、さらに力がかかる。
やめろという声に、「何故だ」という問い返しがあり、それに答えることのできない自分がいた。
生かしておけば障害になる。殺しておけば相手の移動手段が潰せる。
そして自分だけが能力を占有できる。天佳は気絶していて、早急に排除してしまえば、正体が露見していようといまいと信頼を失わずに済む。
――何もかも、合理的ではないか?
やめろと、繰り返す内部の声が、次第に弱まっていく。
『セエレ』の犬の生命の反応も、次第に薄らいでいく。
拒絶は納得に変わり、
――そもそもお前は、所詮化け物じゃないか。今までもそうしてきた。何をためらう必要がある?
あぁ、それは、確かに……と、受け入れて、それで……
音がした。
何かが折れる音、
……ではなかった。
自分の手元……でもない。
背後で、鈴目天佳が起き上がる音。
「やめなさい! 切絵ッ!」
鋭く、飛びつくような一声だった。
――そんな制止で止まるものかと、『X』は嗤う。
――そんな三流の展開で、今さら止められるはずがない、と『X』は嘲る。
だがそんな自分に対する切絵の激しい嫌悪感が、『X』に抗った。
未だ炎の宿る右手を握り固めた切絵は、全身を、特にその手を震わせながら、
ごう
と、側頭部を叩く。
「ッッ!?」
身を焦がす激痛に、切絵は軽く呻いた。
それでも頭はシャンとした。
人らしい心がこんこんと、清水のように胸に蘇る。
「……っ!」
気絶する狼も、下ろした犬にも、もはや振り向かない。
覚醒した天佳が制止の声を張り上げるが、切絵はもはやそれには従わなかった。
一刻も早くこの場を逃れたい思い一つで、切絵は、できるだけ遠くを目指していた。
~~~
とは言え、
大きいとは言っても本土よりは狭い島内、どこに逃げられるわけもなく、
人の姿に戻った切絵は、いつも立ち寄る海岸に来ていた。
思えばあれから空を見ていなかったが、灰色の分厚い雲が覆っている。天気予報は当たりそうだった。
冷たいさざなみの音の合間に、彼は、今日の出来事を思い出した。
逆襲されたことへの痛み、
化け物と呼ばれた、
かつて戯れたかもしれない思い出の犬、天佳の大事にしていた犬、それでなくとも、愛玩動物を無慈悲に殺そうとした、
ハハ、と。
軽く自嘲する。
「ビックリしたな。ビックリするほど…………何も感じない」
慣れてしまったのだろうか。
それとも心は既に壊れて、死んでいたのだろうか。
あの、一年前のクリスマス、空から海へと落ちた時。肉体がバラバラになったのと同じく、人として持っていて当たり前の感情も、死んでしまったのだろうか。誰もが恐怖する赤銅の処刑人『トライバル・X』が生まれた時、人間、来栖切絵は死んでしまったのかもしれない。
自分がその怪人の隠れ蓑に過ぎず、人間であった頃の模倣……そのはずがないとは、言えなかった。
だから俺の心には、欠落があるのだ、と。
そんな切絵を苛むように砂を噛む靴音が背後に近づく。
ビクリと振り返ると、天佳が立っていた。
仏頂面はいつものことだが、右腕はコンビニのビニール袋で塞がっていて、組むことができないようだ。
――だけど、なんで買い物なんてできたんだ?
着の身着のままこの島に不時着し、それからアルバイトもした様子もないはずなのに。
訝る切絵の膝下に、ビニール袋から革のサイフが飛んできた。
「あんた、逃げて変身解く途中で落としたわよ」
「へ?」
視線を落として見れば確かに、それは父の遺品のサイフだった。
「ってもお前、人の金で」
「良いでしょ。つまんない隠し事してた詫び代」
――そう言えば、あの時、『X』の格好をしていた俺に、彼女は切絵と呼んだ。
つまり、ばれていた、と。
サイフをジーンズの奥にしまい込み、苦笑する切絵の隣に座って、ガサガサ袋を鳴らし、「ほら」と、鼻先に肉まんを突きつける。
「あーん」
「はい?」
「ほら、口開けて」
――まさか、食べさせてくれるのか?
あの天佳が、
気分屋で読めない部分が多いが、まかりまちがっても他人に奉仕するようなしおらしさなんてない、あの少女が?
しかし目の前で行われる彼女の仕草は、幻ではない。
半信半疑ながらドギマギ、口を開けると、
「~~~ッッッッッ!」
丸ごと口に突っ込まれた。
半ば開きかけた口内に、野球ボール大のフカフカしたものが、入れられ、軽い呼吸困難に陥る。
舌を押しつぶすほどに満ち満ちたそれは、咀嚼することさえ許してくれない。
それどころか、指を突っ込んで取り除くことさえできなかった。
何故、どうして?
あまりの理不尽にパニックになる。
すべての思考が投げ出されそうな中、窒息死の危機という大問題を、順を追って解体し、解決しようと試みた。
まず口呼吸から鼻呼吸に切り替え、酸素を確保。
それから顎を可能な限りで開閉を繰り返す。少しでもへこむように、少しでも圧縮できるように。唾液をまぶしてふやけさせ、柔らかく濡らしていく。
三十本ほどあるという歯を総動員して乱暴に、力づくに切り分けて、嚥下していき……ようやく気道は、確保された。
おそらく今までの戦い、いや人生の中で、一番苦労した相手だったと思う。
「おぉ、すごいすごい」
他人事のように、その加害者は手を打ち鳴らして賛辞を送る。
「すごいすごい、じゃねーべさ! 何!? 詫び代って俺の命!?」
「あんたがシケたツラしてるから、活入れてやったのよ」
「入れたのは活じゃなくてヤキだろうがっ!」
「何よ。男が一生のうち一度は夢見る『あーん』でしょーが」
「違う……俺の夢見た『あーん』は、そんな脱走してきた死刑囚がやるようなことじゃないやい」
抗議する切絵に対しても眉一ミリたりとも動かさず、少女は袋に手を突っ込んで「はい」と、二個目を切絵に差し出した。「あーん」も拷問じみた残虐行為もない、無難な手渡し。
手に伝わる熱で切絵は、自分の指先がかじかんでいることに、気がついた。
それから、無言で、無心で饅頭を食べた。
ぬくもりがまだ手にじんわりと残っている時に、ふいに天佳は、踏み込んできた。
「やっぱしあんたが、『X』だったんだ」
「あぁ」
ここに至り、切絵に認めないという選択肢はない。
素直に、かつ殊勝に、今まで庇護してきた少女の問いに、彼女の望む答えを返す。
「それと、もう一つ、お前に隠してたことがもう一つ。これが多分、一番大事なこと」
「何よ?」
「実はお前のブラ外したの、実はあれ、『トライバル』の力じゃないんだ」
「死ぬほどどうでも良いトップシークレットね」
それで話題をそらそうとかは期待していなかった。
来るべき問いに備え
、切絵は背筋を伸ばしたり、逆に腰を曲げたり、落ち着かなかった。
「やっぱり、飛行機事故で?」
あんたは、その力を手に入れたの?
そう問う彼女に切絵は、無言で顎を引いた。
ふぅん、と天佳は声を伸ばす。
「『トライバル』の力が物質化して全身を覆うほどだもの。よっぽど、ひどい事故だったのね」
「……そのせいかな?」
「何が?」
切絵の呟きを拾った天佳が、形の良い眉をしかめた。
再び体温が奪われていくその手を、かつてちぎれ飛んだはずの左手の平を見つめていると、自然、自虐的な笑みが口の端に滲んだ。
「俺、あの姿になると、すっげぇイヤなヤツになるんだ」
「イヤなヤツ」
「うん……なんてーかな、『X』になると、頭がボーっとしてさ。理性が失われる。……いや違うな。理性だけになるんだ。思いやりとか、優しさとか良心とか、そういうものは削ぎ落とされて、ただ自分のためだけに戦うマシーンになる」
「それでも、あんた、ずっと私のために戦ってたんでしょ?」
切絵は分からない、と低く呟いた。
今となっては、彼女のためにか、それとも自衛のためにか、それすら曖昧になりつつあった。
「戦う度に、鎚を振るう度に、俺の心は、死んでいく」
望む、望まないに関わらず、それが強大な力を得た代償。
あるいは、自分だけがこうなってしまったという事実が、切絵自身が意識しないうちに、人間をやめさせようとしているのか。
「お前だって、怖いだろ? いくら自分のためとはいえ、あんな」
あんな、むごい戦い方を。
「怖いわけないでしょ」
よどむことなく、いつも通りの彼女だった。
「確かに最初は怖かった。『X』だけじゃない。切絵っていう人間がね」
「俺が?」
「なんてでこいつは、一緒にいてくれるんだろう? なんで危険な目に遭ってもヘラヘラ笑ってられるんだろう? ひょっとしたら敵の回し者なんじゃないか? ……私、こう見えても逃亡者よ? そんなことを考えてこなかったと思う? そしてそこを、『ベリアル』に突かれた」
「……だったら、どうして?」
「簡単なことじゃない」と天佳は切絵の目を、覗き込んだ。
挑むように、得意げな、この島で出会った時と変わらない、澄んだ笑顔で。
「あんたが『トライバル・X』で、『トライバル・X』は来栖切絵だからよ」
天佳はそう言い切って、天を見上げた。
分厚い雲の切れ間、青い空が、こちらを覗き込んでいた。
「人が怖いと思うのは、分かんないからよ。自分が知らないものを、相手が抱えているから不安になるのよ。『トライバル・X』は切絵の秘密そのもの。切絵は『トライバル・X』の押し隠した痛みを抱えている。全部さらけ出したあんたに、この私が一体何を恐れるっていうのよ」
「……天佳」
「心が死んだ? 理性だけになる? じゃあ聞くけど、さっきのおふざけも演技? いつものくっだらないやりとりは? 私を追っかけ回して、ブラ外したり、ゴミ箱に入ったり、あんな奇行、理性だけの機械にできるわけがないでしょ」
「……それは」
「私に言わせりゃ、あんたは、ただ鈍感なのよ。自分に対して鈍感で、だから他人に対して臆病で。だから人との付き合い方の加減を間違える。それだけの話よ」
それだけの、話と。
少女は強く言い切った。
自分が悩み、苦しみ抜いた一年間は、ただのそれだけ。
「あんたは、あんたが感じるままに生きて良いの」
ずっと、海で溺れていた。
足に碇がからみついて、どこへ行くこともできなかった。
もがき、苦しみ、暴れる度に、繰り返す度に傷は増えていく。
そこから逃れようと、ただ周囲の海の青さと、空の美しさばかり見ていた。
重しを抱えたまま、そこへたどり着こうとしていた。
――けど、本当は……
海は、思ったよりも浅くて、
空は、思ったよりも近くて、
重荷を下ろす方法なんて、忘れていただけで知っていた。
深呼吸。
ようやく、切絵は何かを取り戻せた気がした。
「天佳ーっ!」
その喜びのあまり、両腕の中に天佳をくるもうとする。
「あつっくるしい! 気安いって言ってんでしょうが!」
……と、結局はねのけられてしまったが。
天気はまた陰を差してきたが、切絵はそれに頼ることなく、心から喜びを感じていた。
「そうだ」
声がした。
音がした。
「お前はこらえ過ぎだ。もう少し執着を示してもらわねば、こちらも困る」
彼女は、背後の堤防から、ゆっくり歩いてきている。
水気のない髪、退廃的な色気を帯びて、
「……島津センセ?」
ベストの前を外す。
薄くストライプの入った黒いシャツの、一番上のボタンを外すと鎖骨が浮き出る。
リボンタイをほどいて風に流す。
分厚い眼鏡をかなぐり捨てれば、切れ長の黒い両目がなみなみと意志の力を示して、冷徹な光をたたえる。
「でなければ、扉が開けられないだろう?」
真実を示すように、
今から何をするのかを宣告するかのように、
ギチギチと鳴る右手の甲には、アイスブルーの狼が浮かび上がっていた。
腕が振り下ろされたその時、切絵の身体は宙へと舞っていた。
彼の下では爆発が起こっていた。
熱い。
だが一瞬後には、凍えるほどに冷たい。
何よりも純粋な、ただ破壊の意思だけを持つ、暗い青色の衝撃が、砂浜をえぐっていた。
三回転しながら切絵がくぼみに落ちるのと。天佳が彼の名を呼ぶのは、ほぼ同時だった。
「『マルコキアス』……ッ!? じゃああの男は!?」
「私を呼んだか?」
天佳が振り返った先に、いつの間にかその男は忍び寄っていた。
おもむろに伸ばした男の手は天佳の髪を乱暴にひっつかむと、膝を彼女の腹に叩き込んだ。
「……ッ!? ……は……っ!」
意識を飛ばしかけた切絵にすら聞こえるぐらいの、強烈な一撃だった。
「『トライバル保管者』って言っても、まぁ発動させなけりゃざっとこんなもんだ」
ズルズルと、悲鳴も発さず崩れる美少女に対し、加虐的な悦びも罪悪感もないつまらなさそうな面持ちで、砂浜に叩きつける。
そんな暴漢に怒りを覚えた。それでも生まれたての牝鹿のように、切絵は身体を丸めて、痛みに震えるしかなかった。
「『マルコキアス』の能力は、単純に炎を出すことじゃない。急激な温度変化による衝撃波。そして……分離。燃焼させる『牙』、冷凍させる『爪』。それらを分離し、別の物質に宿すことができる。それを使えば、ただの凡人にも『トライバル』の力が扱える、というわけだ」
――何を言っているのか、よくわからないよ……
切絵の目の前を素通りし、女は『マルコキアス』であったはずの男と合流する。
彼が慕っていた女性、一年間ともにこの島で平穏に暮らしていた彼女、
異変とは何ら関わりもないはずの……島津。
「そしてその本体は、わたし、『キャラバン』副団長、島津新野だ」
「……ハナから囮目的ならそう言えよな」
爪先で天佳を小突きながら、『マルコキアス』……と思わせられていた男は毒づいた。
「先輩は命賭けで戦った方が善戦しますので」
島津は少女を担ぎ上げ、男はフンと鼻を鳴らす。島津が指を一度鳴らすと老犬が駆け寄り、『セエレ』の刻印を虚空に作り出した。
そんな二人の立ち姿が、もうかすかにしか見えなくなってきている。
「切絵」
寝まいとする切絵に、島津のかすれた声が刻みこまれる。
「わたし達は『キャラバン』の母艦へと戻る。もしお前がこの少女を救いたいと願うのであれば、追ってこい。願うのではなく、自分の力で奪い返せ」
だが切絵は返事は、彼女の言ったことに対するものではなく、
「なん……で……どうして……?」
なんで、自分を助けてくれたのか。
どうして、自分と暮らしてくれたのか。
……一体いつから、利用するつもりだったのか。
切絵はそこから問わねばならなかった。
「……なぁ小僧」
いつもと変わらない、やや乱暴な呼び方。不思議と懐かしささえ覚えるその後に続いたのは、
「わたしが掴んだお前の手は、肌色をしていたと思うか?」
彼を突き放す、冷厳な事実だった。
打ちのめされるままに、起き上がる気力さえなく、切絵は濡れた砂浜で力尽きた。
その背にしんしんと、雪が降り積もる。