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第十二波「落花望見の自己責任」

 数秒前には空にいたはずなのに、気がつけば海の中だった。

 泡に抱かれて沈んでいく。

 透明度の高い浅瀬から、暗い暗い深みへ落ちて行く。


 だが少年は、それに抗った。

 隻腕で、右手で、指の骨が折れるほどに、冷たい海をかき分けて、空を目指す。


 だが果たして向かっているのは上なのか。

 自分は本当に、上っているのだろうか?

 どれほど水流と水圧に抗おうとも終わることのない地獄の苦しみ。


 ごぼり、

 ごぼり、


 次第に耐えかねて、口から大きく泡を吐いた。

 血反吐にまみれて、赤黒く染まった、泡が浮き上がる先に向かって、芋虫のような状態の身体を、突き上げるように蠕動させる。

 だが、彼に代わるように沈んでいく、人影がとすれ違う。


 その黒いものと、目が合った。

 つい数時間前まで、よく見慣れていたはずの、母親の目だった。


 彼女だけではない。

 おびただしい無数の、五体満足なものはない死者の群れが列をなして、深海へと潜っていく。

 その血液で、海水はさながら赤銅のように染まっていた。

 皆、下へ下へと落ちていく。

 その死を優しく迎えるように、岩肌の珊瑚礁が幾重にも交叉し、絡み合いながら彼らを待ち受けていた


 地獄絵図が、そこにはあった。

 嘆きはない。怒りも、悲しみも麻痺していた。

 瞬間、自分の半身が抜け落ちていくような感触があった。


 余計な感情を削ぎ落とされ、ただ彼は願った。


「死にたくない」

「生きたい」


 生物として、シンプルで、大前提の本能。


「死ぬな! わたしの手を掴めっ!」


 彼の祈りに、応じる手があった。

 その白い肌が血水に濡れることもいとわず、肉塊をかき分けて伸びる手が、そこにはあった。


 そして切絵は、左手でその手を掴んだ。



 ――だけど、


 例え、掴んだ彼女にいかなる策謀があったとしても、

 例え、自分の左手がヒトのものでなくなっていたとしても、

 例え、生きながらえた人生に、過酷な運命が待ち受けていたとしても、


 ――その手を掴んだのは、俺なんだ。


~~~


 切絵は、過去から浮上した。


「……はッ! はぁっ! ……はぁっ……!」


 目の前には夜の帳が落ちている、見慣れた室内。耳がさざ波の音を捕まえ、鼻が炊き込めたラベンダーの香りを吸う。手には固いシーツの感触。

 そこは、『ふぉとぎゃらりー鉄鍋』の、島津新野の私室だった。


「流石怪物君だ。起きるのが早いな」

「っ!?」


 窓辺の闇から、皮肉げな嘲笑が聞こえた。

 例の男。島津の影武者が、コーヒーカップを片手に立っている。

「っ!」

 すぐさま全身から敵意を発する切絵に対し、ハエでも払うようなわずらわしげな手つきをする。


「そう怒るな。私だって仕事でないなら、あんなことはしたくなかった」

「仕事……?」

「そう。島津のお嬢とは古い馴染みでな。かつて同じ組織で働いていた。その組織が潰れた後も、時々こうして仕事を回してもらってる。で、今回はもうお金は振り込まれたし、ヤツとの『約束』も果たした。これで仕事は完了ってわけだ」


 彼の言う仕事とは、何だったか。

 それを思い返し、また姿の見えない女二人の姿を思い浮かべた。海岸の見える窓を押し開き、身を乗り出す。

 音もなく、ひらひらと降り注ぐ淡雪。

 花弁のように無数に舞う最奥、真っ黒になって夜空と見分けがつかない水平線で、かすかに発光する何かを見た。


「あれが見えるか?」

 と男は尋ねた。

「あれは『キャラバン』本拠の『アヴァロン』の照明だ。船舶解体に回されるはずだったものを、ある男が買い取ったものだ。『保管庫』を積み込むためにな。じきここに着港する」

「『保管庫』?」

「なんだ? 何も聞かされていないのか?」

 男の顔に一瞬、優越感のようなものが浮かんだ。

 だがすぐに無関心に、つまらなさそうに、取り繕うようにコーヒーをすすり、飲みかけを机に置いてゆったりと、古文を読む教師のように説明する。


「数年前、某所でとある計画が立案された。某所ってのはまぁ、秘密結社でも財閥でも国家でも、好きなのを思い浮かべると良い。そのプロジェクトとは『トライバル』のサルベージ。すなわち、過去二千年規模、現世に表出することなく世界に埋没したあの刻印を、強引に掘り出そうというものだった」


「そんなもの、何に……」


「お前も身をもって体験してるだろう? 『トライバル』には肉体的、精神的損傷をたちどころに治癒してしまう力がある。何よりも、超人的な運動能力、魔法のような特異現象。喉から手が出るほどに欲しい連中はごまんといて、そしてそれをちょいとつまんで一つ売りさばくだけで巨万の富を得られる。何より、自然発生させるしかないそれを自在に操れるとすればそれは、世界を一変させるだけの力をもたらす」


 まずそうにコーヒーの二口目に口づけて、息継ぎし、「結局」と言葉を継ぐ。


「計画は失敗に終わった。進めようとするのがいれば、止めようと妨害する者もいる。そして、この場合は妨害者の力の方が上だった。だが、その連中が止めた時にはもう『トライバル』の大半は掘り出されていた。滅ぼすには量が多すぎて、処理にも時間がかかる。やむをえず、彼らはその場に丸々、技術的に、霊的に、ありとあらゆる封印を施した。本来ならば未来永劫、一片たりとも出ることのない箱」


「……それが『保管庫』」

 切絵の呟きに、男の首がわずかに反応する。

「この負の遺産を、その当主の家来の黒米という男が引き継いだ。ソロバン勘定やプレゼンターとしての才能には恵まれていたが、欲に目がくらんだ。自分の主が必死に施した封を切って、自分が得をしようと企んだ。『キャラバン』も、今でこそライバル企業の妨害、破壊活動やテロまがいの武力行使までしているが、元々はその『保管庫』を開く能力者を捜すための組織だ。そして宿願のそれが、ついに見つかった、というわけだ」


「そいつ、そのパンドラの箱を開けてどうするんだ?」

 問いかける切絵に対して男は眉間を険しくさせた。面識か、あるいは因縁があるのか。黒米という名を口走る度、忌々しげに口を歪めている。


「あの男に遠大なビジョンは存在しない。金稼ぎと宣伝が上手いだけで、中身は伴わない小物だ。プロジェクトの通り、それを売りさばくだけだろうよ。……もっとも、二千年という歴史の手綱を、ヤツが御しきれるはずはない。遠からず暴走し、世界は破滅に導かれる」


 さて、と。

 カップを置いて立ち上がった男は、コートをはためかせて歩き始めた。

 どこに行くのかと、目で問う切絵に花見は手を振った。

「もう私の仕事は終わりだな」

「……あんた、船に帰らないのか?」

「元々組織の人間じゃないし、私には『トライバル』なんてものは見えない。これ以上は面倒ごとに巻き込まれそうだから、さっさと退散する。お前もあいつに言われた通り、好きにしろよ」


 切絵はため息混じりに部屋を見渡した。

 フリーのカメラマンの部屋。

 立て掛けられていたスタンド。

 学生の頃賞をとったという風景写真。

 仕事で使うという資料の数々。

 構図の勉強として使っていた他のプロの写真集。

 最近まであったはずのそれらは、ことごとく片付けられて消えていて、引っ越す直前のような部屋の状態だった。


「……なぁ」

「あん?」

「この部屋、ずいぶん片付いてない?」

「…………」

 男もまた、部屋を見渡した。しかし興味なさげに視線をそらし、

「さぁなぁ」

 と言った。

「ここに来たことも初めてだしな」

「あんた、あの人と付き合い長いんじゃないのか?」

「長いからって別にそれほど親しいわけじゃない。仕事上の付き合いってだけだ」


 振り返った横顔は、とても晴れやかで、

「まぁ良いんじゃないか?」

 だが無理矢理そんな表情を貼り付けているようでもあり、言葉の端にはどこか拗ねたような響きがあった。


「あいつらが何考えてようと、どうせお前がなんとかしちまうんだろ? カワイイ女の子助け出して、ワルイ奴らぶっ潰して、そのついでにお嬢も救ってな。私みたいなゴミクズには小娘一人蹴り転がすだけで精一杯だってのに。さぞ気分が良いだろうな? まったくうらやましいご身分だよ」


 それじゃ、と片手を挙げる男の背で、切絵は、ぎゅっと、拳を握り固めた。


「後はお前に全部任せて、私は退散たいさーん」


 伸びたその手が、彼の肩を引き止める。


「ごめん、おっさん」

 まず切絵は謝った。


「あんたがどこの誰で、今までどんな生き方してたのかなんてしてたなんて興味はないけど、でも」


 驚愕に目を見開くその顔に、


「一発殴らせろ」


 切絵の右拳が叩き込まれた。

 つんのめってテーブルをひっくり返す男を押し倒し、またがって、そのコートの襟を掴み上げた。

 互いに息のかかるような間合い。そこまで近づいて切絵は、まくし立てた。


「仕事だから? 約束だから? 力がない? 都合の良い言い訳並べて自分のしでかしたことから目をそらそうとしてんじゃねぇッ!」

 最初男は何が起こったのか、そもそも自分が殴られたことにすら気づいていないようだった。キョトンと目を見開いたまま、固まっていた。

「あんたは何の罪もない女の子に乱暴をふるった! 拉致の片棒を担いだ! その結果、多くの人が犠牲になるかもしれないっ! その事実から逃げんなよ! あんた大人だろ!?」


 男の虚の表情から、じわじわと、憤怒と憎悪が滲み出た。


「…………ガキに……ッ……私の何が分かる!」


 切絵の頬に、反撃が入る。今度は男が切絵に掴みかかり、上下の位置は入れ替わる。


 また立ち替わり、また入れ替わり、示し合わせたように起き上がって、互いに一発ずつ殴り合う。

 『トライバル』ではない切絵と、『保管者』ですらなかった男の身体能力は、ほぼ互角と言えた。

 だからこそ互いに、一撃一撃に、容赦ない力を込めていた。


「お前らみたいなのがっ! お前らみたいな力のある人間があるべき場所にいないからっ! 好き放題して勝手に死んでいくからっ! 最後に残った私みたいなのに、ツケが全部回ってくるんじゃねぇかぁっ!」


 それでも男の拳は痛みに届かず、男の言葉は心に届かない。

 目尻に涙を溜めて、声を震わせ、上下左右に震われる腕は、子どものこねる駄々にも似ていた。

 一体この男は、どれほどの無念を今まで噛みしめてきたのか。自分と同じく、深淵に浸かっていた、今も沈んでいく最中なのかもしれない。

 そしてその深さは、本人にしか分からないことだった。

 そんな彼に、情状を酌量せず説教を垂れることは、おこがましい。間違っている。

 ……と、理屈では思う。


「それとあんたが自分の責任を果たさないことに、なんの関係もないだろ!?」

 

 ――それでも、許すことはできない。


 天佳のために、

 島津のために、

 彼の元から去っていったという人々のためにも、

 彼自身のためにも、


「何より一番許せないのは、あんた、自分が逃げようとしてることからも逃げようとしてるっ! 責任を全部島津さんに押しつけて、自分自身から目をそらそうとしてる!」

「……っ!」

「あんただってわかってるんだろ!? 俺と戦おうと戦わなくても、勝とうと負けようと、島津さんは責任とって死のうとしてんだよ! そんな人にあんたの罪まで背負わせるなんて……あの人が許しても俺が許せるかァッ!」


 長い腕から繰り出された渾身の拳は、男を壁まで吹き飛ばした。

 棚に置かれていた空の写真立てが転げ落ちて、男の肩に当たった。


 衣服と呼吸を整えて、切絵は窓へと向かって歩いて行く。

「あんたに言われるまでもなく、絶対に俺は二人を助ける」

 歩きながら、己の覚悟を伝えた。


「それが俺のしなきゃならないことなんだ」

 男は激しい怒りを表面上は収めていた。気力の感じられない視線が、窓から出て行こうとする切絵を見送っていた。


「……あんたが自分で言うように、あんたがゴミクズがどうかなんて知らない。そうじゃないかもしれない。けど」

 切絵は自分の顔の前で手首を交叉させる。

 窓の前で直立し、『X』の刻印が全身を包み込む。


「見ていることしかできないっていうなら、せめてその見届けるって責任は果たせ」


 背で受け止めた、男の弱々しい舌打ちは、果たして承諾のつもりだったのか。なおもくすぶる、切絵に対する怨嗟の声か。


「Mixing No.1×No.9」


 切絵は異形の身となって、雪夜に飛翔する。

 自らに架せられた十字の、その重みを知りながら。

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