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第五章:ハイドロクラテスの遺跡

I


エヴリンが再び姿を現したのは、灰色に曇った午後のことだった。


空は低く垂れ込め、薄汚れたボロ布のような雲が、街全体を重苦しく鈍い光で覆い隠している。いつもより激しく吹きすさぶ海風が身を切るような冷気を運び、街角の落ち葉や紙屑を巻き上げては石畳の上で螺旋を描かせていた。ドックのクレーンは突風に煽られて軋み、その無骨な鉄の骨組みは、今にも倒れそうな悲鳴を上げていた。海上では波が白く泡立ち、次から次へと押し寄せては防波堤で砕け、凍てつく潮の飛沫を容赦なく撒き散らしていた。


オーウェンはちょうど港での荷役シフトを終え、自転車で家路につくところだった。今日は格別に骨の折れる一日だった。あの呪われた積み荷の最後の数箱がようやく貨物船に積み込まれ、発送されたというのに、彼の心は少しも軽くなっていなかった。


コブの狂乱じみた叫び声が、まだ頭の中で渦を巻いている。あの結晶の幽玄な青い輝きが、まだ目の裏でちらついている。そしてヴィクターの古い運送状にあった名前――オクド・ジャド――が、何の前触れもなく思考の表面へと浮かび上がってくるのだった。


行きつけの酒場の前を通りかかった時、表の階段に見知った姿が座っているのを見つけた。


色褪せたウォッシュブルーのトレンチコート。ボロボロの古いギター。いつもどこか笑いを湛えている、あの双眸。だが今回ばかりは、その目に笑みの色は薄く、代わりに何か別のものが浮かんでいた――オーウェンには読み取れない、決定的な何かが。


エヴリンだ。


彼女はオーウェンに気づくと、軽く手を上げて挨拶した。その仕草は力なく、ほとんど気力を振り絞っているようにも見えた。


オーウェンは自転車を止め、歩み寄った。


「また来たのか?」


エヴリンはかすかに微笑み、階段から立ち上がって服の埃をはたいた。その顔は前回会った時よりも青ざめ、目の下には痣のような淡い影が落ちている。長い間、ろくに眠れていないのは明らかだった。風が彼女の髪を激しく乱していたが、彼女はまったく気に留める様子もない。


「通りすがりよ」と、彼女は言った。「古い友達に顔を見せておこうと思ってね」


オーウェンは彼女の全身を観察しながら、無言を貫いた。


彼女が自分とサシャにあの二枚の銅貨を渡して以来、彼はずっと「この女はいったい何者なのか」と考え続けてきた。彼女はすべてを知っているように振る舞いながら、決して核心は明かさない。突然現れては、突然消える。まるで一陣の風のように――掴もうとしても指の隙間をすり抜けていく。ヴィクターに尋ねても首を振るだけだった。イニアスも知らないと言った。


彼女は「謎」そのものだった。パズの街に忽然と現れ、彼らの生活にふわりと入り込み、そして同じように突然消え去る。


「そんな警戒した目で見ないで」


エヴリンの微笑みが、ほんの少しだけ陰った。


「あなたを傷つけに来たんじゃないわ」


「じゃあ、何をしに来たんだ?」


エヴリンは数秒の沈黙を置き、静かに告げた。


「あなたに、知っておくべきことを話すためよ」


彼女は親指で酒場の扉を指し示した。


「中で話しましょう。友達を呼んで。――急いで」


II


三十分後。五人の姿は酒場の隅のテーブルにあった。


オーウェン。サシャ。イニアス。オデュッセウス。そしてエヴリン。


最後に駆け込んできたのはオデュッセウスだった。市民防衛隊の訓練場から直行してきたらしく、顔は汗まみれで、制服にはまだ泥が跳ねている。頬には一筋の汚れまでついていた。彼は椅子に倒れ込むなり、テーブルにあったジョッキを掴んで一気に飲み干した――そして、その場に漂う異様な緊張感にようやく気がついた。


「どうしたんだ?」オデュッセウスは一人ひとりの顔を見回した。「何があった?」


誰も答えなかった。


酒場自体は騒がしかった。誰かが飲み比べに興じ、誰かが歌い、誰かが激しい口論の真っ最中だ。しかし、この隅のテーブルだけは、空気そのものが凍りついたように重かった。


エヴリンは椅子に深く凭れかかり、空になったグラスを無為に手の中で回していた。彼女の視線が一人ひとりの顔をなめるように移動し、最後にオーウェンでぴたりと止まる。


「最近、あなたたちの身に起きていること」


彼女の声は穏やかだったが、喧騒の中でも驚くほど明瞭に響いた。


「そのすべては、偶然なんかじゃないわ」


オーウェンの胸が、ぎゅっと締め付けられた。


「あの積み荷。あの欠片。あの傷痕の男」エヴリンは指を一つひとつ折りながら、その度に重い間を置いた。「そして、あなたたちが身に着けているもの」


彼女の視線がオーウェンの胸元へ向けられ、次にサシャの手首へと移る。


「これらのものを探している者たちがいるの。ずっと、ずっと長い間探し続けてきた者たちがね」


イニアスが眼鏡のブリッジを押し上げた。レンズの奥で、知的な光が鋭く瞬く。


「どういう者たちだ?」


エヴリンは直接的な回答を避け、ただ一言、問いを投げかけた。


「――『ハイドロクラテス』を知っている?」


ハイドロクラテス。


その名が静寂のテーブルに落ち、残っていた僅かな空気を完全に飲み込んだ。


最初に口を開いたのはオデュッセウスだった。


「知ってるに決まってる。二十一年前に帝国軍が爆破したダムだろ。パズ大災害……この街で知らない奴なんているか?」


彼の声が一段低くなった。


「俺の両親はあそこから逃げ出してきたんだ。母さんが言ってたよ。水が迫ってくる速さったら、まるで壁が倒れてくるみたいだったって。逃げる隙なんて、ありゃしなかったってな」


サシャはうつむき、押し黙っていた。彼女の養母であるデレンもあの災害の生存者の一人だったが、その過去を自分から語ろうとしたことは一度もなかった。


エヴリンは静かにうなずいた。


「じゃあ、そこに『何が埋まっているか』は知ってる?」


誰も答えられない。


エヴリンはオーウェンを真っ直ぐに見つめ、一言一言に重みを込めるように言った。


「あなたたちが探しているものは、ハイドロクラテスにある。すぐに行かなければ、手遅れになるわ」


彼女は立ち上がり、くしゃくしゃになった紙幣を数枚テーブルに置くと、扉の方へと歩き出した。


敷居を跨ぐ直前で、彼女はちらりと振り返る。


「忘れないで」


その視線が、オーウェンとサシャの間を往復した。


「そこには、あなたたちを待っている『答え』があるかもしれない」


エヴリンは扉を押し開け、深まりゆく黄昏の中へと足を踏み出していった。


開いた扉の隙間から冷たい風が吹き込み、壁のガス灯の炎を激しく揺らめかせた。


III


隅のテーブルの沈黙は、長く、あまりにも長く続いた。


飲み比べの歓声。酔っ払いの歌声。終わらない口論。周囲の喧騒は相変わらずだったが、この五人だけは完全に言葉を失っていた。


ついに沈黙を破ったのはオデュッセウスだ。


「あの女……いったい何のつもりなんだ?」


誰も彼に答えられない。


イニアスは眉をひそめ、指先でテーブルをゆっくりと、リズミカルに叩いていた。彼が深く考え込んでいる時の癖だった。トン。トン。トン。


「ハイドロクラテスか」イニアスがぽつりと呟いた。「親父の手紙にも、あの場所のことが書かれていた。何かが埋まっていると。二十一年前の出来事と関係があるらしい」


オーウェンは彼を鋭く見返した。


「どの手紙だ? そんな話、今まで聞いたことがないぞ」


イニアスは少し躊躇い、それから重い口を開いた。


「お前に見せた手紙だ。ロウズの奴さ。ハイドロクラテスの遺跡の下に、何かが隠されていると書かれていた。だが、それが具体的に何なのかは記されていなかったんだ。俺はただの与太話だと思って、気にも留めていなかった」


オーウェンは沈黙した。


ロウズ。また、あの名前だ。


会ったこともない男。母親が「友人」と呼んでいた男。一通の手紙と、一つの欠片と、無数の「答えの出ない疑問」だけを残していった男。


サシャはそれまでずっと口を閉ざしていた。彼女はうつむいたまま、自分の手首をじっと見つめている。そこには青い模様が、薄暗いランプの灯りを受けてかすかに光を帯びていた。


「私、行くわ」


唐突な宣言に、全員の視線が彼女に集まった。


サシャが顔を上げる。その目には薄っすらと涙が光っていたが、そこには悲しみでも怒りでもない、もっと深く、決然とした強い意志が宿っていた。


「あの詩人の言ったことが本当なら、あそこに私の両親の手がかりがあるかもしれない。だから、行く」


オーウェンは彼女の瞳を見つめ返し、数秒の沈黙の後、うなずいた。


「俺も行く」


オデュッセウスが大きな掌をテーブルに叩きつけ、ジョッキが跳ね上がった。


「だったら俺も行くに決まってるだろ! みんなで乗り込むってのに、俺だけここで間抜けに留守番してろってのか!」


イニアスは眼鏡を押し上げ、ひどく長く、諦めたようなため息をついた。


「……やれやれ。じゃあ全員で行くしかないな。俺も、二十年もの間、親父にぶつぶつと文句を言わせ続けてきた元凶が何なのか、この目で確かめてみたいしな」


サシャはオーウェンを見つめ、何か言葉を紡ごうと唇を微かに開いたが、結局は何も言わず、ただ小さく静かにうなずいた。


窓の外では、すっかり夜の帳が下りていた。


ガス灯が一つ、また一つと灯り、琥珀色の光の輪が風に揺れている。パズの街全体が、暖かで偽りの橙色の毛布に包み込まれていくようだった。


しかし、彼らの誰もが知っていた。その暖かさが、まやかしに過ぎないということを。


IV


翌朝。まだ夜も明けきらないうちに、四人は市門の前に集まっていた。


霧は濃く、十歩先すら見通せない。遠くから一定のリズムで寄せては返す海の音が、まるで巨大な生物の鼓動のように響いてきた。時折、早起きの漁師が荷車を押して通り過ぎていく。くぐもった空気の中でひときわ鮮明に響くその足音も、やがて白い闇の奥へと吸い込まれて消えていった。


オーウェンは小さな背嚢を背負っていた。中身は乾パンと水、そして以前ヴィクターから譲り受けた短刀だ。刃は軽かったが、柄を握っていると奇妙な感覚に陥る――まるで短刀自体が生きているかのように、己の鼓動と同調しているような錯覚を覚えた。


イニアスははるかに大きな背嚢を担いでいる。ずっしりと重いその中には、結晶濃度を測定する装置をはじめ、ロープの束、予備の石油ランプなど、オーウェンには用途すら分からない様々な機材がぎっしりと詰め込まれていた。


オデュッセウスの腰には、市民防衛隊から支給された短剣が帯びられている。彼がどうしても持って行くと主張してきかないのだ。おまけに「念のためだ」と言って、太い鉄の棒まで担いできている。


サシャの荷物は医療品の詰まった鞄だった。顔色は少し青ざめていたが、その瞳は静かに澄んでいた。


「みんな、準備はいいか?」オーウェンが低い声で尋ねる。


三人が無言でうなずく。


そして彼らは、白濁した霧の中へと足を踏み入れた。


ハイドロクラテスはパズの北へ十キロほど、ディスコンセロス川を遡った先に位置している。徒歩で半日ほどの道のりだが、道中は荒れ果てていた。二十一年前の戦争の傷跡が、生々しく大地に刻まれたままだ。


放棄された要塞、赤茶けた有刺鉄線の束。そして道端には、誰のものとも知れない無数の墓標が点在している。名前が刻まれた墓石もあれば、ただ土を盛り上げ、木の杭を一本打ち込んだだけの粗末な土饅頭もあった。


一時間半ほど歩き続けた頃、周囲の霧が徐々に薄れ始め、彼らの前に唐突に「それ」が姿を現した。


四人は、ただその場に立ち尽くすしかなかった。


ハイドロクラテス・ダムの遺跡。


かつてそれは、セヴェロス全土で最大の規模を誇る水力工事計画の結晶だった。ディスコンセロス川の両岸を跨ぐように建設され、その外壁は雲を摩するほど高くそびえ立っていたという。古老たちはよく語っていたものだ。「もしダムの頂上に立って下を見下ろせば、己の矮小さに目眩を覚えるだろう」と。


二十一年前、帝国軍がそれを爆破し、猛り狂った濁流が下流のパズの街を飲み込み、数え切れないほどの命を奪い去った。


今では、ただ壊滅した瓦礫の山だけが、死んだ巨大な海獣の骨格のように川岸に沿って横たわっている。


押し潰された巨大なコンクリート板が丘のように折り重なり、捻じ曲がった鉄筋が、無数の手が虚空を掴もうとするかのように突き出している。あらゆる隙間から雑草が生い茂り、地表の隅々まで這い広がっていた。場所によってはすでに若木が深く根を下ろしている。


あちこちに、あの時代の遺物が散乱していた。錆びた鉄のバケツ、半分焼け焦げた木の梁、腐りかけた軍帽。その鍔には、とうの昔に腐食したセヴェロスの紋章がまだしがみつくように残っている。


オーウェンはその場に立ち尽くし、巨大な遺跡を見上げながら、名状しがたい感情が胸の奥から込み上げてくるのを感じていた。


彼は二十一年前の大災害を直接経験したわけではない。しかし、自分の運命が、この瓦礫の山と不可分に結びついていることだけは直感できた。


隣に立つサシャの顔は、さきほどよりもさらに蒼白だった。彼女の指先が、かすかに震えている。


「行こう」


オーウェンは短く告げ、先頭を切って歩き出した。


V


彼らは神経を尖らせながら、遺跡の奥深くへと足を進めていった。


見渡す限り、砕けたコンクリート、捻じ曲がった鉄筋、錆びついた機械の残骸が続く。場所によっては、ポンプ室や宿舎、あるいは監視塔など、古い構造物の輪郭を辛うじて判別することができた。しかし、そのほとんどはただの無惨な破片であり、複雑に積み重なって本来の姿を失っている。


雑草は膝の高さまで伸びており、彼らの靴やズボンの裾はあっという間に朝露でぐっしょりと濡れた。時折、茂みの中から野ウサギが飛び出してきては、極限まで張り詰めた彼らの心臓を跳ね上がらせた。


イニアスは探知器を手に持ち、針の動きから目を離さずに先頭を歩いていた。針は小刻みに震え続けているものの、明確な方向を示してはいない。


「こっちだ」


イニアスが遺跡のさらに奥を指さした。


彼らは崩落した建物群の内部へと足を踏み入れた。頭上では亀裂の入ったコンクリートの梁が危うい角度で交差し、足元は砕けた石材が不安定に重なり合っている。太陽の光は厚い瓦礫に遮られ、わずかな隙間から差し込む細い光の筋が、地面に揺らめく陰影を落としていた。


空気は湿った黴の匂いで充満し、それに混じって何か――古く、名状しがたい異質な匂いが漂っていた。


どれほど歩き続けただろうか。突然、イニアスが立ち止まった。


「ここだ」


彼らの目の前には、完全に「無傷」の壁が立っていた。


周囲が徹底的に破壊し尽くされている中で、それはあまりにも異質だった。崩れてもいなければ、罅割れ一つない。傷すらほとんど見当たらない。まるで誰かが意図してそこだけを保護したかのようだ。


滑らかな表面には、奇妙な記号がびっしりと刻み込まれていた。ひどくすり減り、判読は困難だったが、何らかの古代文字であることだけはわかる。曲線的で、しなやかで、彼らが知るいかなる言語とも似ていなかった。


「なんだこりゃ?」


オデュッセウスが身を乗り出し、興味本位で手を伸ばした。


「それに触るな!」


イニアスが鋭く叫んだ。


しかし、遅かった。


オデュッセウスの指先が石の表面に触れた瞬間、刻まれた記号が脈打つように輝き始めた。溝の奥から青い光が滲み出し、徐々に光量を増しながら、まるで意思を持った生き物のように壁全体を走り抜けていった。


全員が反射的に一歩後退した。


その時、オーウェンは胸元の結晶が唐突に焼け付くような熱を放ったのを感じた。あまりの激痛に、思わず叫び声を上げそうになった。彼は発熱する胸元を強く押さえた。シャツの布地を透かして、結晶が強烈な光を放っているのがわかる――壁に走る光と、まったく同じ青色だった。


音もなく、壁が滑るように左右へと開いた。


ぽっかりと口を開けた、一切の光を拒絶するような暗黒の入り口が、彼らの前に姿を現した。


開口部から冷え切った空気が流れ出してくる。外の空気よりもさらに濃い黴の匂い。そして、鼻腔をくすぐるあの奇妙な匂い――線香のようでもあり、しかし決定的に違う何かの匂いが強烈に漂ってきた。


オデュッセウスは口を開けたまま、言葉を失っている。


イニアスはひどく複雑な表情でオーウェンを見た。


「お前の結晶……」イニアスが喉の奥から絞り出すように言った。「あれは、この下にある『何か』と繋がっているんだな」


オーウェンは答えなかった。


彼はただ、壁に開いた暗黒の入り口をじっと見据えていた。胸元の結晶が、まるで呼応するかのように激しく脈打っている。


VI


四人は暗闇の中へと足を踏み入れた。


イニアスが石油ランプに火を灯すと、くすんだ琥珀色の光が周囲の数メートルだけを頼りなく照らし出した。


足元は石造りの階段になっていた。一段、また一段と下へと続いている。傾斜はきつく、湿気で酷く滑りやすい。階段の先は底知れぬ深淵へと呑み込まれていた。表面は柔らかな苔に覆われており、彼らの足音を不気味なほどに吸い込んでいる。


絶対的な静寂。聞こえるのは、微かな衣擦れの音と、どこかで水滴が落ちる音だけだ。


ぽたり。ぽたり。ぽたり。


まるで、古代の時計が悠久の時を刻んでいるかのように。


どれほど階段を下り続けただろうか。


オデュッセウスが苛立ちに息を荒げ始め、イニアスが段数を数えるのを放棄し、サシャの足が痛みで悲鳴を上げ始めた頃――。


唐突に、前方の空間が大きく開けた。


彼らは広大な地下広間へと足を踏み入れていた。


天井は遥か高くへと弧を描き、ランプの光は到底届かない。広大な壁面は、一面の壁画で覆い尽くされていた。長い歳月によって色彩は色褪せ、所々剥落していたものの、描かれた図像ははっきりと読み取れる。人間、獣、奇妙に歪んだ異形の生物たち。そして、解読不能な無数の記号。


中でも彼らの目を引いたのは、正面の壁一面を占める巨大な壁画だった。


描かれていたのは、一人の女性の姿だった。


彼女は純白の長い衣をまとい、星々が瞬く天蓋の下に立っている。両手には、一つの小さな灯りを抱き抱えていた。その顔立ちは酷く美しく、同時に、計り知れない悲しみと底知れぬ優しさに満ちていた。彼女の視線は遠く前方を見据え、まるで「誰か」が来るのを永遠に待ち続けているかのようだった。


サシャはその壁画を見つめ、心臓が早鐘のように鳴るのを感じた。


知っている。この女性を見たことがある。


夢の中で。それも、一度や二度ではない。


オーウェンもまた、絵の中の女性から目を離せなかった。彼の手は無意識のうちに胸元の結晶を強く握りしめていた。結晶はかつてないほどの熱を帯び、掌を焼き焦がさんばかりに脈打っている。


「おい、あれは何だ?」


オデュッセウスが広間の最奥を指さした。


一段高くなった石の台座があった。それは継ぎ目のない一つの巨大な石から彫り出されており、滑らかに磨き上げられた表面が、ランプの光を捉えて微かに煌めいている。


その台座の中央に、一つの『灯り』が安置されていた。


簡素で、一切の装飾がなく、片手に収まるほどの小さなものだ。材質は金属とも陶器ともつかず、何でできているのか皆目見当がつかない。そしてそれは、幽玄な青い燐光を微かに放っていた。頼りない光だが、奇妙なほどに暖かい――まるで生きているかのように。


オーウェンは吸い寄せられるように台座へ歩み寄り、手を伸ばしてその灯りを取った。


彼の指先が表面に触れた瞬間。


内側から爆発的な光が溢れ出し、オーウェンの全身を包み込んだ。


それは暖かく、信じられないほどに優しい光だった。まるで母親の手が頬を撫でているような、長く厳しい冬を越えた後の、春の最初の陽光を全身に浴びているような感覚。


その時、彼は「声」を聞いた。


ひどく小さく、遠く、深い夢の底から響いてくるような声。


『ようやく……来てくれたのね』


その声は外から聞こえたのではない。彼自身の心の最も深い底から、直接湧き上がってきたものだった。


やがて、光はゆっくりと収束していった。


オーウェンはその場に立ち尽くし、手の中の灯りをじっと見つめていた。彼の頬を、一筋の涙が伝い落ちる。


なぜ自分が泣いているのか、彼自身にも分からなかった。ただ、溢れ出る涙をどうしても止めることができなかった。


VII


「若者よ」


暗闇の奥から、掠れた古い声が響いた。


四人は一斉に振り返った。


濃い影の中から、一人の老人がゆっくりと姿を現した。


身に纏っている衣服はボロボロに擦り切れ、こびりついた汚れのせいで元の色すら判別できない。白髪は乱れ、もつれて固まっている。顔には深い皺が刻み込まれ、まるで廃墟のようだった。極度に痩せ細り、骨の上に薄い皮を張り付けただけの肉体は、一陣の風が吹けばそのまま崩れ落ちてしまいそうだ。


しかし、その目だけは違った。死に瀕した老人とは到底思えないほど鋭く、暗闇の中で二つの星のように爛々と輝いていたのだ。


老人は、オーウェンの手にある灯りを長い間、愛おしそうに見つめた。


そして、彼は静かに微笑んだ。


その笑みには、あまりにも多くの感情が内包されていた。使命を果たした達成感。長く背負いすぎた重圧からの解放。二十一年間という途方もない守護の時間が、ついに終わりを迎えたという骨の髄からの安堵。そして――計り知れない悲哀。


「お前が……選ばれた者か」


オーウェンは老人を見返した。「あんたは誰だ」と問いただしたかったが、言葉が喉に閊えて出てこない。


老人はゆっくりと歩み寄り、オーウェンの目の前で足を止めた。彼は骸骨のように痩せこけた手を震わせながら伸ばし、畏敬の念すら込めるように、そっと灯りに触れた。手はひどく震えていたが、その眼差しには完全な静謐が宿っている。


「二十一年だ」老人の声は、枯れ葉を撫でる風のようにざらついていた。「この二十一年間、ずっと守り続けてきた。誰かが、ここを訪れるのを待って」


彼は顔を上げ、オーウェンと視線を合わせた。その瞳の奥には、追憶、強烈な罪悪感、そして言葉には到底表せない深い悔恨の色が渦巻いていた。


「……あんたは、誰なんだ?」


オーウェンはようやく声を絞り出した。


老人は直接の問いには答えず、ただ語り続けた。


「その灯りの名は『宝蓮灯ほうれんとう』。ずっと、ずっと昔からこの地に残されてきたものだ。それが何を為すものなのか――お前はまだ知る必要はない。だが、これだけは心に刻んでおけ。死ぬ気で守り抜け。決して、持つべきではない者たちの手に渡してはならない」


老人はゆっくりと向き直り、今度はサシャを見据えた。


「お前は……シェイリャの娘だな」


サシャの全身が、氷を当てられたように硬直した。


老人は彼女を見つめた。その目の中の悲しみの色がさらに深まり、底なしの海のようになる。


「お前の母親は……立派な女性だった。賢く、そして勇敢だった。あんな所で死ぬべき人ではなかった」


サシャの瞳から、堪えきれずに涙がこぼれ落ちた。


「私の……母を知っているの?」


老人はしばし沈黙し、重々しくうなずいた。


「知っているとも。二十一年前、彼女はここへやって来た。そして、この場所から『あるもの』を持ち出したのだ」


彼は言葉を区切り、声のトーンをひどく落とした。ほとんど聞き取れないほどの声で呟く。


「あの持ち出したものこそが……彼女の命を奪う結果となった」


サシャの指先が震えていた。「それは何だったのか」「母はどうやって死んだのか」「それは今どこにあるのか」。無数の疑問が頭の中で渦巻いたが、声帯が凍りついたように動かない。


老人は彼女を見つめ続け、唐突に手を伸ばすと、サシャの手首にある青い模様にそっと指先を触れた。


「お前も同じだな。彼女と、同じ印を持っている」


彼は再びオーウェンへと向き直った。


「お前が胸に提げているその結晶。誰から受け取ったものだ?」


オーウェンは反射的に胸の結晶を手で覆い隠した。


「母さんだ。俺のために残してくれたんだ」


老人はゆっくりとうなずいた。


「そうか。お前の母親は……ニヤだな」


オーウェンの全身の血の気が引いた。


「なんだって? ニヤが……俺の母親だと?」


老人は何も答えなかった。ただ、目の前の二人の若者を、ひどく長く、深い眼差しで見つめ返すだけだった。


やがて、彼はふっと淡く笑った。そこには、すべての未練を断ち切ったような「解放」の気配が漂っていた。


「二十一年前」老人は穏やかな声で、まるで自分自身に言い聞かせるように語り始めた。「帝国の軍勢が、我々の頭上まで押し寄せてきていた。内閣は早々に降伏を選択した。だが、ある者たちはそれに抗った。王と女王、そして近衛隊は王都アランを離れ、この辺境のパズへと撤退した。まだ抗戦できると信じてな。そして――」


老人は言葉を切った。


「そして奴らは、ハイドロクラテスのダムを爆破したのだ。膨大な水が、パズの街を丸呑みにした。どれだけの命が失われたのか、私には分からない。数千か? 数万か? 数えることなど、到底できなかった」


サシャは息を呑んだ。


彼女はこの老人を凝視した。ボロボロに擦り切れた衣服。落ち窪んだ眼窩。そして、その瞳の奥底に横たわる、無限の悔恨を。


「あんたは……まさか……」


老人は何も答えず、ただ静かに若者たちを見つめていた。


VIII


老人は、自分の両手を見下ろした。骨と皮ばかりの、深い皺が刻まれたその手を。


「私も、あの時死ぬべきだった。だが、誰かが私を水の中から引き上げたのだ。その男は私に言った。『お前はまだ死ぬわけにはいかない。この灯りを守れ。来るべき者が、ここを訪れる日まで待て』と」


老人は顔を上げ、オーウェンの手にある宝蓮灯を見つめた。


「私は二十一年間、ここで待った。来る日も来る日も、死を望みながら。毎晩のように、濁流に呑まれていった者たちの夢を見た。彼らの苦痛に歪む顔。必死に伸ばされた手。そして、私を呪うようなあの目……」


老人の声が、初めて微かに震えた。


「私が、彼らを殺したのだ。もし私が、あそこまで頑固でなければ。他の者たちと同じように降伏を選んでいれば、あるいは……」


老人は、言葉の結末を口にしなかった。


サシャは彼を見つめたまま、ただ涙を流し続けていた。何かを言おうとしたが、言葉は見つからなかった。


オーウェンは手の中の灯りを強く握りしめた。表面の熱が、さらに増していくのを感じる。


「あんたは、この灯りを二十一年間もたった一人で守り抜いたんだな」オーウェンは絞り出すように言った。「……ずいぶんと、耐えてきたんだな」


老人はオーウェンを見つめた。その濁った瞳の奥に、確かな光が宿る。


――その時だった。


遥か後方の暗闇から、微かな音が響いた。


足音だ。


それも一つや二つではない。非常に小さく、異常なほどに速い足音の群れ。


老人の顔色が一瞬にして変わった。


「来たか」彼は鋭く囁いた。「――逃げろ」


「誰が来たってんだ!」オデュッセウスが怒鳴るように問いただす。


老人は答えず、オーウェンを広間の奥へと力強く押しやった。


「行け! この裏にある通路を抜けろ。急ぐんだ!」


オーウェンはなおも問い質そうとしたが、老人の目を見た瞬間、すべての言葉を呑み込んだ。そこには一切の反論を許さない、絶対的な決意があった。


四人は踵を返し、老人が指さした暗い通路へと走り出した。


数歩進んだところで、オーウェンはたまらずに振り返った。


老人は広間の中央に立ち、入り口の暗闇と対峙していた。


先程までの背の曲がった脆弱な姿は微塵もない。背筋はまっすぐに伸び、まるで歴戦の騎士のような威厳を放っていた。頭上の僅かな裂け目から差し込んだ一条の月光が彼を照らし出し、銀白色の衣を纏わせているようだった。


入り口の影から、数人の黒い人影が雪崩れ込んできた。


黒い装束。目深に被ったフード。


彼らの足音は風の囁きのように柔らかく、不気味なほどに音を立てない。その身のこなしは極めて異質で、滑らかすぎて――到底「人間」のものとは思えなかった。


先頭の影が顔を上げた。月光がその相貌を照らし出す。


若く、ありふれた顔立ちだった。だが、その「目」は――完全に虚ろだった。感情も、意志も、命の輝きすら存在しない、絶対的な虚無。


男は老人を見据え、口元をゆっくりと歪めて笑みを作った。


「まだ、生きていたのか」


老人は豪快に笑った。


その声には、深い侮蔑と、完全な解放、そしてオーウェンには到底理解し得ない「何か」が込められていた。


「私が死んだら、誰が貴様らの墓を掘るというのだ?」


老人は両腕を大きく広げ、侵入者たちの行く手を完全に遮った。


「走れぇっ!!」


老人の咆哮が地下空間を震わせた。


オーウェンたちは前を向き、死に物狂いで駆け出した。


背後からは激しい戦闘の音が響いてきた。肉が裂ける音。苦痛の絶叫。


そして、老人の高笑いが、広大な暗黒の空間に幾重にも反響する。


『忘れるな!』


轟音を切り裂いて、老人の叫びが届いた。


『その灯りを守り抜け! それは――』


声は唐突に途切れた。


ギロチンの刃が落ちたかのように、ぷつりと。


オーウェンは思わず足を止め、振り返ろうとした。


「振り返るな!」イニアスがオーウェンの腕を乱暴に掴んで引っ張った。「走れ!」


彼らは走り続けた。


漆黒の通路を抜け、水滴の滴る石段を駆け上がり、苔むした壁を乱暴に擦り抜けながら。


どれほどの時間、走り続けたか分からない。


やがて、背後の戦いの音は完全に止んだ。


あの高笑いも、二度と聞こえなかった。


彼ら自身の荒れ狂う呼吸の音と、石畳を蹴る足音だけが、虚しく暗闇に響いていた。


IX


別の出口から遺跡の外へと転がり出た時、すでに夜明けが迫っていた。


東の空が鈍色に白み始め、夜空の星々が一つ、また一つと姿を消していく。明け方の冷たい風が容赦なく彼らの身体を打ち据え、抑えきれない震えを引き起こした。


四人は地面に倒れ込み、肺が破れんばかりに酸素を貪り食った。


オーウェンはゆっくりと顔を上げ、自分たちが逃げてきた方向を振り返った。


青白い朝霞の中に、ハイドロクラテスの巨大な遺跡が沈鬱に蹲っている。まるで深い眠りについた巨獣のように、ただ静まり返っていた。


老人が彼らに続いて姿を現すことは、なかった。


サシャはオーウェンの隣にへたり込み、紙のように蒼白な顔で遺跡を見つめていた。両目は充血して真っ赤だったが、涙は流していなかった。


オデュッセウスは大の字に倒れ込んだまま、激しく胸を上下させている。


イニアスは崩れた壁にもたれかかり、目を閉じて必死に呼吸を整えていた。


誰も口を開かなかった。


長い、長い時間が過ぎた後。オーウェンはうつむき、自分の掌中にある灯りを静かに見つめた。


それはまだ、淡く輝いていた。ひどく微かだが、しかし決して途切れることなく。


「あの老人は……」オーウェンがかすれた声で呟いた。


サシャがゆっくりと彼の方へ顔を向ける。


「あの人は、私の母を知っていた」彼女の声は、消え入りそうに小さかった。「立派な人だったと、そう言ってくれた」


オーウェンは黙ってうなずいた。


「俺の母のことも、知っていた」


彼らは黙り込んだまま、手の中の青い光をじっと見つめ続けた。


朝の光が徐々に強さを増し、巨大な遺跡の上に、そして傷だらけの彼らの上に、静かに降り注いでいた。


X


四人がどうにかパズの街へと帰り着いた頃には、すでに夕刻を迎えていた。


沈みゆく夕日が、街全体を溶けた黄金色に染め上げている。


ドックの巨大なクレーンは相変わらず鈍い音を立てて旋回し、工場の煙突は黒々とした煤煙を吐き出している。港湾労働者たちは威勢よく作業歌を歌い、路地裏では子供たちが泥まみれになって駆け回っていた。


すべてが、昨日と何一つ変わらない日常の風景だった。


しかし、オーウェンには分かっていた。


もう「何もかもが同じではない」ということを。


彼は自宅の扉を押し開き、中へと足を踏み入れた。


台所ではサラがストーブの前に立ち、火にかけられた鍋がグツグツと湯気を立てている。彼女は足音に気づいて振り返り、オーウェンの姿を見て動きを止めた。


「どうしたの? あなた……ひどく疲れているみたいだけれど」


オーウェンは力なく首を振り、無言のまま自室へと入った。


彼は灯りをベッドの枕元に置き、そのまま仰向けに倒れ込んで天井を見つめた。


灯りはまだ輝いている。微かだが、決して消えることなく。


オーウェンは、あの老人の瞳に浮かんでいた色を思い返した。


あの追憶、あの罪悪感、そして、あの底知れぬ悔恨の色を。


彼が最後に口にした言葉が蘇る――「私は二十一年間、待ったのだ」


あの老人は、いったい何者だったのだろうか。


逃げ出すことはできたはずだ。他の者たちのように降伏を選ぶこともできた。ただ生き延びるという道を選ぶことだってできたはずだ。


しかし、彼はそうしなかった。


彼は暗黒の地下で一人、あの灯りを守り、二十一年という途方もない時間を待ち続けた。


誰かが来るのを。


そう――他でもない「自分」が来るのを、待っていたのだ。


オーウェンは静かに目を閉じた。


老人の最期の絶叫が、頭蓋の裏側で反響し続けている。


『――灯りを守り抜け!』


守り抜いてみせる。


どんな代償を払うことになろうとも。


窓の外では、完全に夜の帳が下りていた。


遠くから、教会の鐘の音が重々しく響き始めた。

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