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プロローグ:セヴェロスの落日 PART.1

──ようこそ、クリスタルとスチーム、そして戦争の世界へ。

歴史の息吹を感じさせる重厚なスチームパンクの世界観に、古の神話が融合する──。

ここに、泥に塗れた鉄と硝煙の本格架空戦記が幕を開ける。


港湾都市パズで、それぞれ平凡な日常を送っていた二人の若者。

配達員の青年オーウェンは、その胸元に「謎の青いクリスタル」を隠し持っていた。

そして看護師の少女サシャの手首には、奇妙な光を放つ「刻印」が刻まれていた。


ジェリオ帝国の無慈悲な侵略が、そのすべての平穏を打ち砕くまでは──。


王宮の深き闇の底には、ある男が潜んでいた。

男の目的は、聖なる『宝蓮灯ロータス・ランタン』。

だが、その強大なる力を手にするには、凄惨な代償──「最愛のすべてを失うこと」が必要であった。

サシャを待ち受けるあまりにも過酷な運命。それすらも、すべては男が冷徹に仕組んだ罠に過ぎなかった。


最愛の者を救い、かつて交わした誓いを果たすため──。

オーウェンは数少ない生き残りの戦士たちを率い、戦火と混沌が渦巻く帝国の心臓部へと進軍を開始する。

── 大陸暦1320年 ──

I.

潮風に撫でられた麦畑が、うねるような波を描いていた。

それはまるで、広大な黄金の海であった。


十二月の王都アラン郊外は、秋の名残とも言える奇妙な心地よさに包まれていた。


一人の農夫が午後の刈り入れを終え、街道沿いの木陰へと身を寄せる。

肩にかけた手拭いで額の汗を拭い、渇きを癒そうと鉄製の水筒を掲げた、その時であった。


北方街道の彼方から、猛烈な砂煙を巻き上げ、黒塗りの車列が轟音を立てて突進してきた。


農夫は慌てて水筒の蓋を閉め、目を細めて通り過ぎる影を睨みつける。


それは、六台の黒い魔導蒸気自動車スチーム・カーであった。

車体は厚い泥に覆われ、エンジンは野獣のような低い唸り声を上げている。

排気管から沸き立つ白い蒸気が、秋の陽光に照らされて鮮烈に輝いていた。


真ん中の一台が通り過ぎる瞬間、彼は窓越しに一人の女性の横顔を目撃した。


若く、その顔立ちは青ざめ、信じられないほどに悲痛な強張りを帯びていた。


刹那の間。

車列は王都アランの方向へと掻き消えていった。


農夫の名はコル・ヤンソン。

この土地を四十年間、耕し続けてきた男である。


彼は腰を伸ばし、車列が消えた方角をじっと見つめながら、今度は上着の袖で額の汗を拭った。


彼が知る由もなかった──いや、知るはずもなかった。

先ほど目にした女性こそが、セヴェロス王国の正統なる王位継承者クラウン・プリンセス、ニヤ王女殿下その人であったということを。


かつて彼女が塹壕の中から行った演説は、大陸全土の民を感動の涙に震え上がらせた。

そしてこれが、彼女がこの故郷の土を踏む、最後の姿となった。


コルは再び腰を曲げ、収穫の作業へと戻っていった。


遥か遠くの街からは、蒸気機関車の汽笛が次々と鳴り響く。

それは風に乗ってやってきた不吉な予兆のように、低く、哀しげに響き渡るばかりであった。


II.


王都アラン、イザベラ通り211番地。


看板も銘板すらもない、灰色の石で造られた、ありふれた五階建てのビルであった。

しかし、アランの市民であれば誰もがその建物の目的を知っていた。

そこには、内閣緊急審議室が置かれている。


建物の前に据えられたガス灯にはすでに火が灯り、夕闇の中でその病的な黄色い光輪を揺らしながら、行き交う官僚たちの強張った顔を照らし出していた。

石壁に絡みつく蔦の葉が、秋の冷たい風に震えている。


ハイドリン・ヴァルデマールは、三階の窓辺に立っていた。

すでに三十分もの間、その場所に立ち尽くしていた。


彼はセヴェロス王国内務大臣、六十一歳。

十二年もの間、この座を不磨の境地として維持し続けてきた男である。


今、彼は目を凝らし、遥か彼方にそびえ立つ『アレクサンダー灯台』を見つめていた。

四世紀にわたり海を見守り続け、アラン市の象徴であり、数多の船乗りたちの希望の光となってきた古き塔。

その頂点にある灯火が、深まりゆく闇の中で三秒に一回、鋭く明滅している。


しかし、彼の顔に希望の光はなかった。


窓の外から、また一つ、蒸気機関車の長く、荒涼とした汽笛が聞こえてきた。

それは、陥落したブレレット王国から逃れてきた難民たちで破裂寸前の、北方からの最終列車の音であった。

機関車から噴き出す白い蒸気が、夕闇の中で不気味に浮き上がっている。


客車の屋根の上にまで、まるで黒い葡萄の房のように人々がしがみついていた。

彼らは、セヴェロスにたどり着けば安全だと信じ込んでいるのだ。


彼らは知らない。

このセヴェロス王国にも、もう時間が残されていないということを。


扉が開いた。

内閣書記官であるバーナー・ハイセンが、書類の束を抱えて早足で入ってきた。


五十三歳、二世紀の伝統を持つ文官機構に身を置いてきた彼は、いかなる事態でも冷静さを保つ術を心得ていた。

しかし、今日ばかりは、その手がわずかに震えている。

スーツの袖口はインクで汚れ、ネクタイは歪み、額にはびっしょりと汗が浮き出ていた。

執務室からここまで全力で走ってきたのは明白であった。


「ハイドリン閣下」

バーナーは背後の扉を閉め、低く張り詰めた声で告げた。

「前線からの緊急報です。今朝未明、ブレレットの国境防衛線が完全に崩壊いたしました」


ハイドリンは振り返らなかった。

その声は、掠れるような囁きであった。


「……何日持った?」


「三日です。ジェリオ帝国の第七軍は、わずか三日で突破いたしました」


バーナーは机に駆け寄り、地図を広げた。

そして国境の一点を指で突き刺す。

それは無数の記号が密集した軍事地図であった。

鮮血のような深紅の矢印が、帝国の国境からブレレットの心臓部へと深く突き刺さっている。


「『砂のサンド・シティ』が陥落。グスタフ中将は……降伏いたしました。今日の午後二時、市外の小さな村で降伏文書の調印が行われた模様です」


ハイドリンが、ようやく振り返った。

彼の視線が地図へと落ちる。

サンド・シティと記された小さな点──ここ王都アランから四百キロメートルも離れていない。


そこからここまで、騎兵なら三日、蒸気列車なら二日。

そして、飛行船なら……わずか一日。


彼は机に歩み寄り、電報を手に取った。

紙面からはまだ新鮮なインクの匂いが漂っている。

電信受信機から引きちぎられたばかりの、端がギザギザになった用紙だ。

そこには、戦況の凄惨な記録が重々しく刻まれていた。


ブレレット第三軍壊滅、第十二師団降伏、近衛連隊の八割が戦死、すべての国境要塞を喪失……。


そして最下部には、赤インクでこう追記されていた。


『帝国軍の航空艦隊がサンド・シティの飛行場に進入。後続部隊が集結中。哨戒班の報告によれば、少なくとも三隻のミョルニル級飛行船を確認』


「我が方の航空艦隊は?」

ハイドリンが問う。


「ジェリオ軍の戦力の、三分の一にも満ちません」

バーナーは苦い笑みを浮かべ、鞄から別の書類を取り出した。


「国防省からの報告です。稼働可能な戦闘用飛行船はわずか四十二隻。しかもその半分は、実用上昇限度がわずか五千メートルに過ぎない旧式のアルバトロス級です。帝国のミョルニル級は八千メートルの超高高度を巡航し、我が方の二倍の爆弾を搭載できる。我々の高射砲では、その高度に届きすらしないのです」


沈黙が室内の空気を支配した。


窓の外から、新聞売りの少年の甲高い叫び声が響いてくる。


「号外! 号外! ブレレット降伏! ジェリオの軍がすぐそこに! 号外、号外!」


その声は石畳の通りに響き渡り、馬の蹄の音、車輪の轟音、そしてパニックに陥った群衆の喧騒と混ざり合っていった。


ハイドリンは窓の下の混沌を見下ろした。

人々は走り、ある者は人目をはばからず泣き叫び、ある者は完全に途方に暮れて立ち尽くしている。

荷物を山積みにした馬車がガタガタと通り過ぎ、荷物の隙間に横たわる子供の目は赤く腫れ上がっていた。

街角のカフェでは、人々が身を寄せ合い、刷り上がったばかりの号外の見出しを奪い合うように見つめている。


「陛下は何と?」

ハイドリンが尋ねた。


バーナーは首を振った。

「陛下は……未だ躊躇されています。宮殿では朝から今夕に至るまで、主戦派と和平派が激しい議論を続けている状態です。外務大臣は帝国への即時和平交渉を進言していますが、国防大臣は『国家反逆行為』だと猛烈に反対しています」


「ミュラー・ルクスか」

ハイドリンはその名を知っていた。

王族の一員でありながら、長年宮廷内で勢力を拡大してきた男。

彼が以前からジェリオ帝国と秋波を送ってきたのは公然の秘密であった。


「和平交渉だと?」

ハイドリンは冷たく、感情のない笑い声を漏らした。

「ミュラーの奴め、自分の息子に傀儡の王座をあてがう見返りに、セヴェロスを銀の皿に載せて帝国の皇帝へ差し出すつもりか」


バーナーは答えなかった。

口にしてはならない言葉というものが、この世には存在する。


窓の外では、沈みゆく夕日が海へと没しようとしていた。

アレクサンダー灯台の光はますます輝きを増し、夕闇の中でまるで巨大な一つの眼のように明滅している。


「今夜」

ハイドリンが言った。

「私はある人物に会わねばならない」


「どなたですか?」


「ニヤ王女殿下だ」


バーナーは息を呑んだ。

「王女殿下、ですか!? しかし、明日には……」


「明日、殿下は帝都ハレーへと戻られる」

ハイドリンはその言葉を遮った。

「この政略結婚は、陛下の最後の賭けだ。我々の次期女王プリンセスの手を差し出すことで、帝国との十年の平和を買い取ろうという、絶望的な一手だ」


彼は窓の外を見つめ、声を落とした。


「だが、私には不吉な予感しかしない。この婚姻は平和をもたらしはしない。我々のプリンセスを、地獄の業火へと送り出すだけだ」


彼は振り返り、ハンガーからオーバーコートを取ると、扉を押し開けて出て行った。

ディープグレーのカシミアのコート。

十年も愛用され、袖口は擦り切れて光沢を帯びていた。


バーナーは一人窓辺に残り、遥かな灯台を見つめていた。

その光は消えては灯り、沈黙の警告を送り続けている。

通り沿いのガス灯が一つ、また一つと点り、琥珀色の光のプールが繋がって、まるで光の川のように街を流れていった。


彼はため息をつき、机の上の書類をまとめると、部屋を後にした。


III.

──それから一年後、港湾都市パズ。


その都市はディスコンセロス川の河口に位置し、セヴェロス王国全土で最大の港を擁していた。


上流の鉱山から運ばれる鉱石、内陸の農場からの穀物、南方の港からの熱帯商品、そしてジェリオ帝国の心臓部からの工業製品──すべてがここに陸揚げされ、移送され、分配される。

ドックには、蒸気クレーンの鉄の腕が鋼鉄の森のように密集し、昼夜を問わず軋んだ声を上げて揺れ動いていた。

工場の煙突は絶え間なく黒煙を吐き出し、空を汚れた灰色に染め上げ、空気そのものが煤の味を帯びている。


ここは帝国の命綱であり、同時に──「反逆の坩堝るつぼ」でもあった。


夜が深まる。

港湾地帯のガス灯が次々と点り、川から立ち上る霧の中に病んだような黄色い光輪を拡散させ、濡れた石畳の上にぼやけた反射を描き出していた。


労働者たちは二人、三人と散っていき、疲れ切った足取りで家路についていた。作業着は汗で重く、顔は炭粉で汚れている。

ある者はブレレット王国の降伏について低く呟き、ある者は重い沈黙を守り、またある者は声を潜めて帝国を呪っていた。

老いた労働者が壁に背を預け、安物の悪臭を放つ煙草を吸いながら、虚ろな目で遠くを見つめていた。


港から外れた、人目のつかない路地。

そこに、何の紋章も持たない一台の蒸気自動車が身を潜めるように停車していた。

車体は色褪せたボトルグリーンで、塗装は剥がれ落ち、車輪には分厚い泥がこびりついていた。


車内では、一人の女性が片隅にうずくまり、赤ん坊を愛おしそうに胸に抱きしめていた。


彼女の名はニヤ。

一年前、彼女はセヴェロス王国の正統なる王位継承者クラウン・プリンセスであり、ジェリオ帝国のハレー皇子との婚姻を強いられた──大陸で最も高貴な女性の一人であった。

しかし今の彼女は、引き裂かれた粗末な麻のドレスをまとい、顔は煤で汚れ、髪はひどく乱れていた。

かつての輝きは、微塵も残っていない。


彼女は逃亡してきたのだ。


帝都ハレーにある宮殿から、自らの子供を連れて。そして──「青い結晶」を携えて。


彼女はその結晶が何であるかを知らなかった。

ただ、夫であるレインがそれを彼女の手の中に握らせたとき、その瞳に理解を超えた恐怖が宿っていたことだけを覚えていた。

数日前の、深い夜のことだった。彼は彼女の手のひらに結晶を押し込み、こう言ったのだ。

「これを守れ。我らの子を守るんだ。生き延びてくれ」


その後、彼は連れ去られた。


誰が彼を連れ去ったのか、なぜなのか、彼女には分からなかった。

覚えていたのは、翌朝の夜明け前、黒い制服を着た男たちの部隊が寝室に乱入してきたことだけだった。

彼女は子供をひったくり、宮殿の秘密通路を通ってひたすら南へと逃げ延びた。車を三度乗り換え、無数の追手をかわし、ようやくこのパズへとたどり着いた──彼女の、最後の希望の地へ。


車の扉に、かすかなノックの音が響いた。

短く三回、長く二回──あらかじめ決められた合図だ。


ニヤは身を強張らせ、赤ん坊をさらに強く抱きしめた。


「王女殿下、私です」


オクドの声だった。

彼女は安堵の息を漏らし、扉を開けた。


オクド・ジャドが車内へと滑り込み、背後で素早く扉を閉めた。

彼は労働者の粗末な服をまとい、その顔には疲労と切迫感が刻まれ、額には新しく生々しい擦り傷があった。

彼はレイン皇子の個人衛兵であり、この三年間、彼女が完全に信頼を寄せてきた唯一の男だった。

彼こそが、彼女の宮殿脱出を助け、このパズまで護衛し続けたその人であった。


「状況は?」

ニヤが尋ねた。


オクドは息を切らせながら首を振った。

「追手が迫っています。港を偵察しましたが、街を出るすべての道路が封鎖されました。交差点ごとに検問所が設置されています。夜明け前には、必ずこの区域の捜索が始まるでしょう」


彼はコートからカチカチに硬くなったパンを取り出し、彼女に差し出した。

「殿下、何かお腹に入れてください」


ニヤはパンを受け取ったが、口には運ばなかった。

ただ子供を抱き、その小さな、眠る顔を見つめるだけだった。

赤ん坊は、これから訪れる運命など露知らず、安らかに眠り続けていた。


オクドは彼女を見つめた。その目には、深く、痛切な同情が満ちていた。

彼は彼女が何を考えているかを察していた。


「王女殿下」

オクドが切り出した。

「私がもう一度、猟犬どもの目を引きつけます。その隙に、幼き皇子を連れて逃げてください」


ニヤの手が、ぎゅっと握り締められた。


オクドは待った。

車内に響くのは、赤ん坊の小さな寝息と、遠くのドックから聞こえる船の哀しげな汽笛の音だけだった。


長い沈黙の後、ニヤが口を開いた。その声は囁くように小さかったが、決して揺るぎはなかった。


「オクド、私の言うことを聞きなさい」


「御意のままに」


「この子を……あなたに託します。この子を連れて街へ入りなさい。そして『マナ』という名の女性を捜すのです。彼女は私の侍女であり、幼少期から私と共に育った身内も同然の存在。私は彼女をパズの西地区にある狭い路地に隠しておきました──正確な住所を教えます。彼女に、デイン(Dain)を育てるよう伝えて。そして、この子には『決して自らの素性を知らせるな』と。普通の子として、穏やかに、安全に暮らさせるのです。このすべての災いから遠い場所で」


彼女はドレスの胸元に手を伸ばし、あの結晶を取り出すと、赤ん坊のおくるみの隙間にそっと差し込んだ。

闇の中で、その石はまるで小さな堕ちた星のように、幽玄な青い光を放った。


「それから、これ。これはこの子の父親が残した遺産です。もし将来、この子が危険に晒されるようなことがあれば、この石が……彼を守ってくれるかもしれない」


オクドは子供を受け取った。その目は真っ赤に充血していた。

赤ん坊は彼の腕の中で身じろぎし、小さな、柔らかい声を上げた。


「王女殿下、あなたはどうされるのですか?」


ニヤは答えなかった。

ただ頭を垂れ、我が子の額に最後の口づけを捧げた。その唇は、愛おしいほどに柔らかい肌から離れようとしなかった。一滴の涙が赤ん坊の顔に落ち、彼女はそれを優しく指で拭った。


そして彼女は顔を上げ、オクドを見つめた。

車の窓の隙間から、刃のように薄い月光が差し込み、彼女の青ざめた顔を照らし出していた。


「行きなさい。まだ闇が深いうちに」


オクドは赤ん坊を抱き、扉を押し開けて飛び降りた。


彼は一度だけ振り返った。

車内に座るニヤは、彼に向かって一度だけ頷いた。

月光が彼女の姿を捉えていたが、そこにはただ、破滅と覚悟だけが静かに佇んでいた。


彼は背を向け、闇の中へと走り去った。


車はそこに、身動き一つせず佇んでいた。

車内では、ニヤが車壁に深く頭を預け、足音が遠ざかり、やがて夜の静寂に完全に飲み込まれていくのを聴いていた。


彼女は静かに目を閉じた。


遥か遠くで、教会の鐘が鳴り響いた。

大雪が、激しく舞い降り始めていた。


IV.


同じ時刻、パズの街の反対側。


一人の若い女性が、泥にまみれ、轍の刻まれた小道をよろめきながら歩いていた。

衣服は茨によってズタズタに引き裂かれ、顔には血が滲んでいる。


一歩ごとに足元がふらつき、数歩歩くたびに立ち止まっては激しく呼吸を整えていた。

しかし、その両腕だけは、胸に抱いた二人の子供を死に物狂いで強く締め直していた。


彼女の名はシェイリャ。


三日前まで、彼女はハレー大学の助教であった。

図書室で古代の文献を分類し、学生たちに遠い過去の歴史や、とうに忘れ去られた神話や伝説を講義する日々。

学生たちからは深く慕われ、彼女には数千年前の物語を鮮烈に、まるで生きているかのように蘇らせる才能があると評されていた。


三日前まで、彼女は自らの腕に抱くこの二人の子供が、世界のすべてを変えてしまうなどとは知りもしなかった。


彼女は、ある「秘密」を見つけてしまっていたのだ。


あの夜、彼女は本を返却するために図書室へ向かった。

誰もいなかったが、閉鎖された書庫の扉がわずかに開いていた。

好奇心に駆られて中に入った彼女は、机の上に広げられた一束の書類を目にした。


見てはならないものであった。

しかし、そこに記された言葉は、彼女の足をその場に縫い付けた。


彼女はその書類の意味を理解した。

そして次の瞬間には、逃げなければならないと確信した。


だから、彼女は逃げた。


生まれて間もない双子の娘を連れて、帝都ハレーから脱出した。

子供たちは生後わずか三ヶ月、まだ目もうっすらとしか開いていなかった。

どこへ向かっているのかも分からず、ただ足が動く限り、遠くへ、遠くへと走り続けた。


追手は常に背後に迫っていた。


三日三晩、彼女は一睡もしていない。

母乳はとうに出なくなり、子供たちは飢えから泣き叫んだ。

彼女は街道沿いの小川の水に指を浸し、それを子供たちに吸わせることしかできなかった。

靴は底が抜け、足の裏は血まみれで、腫れ上がった傷と化していたが、立ち止まる恐怖には勝てなかった。


ほんの少し前、林を通り抜けようとした時、ついに追手が追いついてきた。


夜の空気に銃声が炸裂した。

彼女は子供たちを抱きかかえ、無我夢中で走った。

枝が顔を打ち据え、茨が服を引き裂き、血が目に入って視界を遮る。


突然、腕の中の重みがふっと軽くなった──。


子供の一人が、その腕から滑り落ちた。


振り返りたかったが、追手はすぐそこまで迫っている。

弾丸が耳元をかすめ、木の幹に突き刺さっては木片を飛び散らせた。

彼女は残されたもう一人の子供をさらに強く抱きしめ、走り続けるしかなかった。

涙が視界を遮ったが、止まることは許されない。


そして今、ようやく前方に街の明かりが見えてきた。


港湾都市パズ。


彼女はこの街に来たことがなかった。

しかし、子供を隠さなければならないことだけは分かっていた。

「彼」に、決して見つからない場所へ。


彼女は街へとよろめき入り、薄暗く、誰もいない通りを縫うように進んだ。

人影はまったくなく、風に揺れるいくつかのガス灯だけが、汚れに覆われたガラス越しに光を放っている。

路地から野良猫が飛び出し、彼女の身体をびくりと震わせた。

彼女はただ機械的に、方向も分からぬまま歩き続けた。


その時、彼女の目に教会の尖塔が飛び込んできた。


壮大な建物ではない。

灰白色の石で造られた質素な建物で、その鋭く尖った尖塔の頂点には、菱形の星が掲げられている。

月光がその星に反射し、冷たく、硬質に輝いていた。


『聖キャサリン教会』。


最後の力を振り絞り、彼女はその扉にすがりつくようにして倒れ込み、激しく叩いた。

【更新情報】

プロット完結済み。

毎日1〜2章ずつ、定時更新予定(全60章前後にて閉幕)

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