一頁:迫り来る過去
両親を亡くした沙月エリカには、優しくしてくれる人達がいた。
「犯人は、必ず俺が見つけてやる!」
例えば、天井の辺りをふわふわと踊る少女の話を信じてくれた人だ。
ガタイの良い、優しい顔立ちの刑事だった事を覚えている。
「ほんとに?」
「もちろん。約束だぜ。必ず犯人は捕まえっからよ」
彼との約束が、エリカの寂しさを埋めてくれた。
約束を信じる事で生きる希望に繋げられた。
「あいつんち親死んだんだって」
「あいつの父ちゃんが奥さんとむりしんじゅー? ってテレビで言ってた」
「血塗れだったんだろ。血塗れエリカだ。おっかねー」
もちろん全ての人がエリカに対して好意的だったわけではない。
いつも同級生は、同情ではなく残酷な好奇心を剥き出しに接してくる。
「あそこの旦那、結構稼いでたらしいからな。金持ちの子供は、わがままそうで困る」
「悪い事しなきゃ金なんかたまんないよ」
「危ない連中と取引してたとか。で、なんかやらかして報復とか」
「ありえそう。いい加減な人だと思ってたのよ」
父に金の無心に来ていた人達は、皆こぞって恩を忘れて仇を口にした。
それでも――。
「今日はエリカちゃんの好きなハンバーグだよ……ってうちの子供は、みんな好きか!!」
伯母は、とても快活な人だった。
彼女に育てられた従兄弟の達也君と佳奈美ちゃんも、とてもいい子で、
「エリカちゃんは、俺の家族だ! 変な事言ったら承知しないぞ!」
三つ年上の少しガキ大将気質の達也君は、エリカをよく庇ってくれ、
「おねえちゃん。あそぼー」
佳奈美ちゃんは、本当の妹のように懐いてくれた。
ヘビースモーカーだった叔父は、エリカのためにきっぱりとタバコをやめてくれた。
「おじさんな。お医者さんにタバコ吸ったらダメって言われてるんだよ」
「エリカちゃん。この男には、たんまり生活費を入れるためにも長生きしてもらわないとね」
「俺はATMか」
「あら。自己評価が高いのね! 自販機のお釣り口に取り残された小銭じゃなくて?」
いつも伯父と伯母は、冗談を交わし合いながら、エリカを実の娘のように可愛がってくれた。
――――――
「今日は新しいお友達が来ました。沙月エリカさんです。みんな仲良くしてくださいね」
伯母夫婦亡き後、親戚の誰もがエリカを引き取りたがらず、施設に入れられた。
二度目の事件とあっては、彼等の決断を責める事は出来ないだろう。
「俺タクヤ。小六。ここのリーダーだ」
「私はエミカ。五年生よ。よろしくね沙月さん」
「僕はタカシ。三年生」
「四年生のミウです。分からない事があれば何でも聞いてね」
けれど孤独は感じずに過ごせた。
施設の子供達を過ごした時間は、全てを失ったエリカに得難い幸福を与え、折れかけた心を支えてくれた。
――――――
「またあの子のいるところで殺人事件だって」
「あの子が殺してるんじゃないのか?」
「だとしたら十人以上を殺したのか?」
「化け物だ。あれは化け物だよ。人を殺してもなんとも思わない化け物だ!」
「警察は何してるの?」
「証拠が見つからないんだって」
「事故に遇うか、自殺でもしてくれないかしら」
「まったくだよ。殺人だか、無理心中だか知らないが、あの時一緒に死んでくれたら」
エリカに優しさを向けてくれる人は、誰一人として居なくなっていた。
――――――
「ついに厄介者が退院か。金は出すけど、一緒に暮らすのはごめんだな」
「パパとママも大変だよね。せっかく大金入ってきたのに」
「まぁ仕方なないだろ」
「あの子が居なければ、遺産はうちの物だったのに。大きくなったら恩を返してくれる……なんて気の利く子じゃないわね」
「お返しに殺されたりして!」
「やめなさい。縁起でもない」
「あんな奴とっとと死んでくれればいいのにな。そうすりゃ俺が管理してる遺産だって無駄にならず、こっちの懐に入るのに」
そして――。
「お前が殺したのか?」
優しかった刑事さんの目は、
「答えろ!! お前が殺したのかぁ!?」
エリカを殺人者と決めつけるようになっていた。
――――――
薄汚れた天井の木目をぼんやりと見つめながらエリカは、右腕で額の粘っこい汗の粒を拭った。
早朝だというのに、うだるような暑さが不愉快だ。
「久しぶりだな……あの頃の夢を見るの……」
シャーロック・ホームズから生じた悪魔の足のワードの攻撃を受け、幻覚を見せられたせいだろうか?
一番見たくない頃の夢。思い出したくない記憶。
自分がグリムハンズであると知って以降の暮らしは、幸福に満ちている。
けれど自覚するのは、
「あのね、刑事さん。私が殺したんだよ」
自分の罪が消える事はないという現実であった。
「私が……殺したんだ……」
永遠に背負い続けなければならない十字架は、冷たく重い。
――――――
空谷警察署・刑事課のオフィスに、武骨なデスクが一つある。
灰皿に雑多な銘柄の吸殻が塔のように積み上げられており、一面を埋め尽くす書類の山のどこに何があるかは、主にしか解読出来ない難解な暗号だ。
デスクに着いている男の名は、冴木竜次郎。年齢は五十五歳。本庁の捜査一課に在籍していた経験もあるベテラン刑事だ。
岩盤のように険しい面立ちに、ほんのりとした穏やかさを同居させている。
焦げ茶のスーツは、恰幅の良い巨体を詰め込むには、いささか力不足だ。
一番長い吸殻を灰皿から取り、口に加えて火を点ける。
紫煙を心地よさそうに吐き出すと、乱雑な書類の群れから素早く一冊を抜き取った。
資料の表紙には『連続不審死に関する調査書』と書かれており、油じみがこびり付き、それを差し引いて考えても相応に古いのか、紙質が劣化している。
「冴木さん。またですか」
一人の若い男性刑事が辟易とした声で言った。
冴木は、若輩者の無礼に腹を立てる素振りはなく、資料に没頭している。
「解決してねぇ事件に、終わりはねぇ」
三十年前、刑事になったばかりの頃、先輩の刑事から掛けられた言葉。
冴木という男の矜持であり、刑事としての信念だ。
けれど東大卒のキャリア組に泥臭い考えは、響いていないらしい。
「証拠ないし、容疑者も幼い子供でしょ? ありえますか?」
「例えガキでも、こいつしかいないんだよ」
冴木は、上着の胸ポケットから取り出したメモ帳に挟んでいた写真をデスクに置いた。
幼い少女の顔写真だが、その表情に子供らしい笑みはない。
「沙月エリカ。今は十六歳。こいつの周りでは、殺人事件が三件も起きている。被害者の数は死者十四人。単独犯なら日本の犯罪史に名を残すだろうなぁ」
「でも事件が起きていたのは、彼女が中学に進学するまででしょ? 何より証拠を残さずに子供が犯行を成功させられるはずが――」
「最近、現場の押収物から気になる物を見つけちまってな」
「気になる物?」
「不覚にも、この間まで関連性に気付かなかったんだがよぉ」
冴木は、上着の右ポケットからジッパー付きの証拠品袋を取り出した。
中には、小指の爪の半分程しかないガラス片が三つ収められている。
「どの現場にも共通していたのは、小さなガラス片が落ちている事だ」
「別に……そんなに珍しくもないでしょ。現場は相当荒れてたそうですし」
「妙なのは、ガラスの成分を分析した所、ガラス状の物質であってガラスじゃねぇんだわな」
「え?」
「訳が分からねぇだろ。しかし、そんな珍しい物が必ず現場に残されていたんだぜ?」
「つまりは、犯人の署名的行動だと?」
犯罪者には、署名的行動と呼ばれる特定の行動に執着する者が居る。
被害者の持ち物を盗んだり、現場にメッセージとして遺留品をわざと残したり。
冴木は、このガラス片が沙月エリカの署名的行動ではないかと踏んでいる。
「確かにこれ自体、沙月エリカには繋がらねぇ。だがな、もう一つあんだよ。このガキ、また死神ごっこをやり始めたみてぇでなぁ」
「どういう事ですか!?」
若い刑事の驚愕に合わせて、冴木は一枚の資料を手渡した。
「この間のレストランでの乱闘事件覚えてっか?」
「ああ。店内にLSDが撒かれた事件でしょ。覚えてます」
「専門家によりゃ、あれもLSDに近い未知の物質との事だ。似てねぇか? ガラス状の未知の物質とよ」
「さぁ……」
若い刑事は訝しんでいるが、冴木は構わずに続けた。
「あの後、現場のビルに行ったら、おもしれぇもんがあったんだわ」
「面白い物?」
「現場の裏手の路地によ。ガラスの欠片がな。そして空谷町の監視カメラに最近よく映るんだわ。あるガキがよぉ」
言いながら冴木は、沙月エリカの顔写真を指で叩いた。
「まさか?」
「調べてみんには、十分な証拠だろうが?」
冴木は、破顔すると、若い刑事から資料を奪って上着の左ポケットに突っ込んだ。
――――――
まだ朝だというのに、登校中の学生達を日差しが容赦なく照りつけ、下からはアスファルトの熱気が蒸してくる。
草木の日差しに蒸された青い香りも、熱風を届けてくれる微風も、もう少し気温が低ければ多少の風情を感じさせただろう。
本格的に夏めいてきて昼夜を問わない茹だる暑さに苛立つのは、エリカも例外ではなかった。
久しぶりに昔の夢を見たから余計に気分が重ったるい。
こういう時は、正太郎にアイスおごらせよう。
気分的にバニラアイスがだろうか。
もしくは、チョコミント?
本音を言えば、どれでもいい。
冷たいものを食べたら、さかむけた心に僅かな安らぎを与えられる気がする。
「よぁ」
甘い思案に、野太い声が割り込んでくる。
「刑事……さん?」
冴木竜次郎。思いもよらぬ人物の登場にエリカの思考回路が凍り付く。
何故ここに彼が居るのか?
何故今更?
童話研究会に入ってから、自分の罪について考えない時間が増えてきた。
おこがましいとは思いながら、安寧な時間を享受してもいいと仲間が許してくれるから。
冴木の存在は、否応なくあの日の全てを思い出させる。
彼は、両親を失ったエリカに誓ったのだ。
真犯人を必ず捕まえると。
例え何年掛かったとしても、
「おめぇさん、この近くに住んでんのかい?」
「ええ。まぁ」
殺人事件の真犯人を――。
「へぇーそうかい」
「何が言いたいんですか?」
「別に。どうしてるかと思ってよぉ」
「元気にやってますよ」
「おめぇさんは、な」
優しい声音だが、言葉は鋭い。
両親の事件の時出会った冴木は、エリカに対して深い同情の念を向けていた。
伯母夫婦が犠牲になった二度目の頃疑惑が混じり、三度目の事件で冴木のエリカを見る目が確信へと変わった。
そして冴木の推理は、真実に届いている。
「仰りたい事があるなら、はっきり仰ったらどうですか?」
「一人暮らしかい?」
何気ない問いなのに、焼けた釘が心臓に刺しこまれるようだ。
「質問に、質問で返さないでくれますか? 機械と喋ってるみたい」
「空谷町で何してた?」
――何故そんな事を聞く?
マリーの事務所に出入りするようになって、週の半分は空谷町に足を運んで彼女と遊び、時にグリムハンズの仕事を手伝っている。
もちろんマリーとの仕事について詳細を言及する事は出来ない。
しかし、ある可能性がエリカを過ぎった。
冴木がグリムハンズとワードについての事情を知っていたら?
正太郎には、旧知の仲の警察関係者がいる。
冴木もグリムハンズの協力者か、存在を知る者かもしれない。
少なくともそうではないと、否定出来る根拠もなかった。
もし事情を知っているのなら、知っていてエリカの罪を裁きに来たのなら――。
「空谷のレストランであった事件、知ってっか?」
「ええ。死者も出た乱闘事件ですよね? ニュースでやってましたけど、それが何か?」
「事件によぉ、興味でもあったかい?」
「なんで?」
「おめぇさんが空谷町へ頻繁に出入りしてる様子が監視カメラに映ってやがったんだよ」
冴木は、スマホを上着の胸ポケットから取り出すと、画面をエリカに見せてきた。
空谷町の神室通りを俯瞰して映した画像で、エリカを含む童話研究会の面々が神室通りを歩く姿が写されている。
「こいつが乱闘事件のあったビルの裏路地の写真。監視カメラがなかったんで、俺が自分で撮ったんだがな。ガラスが落ちてるよな。道路によぉ」
画面をフリックして出て来たのは、ビルの裏路地の写真であり、道路の上に小さなガラスの破片が数個残されている。
これは、悪魔の足のワードにエリカが灰かぶり姫を使った際に残ってしまった物だ。
「おめぇさんが居る所にゃ、不思議とガラスが付いて回りやがる。こいつで四度目だぜ」
グリムハンズであると知らず、単なる殺人犯だと思って追及しているのか。
グリムハンズであると知りながら、追及しているのか。
「ガラスって、別によく落ちてるもんじゃないですかね。偶然じゃ……」
「《《同じ成分》》のガラスが四度も見つかんのは、偶然と言わねぇんだよ」
どう答える?
どう切り抜ける?
――あれ?
エリカは、気付いた。
自分が罪から逃れようとしている事に。
今まで罪は、償うべきだと思っていた。裁かれるべきだと。
望みどおりの幸福を手に入れて、手放すのが惜しくなったのか?
このまま幸せに暮らしていく事が許されるのだろうか?
罪を認め、罰を受けるべきではないのか?
「ここで何をしてやがった?」
願いが叶う機会が目の前にある。
たった一言、こう言ってしまえばいい。
『私がやりました』
自分の正体が分からず、化け物ではないかと怯えていたあの頃ではない。
罰が向こうからわざわざ来てくれたのだから、甘んじで受け入れれば――。
『エリカちゃん』
涼葉なら何と言うだろうか。
『沙月さん』
薫ならどうするだろうか。
『エリカ』
正太郎なら――。
「答えられねぇのかい?」
――私は。
エリカが答えにつまると、背後から飄々《ひょうひょう》としているが頼りがいのある声が響いた。
「俺と一緒に、同好会の活動をしてたんですよ」
振り返ると、正太郎が微笑みながらエリカの右肩に手を置いた。
「如月先生?」
正太郎は、軽くエリカの肩を叩きながら、冴木へと顔を向けた。




