覚醒
「で、でも……や、やっぱり無理だよ。そ、それに変だよ……」
と、犬井が不満そうな目つきで俺を見た。
「変? 何が?」
「だ、だって……わ、私今日も長澤さんと藤野さんに……」
そういって自分が着ている体操着を見る犬井。
俺は少し間を置いてから大きくわざとらしく溜息をついた。
「なるほど。お前は俺の対応に不満があるってわけか」
「そ、そういうわけじゃ……ないんだけど……」
「だがな、犬井。俺は言ったはずだ。努力はする、と。アイツ等のイジメをなくすなんて、俺は一言も言ってないぞ?」
「え……そ、そんな……」
「今始めて聞いたみたいな風に振舞うのはやめろ。俺はちゃんと言ったんだから」
俺が強い口調でそういうと、犬井は拗ねた子供のように悲しそうに俯いた。
そして、小さく肩を震わせながら、両目から涙を零し始めた。
「なんだ。なぜ泣く」
俺が聞いても犬井はただ嗚咽を漏らすだけだった。
大方、自分は救われると思ったのだろう。
俺が全てを解決してくれる王子様か何かだと犬井は思っていたのかもしれない。
しかし、俺は自分がつまらない人間だということを知っている。
今の今まで目立たないことを信条に生きてきた人間なのだ。そんなことができるのは、影響力のある人間だけである。
「泣いていても俺はお前に対する要求を撤回しないぞ」
「……鬼」
「あ? なんだって?」
すると、両腕で目元をゴシゴシと擦った後、犬井は俺をまるで親の仇を見るかのような目で睨んできた。
「鬼! 変態! 逢沢君のことなんて大っ嫌い!」
そういってそのまま犬井は俺の前から走り去って言ってしまった。
俺はその場に立ち尽くしていた。
犬井は怒っていた。あの普段オドオドして、逃げることしかしらない犬井が感情を爆発させて俺に怒っていたのだ。
もちろん、その怒りがやり場のない悔しさから来る俺に対する八つ当たりだということも承知である。
しかし、なんというか……俺は、感動していた。
今まで人との関わりをなるべく避け、目立たないことを信条にしていた俺は、他人から「怒られる」ということも体験してこなかったのだ。
それを今体験した。そして、その相手である犬井からの怒りは、ある意味、快感であったのだ。
そして、俺は気付いてしまったのだ。
俺は今まで目立たないように生きてきたのは、人生を上手くいかせるためだった。
誰かも負の感情を抱かれず、そもそも誰にも意識されないように生きてきたのだ。それこそがどんなにつまらなくても、人生をうまく生きる方法だと思っていたからだ。
しかし、そうではなかったのだ。
人間の負の感情とは、ある種類の人間にとって快感になるのである。
他人の悲しみや苦しみ、そして、怒りの感情さえも。
どうやら俺は、その種類の人間らしい。犬井の言ったとおり、変態だ。
そして、その変態である俺は、特に犬井理香子がそういった感情を俺自身に対して露にさせる時に、この上なく感動し、興奮するらしい。
だから俺は感動していたのだ。犬井が俺に怒ってくれたと言うこと。
そして、俺自身という人間がどういうものであるかが判明したことに。
それは即ち、俺、逢沢直人の真の意味での誕生だったのだ。
「……ああ。ありがとう、犬井」
俺は一人きりで感謝した。そんな気付きを教えてくれた犬井に。
そうなれば、次に自分がすることは自然とわかってきた。
もっと犬井の感情を爆発させる。そのために動けばいいのだ。
まるで清々しい朝に、素晴らしい寝覚めで起きたような気分で、俺は家に帰ることにしたのだった。




