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婚約破棄された調香師ですが、女嫌いの狂犬騎士が私の香りだけ追いかけてきます  作者: 佐藤純
第一章

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ダンスホール

毎週木曜日に20:40に投稿予定です。

Twitter(X)リンク:https://twitter.com/jun_satoh_novel

「あなたは行かなくて大丈夫なの?」


マリーナが去ったあと、ヘッドフォード公爵夫人は扇の陰からくすくすと笑い、バーベナの耳元に囁いた。

その声には、からかいと好奇心が半分ずつ混じっている。


周囲に憚りながらそう問うた理由は明白だった。

蒼いマントの騎士――リンデン・ド・ルードヴィンク。今宵、仮面舞踏会の話題の中心にいるその存在が、誰の目にも明らかに、ただ一人の令嬢を待っているからだ。


バーベナは、その視線を感じながらも、ほんのりと頬を染めるだけで済ませた。


「ええ、わたくしも参りますわ。」


そう答えて立ち上がると、さりげなくリリーに目配せをする。香水瓶を回収させるためだ。


開幕のダンスは王族が務める。


そのことを重々承知している令嬢たちは、バーベナが中央へと向かうのを横目で見送りながらも、決して声には出さない。

だが、その沈黙こそが、彼女たちの関心の深さを雄弁に物語っていた。


――なぜ、あの仮面の令嬢が?

バーベナを知らぬ人々の視線が、刺すように背中へと集まる。中央ホールに足を踏み入れた瞬間、バーベナの視界に蒼が映った。


ルードヴィンク家を象徴する蒼のマント。

バーベナと揃いにあつらえた、星屑を散らしたかのような夜色の礼装。黒髪に溶け込むような漆黒の仮面。

長身のリンデンが、ただそこに立っているだけで、空間の重心が彼に引き寄せられる。


「お待たせいたしました、蒼の騎士様」


そう声をかけると、彼はゆっくりと振り向いた。


その仮面は、バーベナ自身が意匠を考え、職人に依頼したものだ。

精悍さを際立たせる曲線と、光を吸う素材。

想像していた以上に――似合っている。


バーベナは、珍しくどくどくと心臓が脈打つのを自覚した。

そのリンデンがゆっくりと口を開く。


「バーベナ嬢。……今日は何をした?」


低く抑えた声。

だが、仮面の奥から伝わってくるのは、明らかな苛立ちだった。


「……ご質問の意味がわかりませんわ?」


バーベナは小首を傾げる。

心当たりが、まったくない。


ダンスのパートナーを務める件も、先日の礼として依頼し、彼自身からも了承をえている。

今になって怒りを買うような失態を犯した覚えはない。


その無垢な反応に、リンデンは一瞬言葉を詰まらせ、次いで早口になる。


「多くの令息に囲まれていたようだが?」


――ああ。


バーベナは思い当たる。

会場へ足を踏み入れた途端に囲まれた。

誤算でもあり、大きな成果でもあった。


「ええ、思わぬ収穫でございます。今日わたくしがつけている香水は、どうやら異性を虜にする効果があるようです。仮面で素性が分からぬ状態でも、いえ…だからこそかもしれませんが、あれほどとは……」


職人としての冷静な報告。

だが、その言葉を聞いた瞬間、リンデンの指先が、わずかに強く手袋を握りしめた。


――あまり面白くはない。


理屈では理解していても、胸の奥がざらつく。

知らぬ令息たちが、彼女を囲み、声をかけ、香りに酔い――

その光景が、どうしても許容できない。


「……」


無言のまま、視線を逸らす。


「……首尾が上々のようで何よりだ」


「ありがとうございます。リンデン様のご協力のおかげですわ」


晴れやかに微笑むバーベナ。

その無邪気さが、さらに胸をざわつかせる。


「確かに……今日の君は、囲まれるほど美しい。それに……」


言葉を選びながら、彼は続けた。


「今日の香水は、とても洗練されている」


リンデンは、目を閉じる。

鼻腔をくすぐる香りを、意識的に追う。


「……最初に感じるのは、夜明け前の冷たい空気のような透明感。ほのかな柑橘の皮を砕いた瞬間の、瑞々しく鋭い立ち上がり。次いで、肌の近くで静かに咲く白い花の甘さ。決して主張しすぎず、それでいて確実に心を捉える。そして最後に、温度を帯びた深み。樹脂と獣香の境界線をなぞるような、微かな余韻。動くたびに、呼吸するたびに、香りが層を変えて現れる。計算され尽くし……」


止まりかけた言葉を遮ったのは、アッシュの低い声だった。


「なぜリンデンがこの場に?それに、その令嬢は……」


アッシュが、マリーナを伴って現れる。

ずっと引きこもっていた従兄弟の突然の公の場への登場―たとえそれが仮面舞踏会だとしても―に、動揺を隠せない。


そして、その腕にいるのが――。


「……」


名を呼びかけかけたアッシュに、バーベナは一歩前に出る。


「大鷲の雛様。私は夜の帷でございますわ」


仮面越しの声は、柔らかく、しかし明確に距離を取る。

最後まで、正体は明かさない。

それを察し、リンデンが肩をすくめる。


「……だそうだ。それに俺がここにいるのは、成り行きだ。」


そう言うと、彼はバーベナに手を差し出す。


「行こう」


煌びやかなダンスホール。

薄暗かった天井からは無数のシャンデリアが下がり、光が宝石のように降り注ぐ。大理石の床は磨き抜かれ、音楽と共に淡く輝く。


二組が、並び立ち、音楽が流れ出す。


リンデンの動きは、無駄がない。

力強く、しかし驚くほど滑らかだ。


バーベナが一歩踏み出すたび、スカートが波打ち、香りがふわりと広がる。

旋回するたびに、香りが空気に溶け、次の瞬間には人々の意識を絡め取る。


男たちが、思わず振り返る。

女たちが、息を呑む。


香りは、視線を導き、感情を揺さぶる。


リンデンは、気が気ではない。

自分の腕の中で咲く花が、あまりにも眩しすぎるからだ。


音楽が終わる。


割れんばかりの拍手。


賞賛は、明らかにこちらへ向けられていた。


アッシュとマリーナも失敗はない。

だが、それ以上に、リンデンとバーベナの完璧な調和と演出が、人々の心を奪った。


アッシュは歯を食いしばり、マリーナはそれを心配そうに見つめる。


そして――そのダンスホールを下に、玉璽に座すレオポルト王が、ゆっくりと立ち上がる。


「次代を担う雛鷲たちのダンスが終わった。ここに秋の祭典、オンブレ・ロアの開幕を宣言する」


その声と共に、夜は本格的に動き出した。

そして誰もが、今宵の主役が誰であるかを、悟っていた。

諸事情によりしばらく休載いたします。

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