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婚約破棄された鉄面皮の調香師は、猟犬騎士に溺愛される  作者: 佐藤純
第一章

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19/19

マリア・ノヴェッラ商店

毎週木曜日に20:40に投稿予定です。

Twitter(X)リンク:https://twitter.com/jun_satoh_novel

「いらっしゃいませー」


色とりどりのステンドグラスの装飾が施されている重たい木製の扉を押し開けると、奥の工房から若い女性の明るい声が響いた。ほこりの舞う店内の奥から、エプロン姿の女性がひょっこりと顔を出す。頬には黒い煤がついていて、手はインクか何かで汚れている。


「お客さん? 何か探し物かしら?」


長い黒髪を後ろでざっくりまとめた女性は、朗らかに声をかけてくる。その軽快さに、貴族御用達の洗練された店ではないとすぐにわかる。けれど不快ではなかった。むしろ、どこか懐かしさすら感じさせる温かさがあった。


「いいえ、外を歩いていたら、ふっと独特な匂いがして……気になって入ってしまったの」


バーベナは、周囲を見回しながら答える。壁には無造作に何かの瓶が並べられ、所狭しと書類やら布やらが積まれている。


「ああ、それはたぶんうちのインクの匂いね。樹脂を溶剤で溶かすと、ちょっと鼻にツンとくるのよ。ごめんなさいね、貴族のお嬢様がいらっしゃるなんて珍しいから……」


女性は申し訳なさそうに笑いながら、エプロンをパンパンとはたき、服の汚れを気にするそぶりを見せた。


「気にしていないわ。それより少し聞いてもいいかしら。植物から取れるもので、甘くて柔らかい香りのするもの……そんなものは置いていない?」


ふと、バーベナはかつての記憶を思い出していた。前世の母が好んで使っていたアロマキャンドル、オイル、部屋中に漂っていた穏やかで甘い香り。あの中に、確かごろっとした琥珀色の樹脂があったはず。樹脂はインクの材料だ。もしあれば…。


「甘い香りの……?ああ、ちょっと待って。あるかもしれないわ。」


女性は何かを思い出したように、ひょいと奥へ引っ込んだかと思うと、すぐに戻ってきた。手のひらには、甘納豆のような小さな塊がいくつか乗っている。


「これ、私たちは“ベンゾインの涙”って呼んでるの。暑い国の木から採れる樹脂でね、たまに懇意の商人が持ってきてくれるの。香り、嗅いでみて?」


ナイフでひとかけ削って差し出されたそれを手に取ると、ふんわりとした甘い香りが鼻腔を満たした。深く、まろやかで、どこか懐かしさすら感じる——。


「……これね。これを探していたの。もし在庫があれば、あるだけ分けていただける?」


「あるだけ全部? 変わったお嬢様だね。ちょっと待ってて、倉庫見てくる!」


女性は楽しげに笑いながら、再び奥へと消えていった。


そのときだった。

扉につけられた鈴が軽やかに鳴る音が店内に響いた。


振り返ると、狭い扉をぎりぎりでくぐるようにして、一人の長身の男が現れる。彼の正装ではないが、騎士団の制服を纏ったその姿――。


「リンデン様……?」


そこに立っていたのは、正装の蒼いマントこそないが、騎士団の制服に身を包んだリンデンだった。彼の名を呼んだ瞬間、昨日のダンスを思い出し、バーベナの胸が不意にざわついた。


「バーベナ侯爵令嬢。なぜ君がこんな場所に……?」


リンデンは、入った瞬間に彼女を見つけ、目を見開いた。彼にしては珍しく、動揺が顔に浮かんでいる。


「わたくしは香りの素材を探しに来ましたの。リンデン様こそ、なぜこちらに?」


言葉は丁寧だったが、彼女の瞳にはわずかに驚きがにじんでいた。まさか、こんな偶然があるとは思わなかったのだ。


「いや、私は……」


「あら! 久しぶりね!」


奥から樹脂の袋を抱えて出てきた女性が、親しげにリンデンへ声をかける。その声音は、空気を明るく照らすような弾けるものだった。


「あら、二人は知り合いなの?」


女主人は、バーベナとリンデンの間に流れる微妙な空気を察したのか、首を傾げながら二人の顔を見比べる。


――――


簡単な紹介が終わると、彼女は元気よく笑って名乗った。


「私はマリア。このノヴェッラ商店の店主をしてるの。数年前に祖父から店を引き継いだのよ。リンデンは祖父の代からのお得意様よ。ま、私にはちょっと愛想が悪いんだけど!」


彼女はにかっと笑って、インクで汚れた手をバーベナに差し出す。リリーが反射的に止めようとする気配を感じながら、バーベナはその手を、躊躇わず握った。


「よろしくね、マリア」


バーベナの冷たい無表情ときゅっと握られた手の温かさのちぐはぐさに、マリアの目が丸くなる。

マリアは驚きながらも、バーベナの手を握り返した。


「ありがとう、バーベナ、様?」


「様はいらないわ。バーベナと呼んで。」


「ありがとう、堅苦しいのは少し苦手なの。だから、この店にいる時は、できれば笑ってくれると嬉しいわ。こんなに顔を強張らせなくていいのよ?」


マリアは、バーベナの顔を覗き込み、インクがついた手でバーベナの頬をぐにぐにと揺らす。


それをみたリリーは、「ひぃぃい!」と悲鳴をあげるが、バーベナとマリアは意に返さない。


「ありがとう、でもこれは…わたくし笑えなくなってしまったのよ。これでもとても楽しんでいるわ。不快に感じさせてしまったらごめんなさい。」


「笑えない?」


マリアとリンデンはその言葉を聞いて訝しむ。


「その…リンデン様は社交界にご関心が薄く存じますが、わたくし、鉄面皮と噂されておりますのよ?」


バーベナは、視線をそらして、少し罰が悪いような気持ちで自分の二つ名を教える。

マリアは、そんなバーベナの瞳を覗き込み、じーっと見つめる。


「そうなの?全然不快ではないし、バーベナの瞳はすごく温かいわ。」


マリアのまっすぐな言葉にバーベナは自分の心が温かくなるのを感じた。自分の表情が乏しいことは自覚している。それでも誠意を持って接すること——それだけは、前世から変わらない信条だった。

それが伝わった瞬間だった。


リンデンは、マリアとバーベナのやりとりを見て思うところがあった。


(バーベナ嬢が鉄面皮と呼ばれている…仮にも王太子妃候補だった令嬢が?そういえば、アッシュとの婚約破棄の理由についても、よく知らないな。ちょっと調べてみるか。)


―――


「ベンゾインの涙はね、薬として使われることもあるけど、こっちじゃあんまり需要がないのよ。治癒師がいるからかな」


マリアがベンゾインを説明する横で、リンデンが一歩近づき、そっと香りを確かめた。


「なるほど。砂糖を焦がしたような、深く甘い香りだ。鼻から抜けて、舌に届くような濃厚さがある。ただ甘いだけじゃない。奥に芯があって、最後にまろやかに消える……上品だな」


その一言に、マリアもリリーもバーベナも、しばし黙ってしまった。いや、バーベナにはまだ少し耐性が合ったかもしれない。見目麗しい青年が、まるで詩を詠むように香りを語る姿は、場違いなほどシーンとした。


「リンデン、そんなに饒舌だったっけ……?」


マリアが呆れたように呟くと、リンデンは小さく眉を上げた。


「いつも通りだが?」


平然と返すその態度に、バーベナの胸が少しざわつく。

昨日、舞踏会で自分に見せた穏やかな笑顔を思い出したからだ。


「そ、そう…?私の気のせいなの?そういえばリンデンはいつもの滑り止めは棚の左側に置いてあるわよ」


「ああ、ありがとう」


マリアが明るく笑って渡す姿に、バーベナは素直に羨ましいと感じるとともに、心臓に棘が刺さったようにキュッとなる。


(うらやましい…?笑顔が素敵な人にはずっと羨ましいと思っているけれど、なんだか、いつもとちがうわ)


自分のモヤモヤとした感情の正体がわからずに、バーベナは疑問を持つ。


「はい、バーベナはこちらね!」


どさっと皮袋を渡されたバーベナは、思わず目を見開いた。ずっしりと重いその中には、たっぷりのベンゾインの涙が詰まっている。


「ありがとう、助かったわ。」


バーベナは袋の中のベンゾインの涙をみて、ムクムクと首をもたげたよくわからない感情は、一瞬にして消え去った。ベンゾインがキラキラと光って見え、バーベナの頭の中にはどんどん香りの構造が組み上がっていく。


「また来てね! 次はもっといい香り、探しておくから!」


マリアの屈託ない笑顔に、バーベナは自分にできる最大限の感謝として、少し目を伏せ、頭を下げた。


店を出る瞬間、彼女は横に立つリンデンの横顔をちらりと見る。リンデンも愛用の剣の滑り止めを購入していた。


「まいどあり〜〜!」


マリアの元気な声が日陰になっていて薄暗い路地に異質な響きを与えた。


――


「……リンデン様、あの…これからご用事は…?」


マリアの店から表通りに一緒にやってきたバーベナとリリー、そしてリンデンだったが、道中の沈黙に耐えられずに、バーベナは不意に口をついてでた。


「特にないが……。」


「でしたら、これからカフェでお茶でも。その、昨日おっしゃっていた香りについてお話しいたしますか?」


(ああああ…!不意にでた言葉を今更引っ込めることができず、何か話題を、と無理やり引っ張りだしてきたのが、お茶へのお誘い!変に思われないかしら?!)


バーベナは内心ドキドキしながらも、一気に言葉を吐き出してしまう。


(どんなに動揺しようとも表現には出ないことは、今回ばかりはありがたいわ)


バーベナは祈るようにリンデンを見る。


「あぁ、私も君と話がしたかった。そのカフェとやらは近いのか?」

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