長い夜
「ちょちょっと、止めてよ。少しふざけただけじゃない。本気にしないでよ」
咲の変貌に流石の彼女も焦りだす。もう辺りは薄暗く、不穏な闇が立ち込める。ヒグラシの声も不気味に響く。
「咲、僕を見ろ。それを渡すんだ」
痛む頭を押さえつつ、僕はゆっくりと立ち上がった。栗山は腰が抜けて、地面にへたり込んでいる。何とか説得するしかない。
「心配する事なんて、何も無いんだ。落ち着いて」
その時、彼女が何かを呟いた。
「……んだ」
「えっ、何だって?」
「全部そいつが悪いんだ!」
もう彼女は完全に怒りで我を見失っている。流れる涙を拭いもせずに、白刃を手に、栗山みなみ目掛けて突進した!
「そっ、そんな。どうして」
滴り落ちる鮮血。咲の前に立ちふさがり、その凶刃を素手で握り止めたのは、誠であった。
「逃げろ」
放心している栗山みなみに、僕は続けて言った。
「立て! 走るんだ! さっさと行け!」
声を荒げて促すと、やっと彼女は立ち上がり、振り返らずに去って行った。短い金属音がして、ナイフが地面に落ちる。僕は、咲が彼女の後を追わない様に、体を抱きしめたのだが、その心配はいらない様だ。やがて、全身の力が抜けた咲は、その場に座り込んでしまったからだ。
ナイフを握った左手は痛むが、今はそれどころじゃなかった。無事な右手で、なおもしっかりと体を抱くと、力強く言う。
「いいか! 勘違いするなよ! 僕はアイツを助けたんじゃない! お前を助けたんだ! この大事な時に、警察沙汰にする訳にはいかないからな! 分かるな!」
「う、うぁっ。まっマコちゃん、傷。んっ、ごっ、ごめんあざい。ごめ、んあっ……」
泣きながら、許しを請う彼女に。誠は口付けをした。
「大丈夫、もう、大丈夫だ! 泣くんじゃねぇ。泣くな!」
それでも彼女は泣き止まないが、代わりに何度も頷いた。どうやら、パニックのピークは過ぎた様だ。やれやれと落ち着いた途端、激痛が走る。
同時に襲ってくる痛みに、今度はこっちが泣きたくなって来た。栗山みなみに、そんな事では今に痛い目に合うよとか何とか言っときながら、結局は自分が一番痛い思いをする羽目になったのだ。
もう、笑うに笑えず、泣くに泣けない。
「っ、水、取って来て」
その一言に、咲は急ぎ落としたペットボトルを探して、持って来た。僕は、器用に右手だけで頭痛薬を取り出し。口に含み、一気に水で飲み込むと、次にその残りで、硬く握った左手の傷口を洗い。咲から貰ったハンカチで、止血した。これで暫くは、大丈夫な筈だ。
「さぁ、帰ろ。今日はとにかく疲れた。肩貸してくれ」
よろよろと僕は立ち上がり、咲が支えた。満月の明かりが照らす中、二人はゆっくりと帰路に着いた。
帰り道ずっと咲は泣いていた。僕は、ずっと不機嫌だった。電車の中でも、歩いていても、会話はなかった。ひどく、長い時間がかかったようにも思えたが、実際はそうでもない。家に着いたのは、夜の八時を少し過ぎたところだった。
「あの」
誠の家の前まで来て少し前に泣き止んでいた咲は、ようやく口を開いた。
「上がれよ。今日は泊まってけ」
言うが早いか僕は玄関のドアを開けて、ズカズカと中に入って行った。
「やっと帰って来た、この不良息子は! あら、咲ちゃんも一緒だったの?」
「母ちゃん、咲は今日家に泊まるから。後、風呂湧いてる? ちょっと、入れてあげて。それと、コイツの着替え、なんか適当に見繕ってあげて」
「何? 何なの? 一体どういう事! あっあんたその手、どうしたの!」
「いいから先にこの子を、たのんます」
母の弘恵は当然の疑問を口にしたが、泣きはらした咲を見て、とりあえず言う通りにしてくれた。
「咲ちゃん、お風呂沸いてるから、ご飯の前に行ってきなさい。お母さんには、私から電話しておくからね」
「ありがとうございます、おばさん」
咲は礼を言って脱衣所に入る。真っ白だったワンピースも、すっかり汚れてしまった。洋服を全て脱いだ彼女は、一宮家の好意に甘える事とした。
一方の誠はリビングで、父の順次から左手の手当てを受けていた。救急箱か、包帯やら、消毒液やらを取り出して、治療が始まる。
「お前さん、どうしたんだこの傷。けっこう深いぞ。大分、血は止まった様だが」
「いえね、男子一度外に出れば、七人の敵がいると言うじゃないですか……まぁその内の一人に、会っちゃったんですな」
「何を格好つけた事、言ってやがんでぃ。大方、浮気現場を咲ちゃんに見られて。刺されたとかじゃないのか?」
うっ! 鋭い! 流石父ちゃん! 内心では似たようなモンだと頷きながらも。一応は否定する。
「な、な何をおっしゃる、ウサギさん……ぎゃああああああああっ!」
「うるさいぞ亀さん。我慢しろ。関羽さんを見習え」
中国三国時代。敵の毒矢を右腕に受けた関羽将軍は、稀代の名医、華佗の施術を受ける。この手術を彼は、麻酔無しで耐え抜いた。しかも酒を飲みながら、馬良と碁まで打っていたのだ。
「いや、無理だよ! 僕は、万夫不倒の大将軍じゃ無いし! 痛いたたたたたたっ!」
情けない声を上げながらも、何とか治療を終える。
「うん、これでいい。後は安静にしときなさい。」
すると咲の着替えやら、布団やらを整えた母が、戻って来た。
「全くもう。それで結局何があったの? ちゃんと説明しなさい」
「う~ん弥勒菩薩が下生し、転輪聖王が降誕したら、訳を話す」
「何訳分かんない言ってんの! この子は! お父さん、何とか言ってよ!」
「はっはっは、なるほど、そう来たか。ならば聞こう、その聖人は何処に居るのか」
誠はやおら席を立ち、礼拝すると、スタスタと部屋に行ってしまった。
「やい! これで済んだとは、言わすまいぞ!」
「?」
母の弘恵は、自体が飲み込めずにいたが。一方、夫の順次は楽しそうだ。
「今の、何だったの?」
「いやなに、ちょっとした問答の真似事さ。まぁ、あんな屁理屈が言えるんなら心配無いよ。やっこさんには、やっこさんの考えがあるんだろうさ。任せておこうよ」
「お父さんがそう言うなら、仕方ないけど。いつも最後は、誠に甘いんだから」
「んっ? そうかなぁ。お母さんお茶下さい」
「はいはい」
その後何事も無かったかの様に、咲と誠の二人は、用意された夕食を取り。彼の部屋へと引き上げて行った。
「ベッド使えよ、俺は下で寝るから」
母に頼んで、フローリングの床に敷布団を敷いてもらったのだ。もうかって知ったる仲なので、両親も邪推する事が無い。
「マコちゃんと、一緒に寝ても……いいですか?」
「もう泣かないなら、いいよ」
結局、誠のベットに二人で寝る事になった。枕を並べて、布団に入る。
「おじゃまします」
「んっ、電気消して」
カチカチッと、電灯の紐を引っ張れば。室内は真っ暗になった。
「ねぇマコちゃん、何で咲を泊まらせたの?」
特に何の考えも無しに一緒に寝る事にしたのだが。いざそうしてみると、やたら近いので、ドキドキしてくる。
おまけに、彼女はじっとこちらを見たまま、身じろぎもしない。流石に照れ臭くなって、背中を向けてしまう。
「そりゃあんた、あんな事があって一人でお前を帰したら、何をしでかすか、分かったもんじゃないからね。近くの方が監視し易いってもんだ」
咲は後ろからギュッと背中を抱きしめてきた。
「おいおい、泣かないって言ったろ?」
「うん、泣いてないよっ」
彼女の鼻を啜る音が聞こえる。声が少し、震えている。
「マコちゃんが、言ってた通りかも」
「はっ? 何が?」
「咲が居ると、いつもマコちゃんを、苦しめちゃうみたいだから。本当は、いなくなった方が、いいのかも」
長い沈黙が、そこから流れた。言い返してあげられる言葉が、見当たらない。以前の自分なら、歓喜してその提案を受け入れたろうが、今は状況が変わってしまったと思う。
咲に関する最大の誤算。それは彼女の僕に対する、依存度の強さにある。自分自身本心を語りたがらない性質だが、それは咲も同じだったのだ。
「いいよ、そんな嘘付かなくても。咲の本音を聞かせてよ。」
「ホントに? 言って良いの?」
「あぁこの際だから、全部聞く」
「……あのね、本当はずっと一緒に居たいの」
「うん、それで?」
「他の女の子に、盗られるのはヤダ。仲良くしてるのも、見たくない」
「うん」
「咲だけを見てて欲しいの」
「うん」
「好きだって毎日言って欲しい。キスもして」
「うん、他には? もう無い?」
「あと、あとは」
「マコちゃんに世界で一番、咲の事を好きになって欲しい。その他には何もいらない」
これが一番の本音だなと、僕は直感した。なるほど、そいつは厄介だ。彼女の父を死に追い込んだ自分が、その娘である咲を純粋に愛せるかどうか、ハッキリ言って自信が無い。適当に態度を取り繕う事は出来ても、すぐに見抜かれ。彼女をより深く、傷つける事になるだろう。どうしたものか。
「じゃあ、勝負してみるか?」
「えっ?」
自分でも意外な提案が、思いもかけず口を突いて出て来た。
「このままじゃあ埒が明かないだろ。お互いの希望を賭けての、勝負だ。僕が勝てばお別れだ。咲が勝てば」
「私が、勝てば?」
「何でも言う事を聞いてやんよ」
「それ、本当?」
突然、ベットから跳ね起きた少女は、誠を見つめる。
「しーっ! 大きな声出すなよ! 皆寝てんだから」
「ご、ごめんなさい」
「本当だ。坂東武者に二言は無い」
夜目にも、彼女が興奮している様がよく分かる。思い付きで言ってみただけなんだが、思ったより効果があった様だ。
「このまま、付かず離れずじゃあ、切りが無いしな。どうだ?」
「うん分かった。でも、何で勝負するの?」
「そうだな。なるだけ二人にとって、公平なのがいいな……とくれば、あれか?」
「何?」
思わず、ごくりとツバを飲む咲。次の誠の一言を聞き漏らさない様に、耳を澄ます。その時、彼はニヤリと笑った。
「センター試験で勝負だ」




