第一章 GATE :第二話 名もなき花の傍らで(前編)
「……君は、誰だ」と問われたまま、少女は結局、首を横に振ることしかできなかった。喉の奥はまだ乾いたままで、胸の中では速くなった心臓が、なかなかもとの静けさを取り戻してくれない。灯りの向こうの者たちはしばらく低い声で何かを言い交わしていたが、やがていちばん背の高い影が、ついてきなさい、とだけ告げた。少女は白い花の方を何度も振り返りながら、その背中を追った。素足の裏に伝わる石の冷たさが、一歩ごとに、これは夢ではないのだと教えてくれた。
記録の間は、少女が目覚めた広間よりもさらに深い場所にあった。灯火に導かれて長い回廊を下っていくあいだ、足元の花紋はやはり少女の歩みに合わせて淡く灯り、そのたびに前を行く管理者たちが、振り返りこそしないものの、背中でその光を確かめているのがわかった。誰も口をきかない。硬い靴裏が石床を叩く足音だけが幾重にも重なって反響し、少女は自分の素足の音だけが、ほかの誰の音とも揃っていないことに気づいた。小走りにならなければ追いつけない。すると、前を行くいちばん大きな背中が、黙ったまま、心なしか歩みをゆるめた。
たどり着いた部屋は、円い形をしていた。壁に沿って背の高い棚が天井へと昇り、そこに薄い石の板が、花弁を重ねるように幾千も並べられている。ひんやりとした空気の中に、古い石と乾いた苔の匂いが混じっていた。灯火が揺らめくたびに、棚の影が伸び縮みし、部屋そのものが踊っているかのように見える。足元の石床はいっそう冷たく、素足の指先から、しんとした冷えが這い上がってきた。
「転生の儀でこの神殿に生まれた者は、その夜のうちに名と、傍らに咲いた花を、この花石板に刻まれる」
低い声でそう教えてくれたのは、広間で最初に「君は、誰だ」と問いかけた者だった。背が高く、肩幅の広い、がっしりとした身体つきをしている。その肩にかかる髪のあいだに、薄紫のバラがいくつもほころんでいる。ほかの者たちがその者を「管理長」と呼んでいることを、少女は広間を発つときの、短いやりとりから知っていた。
「今宵の板は、まだ一枚も積まれていないはずです」
管理長の隣で、若い男の管理者が棚の最上段を見上げながら言った。管理長の大きな姿に比べると、その胸のあたりまでしか背丈のない、小柄で頬の丸い若者だった。指先に葉脈のような細い文様が走っていて、灯りを持つその手が、ほんの少しだけ震えている。
「念のため、過去の百夜ぶんも調べます。……ですが管理長、記録のない者がこの神殿で目覚めるなど、聞いたことがありません」
「だから調べるのだ」
管理長の声は穏やかだったが、それ以上の問いを許さない響きがあった。若い管理者は小さく唇を結び、棚へと手を伸ばした。
◇
石板が一枚ずつ下ろされ、灯火の下に並べられていく。石と石が触れ合うたびに、硬く澄んだ音が円い部屋の壁に跳ね返り、天井の暗がりへと吸い込まれていく。灯火に照らされた板の表面は、乳白色の中に微かな青みを帯びて、濡れたような光沢を放っていた。少女は部屋の隅に腰を下ろして、その作業をじっと見つめていた。板の一枚一枚には、見たことのない文字で名前らしきものが刻まれ、それと共に花の形が彫り込まれている。細い筒のような花、星のように尖った花、房になって垂れ下がる花。どの花も、まるで誰かの名前のすぐそばに寄り添うように刻まれていて、少女はそれを見ているうちに、胸の奥が少しずつ冷えていくのを感じた。
ここにいる誰もが、こうして自分を証すものを持っている。名前と花と、それを刻んだ夜。けれど自分が持っているのは、あの広間の石床に咲いた一輪の花だけで、それすら、本当に自分のものなのかどうか、確かめる術はないのだ。
「……ありません」
どれほど時間が経ったのか、若い管理者がようやく顔を上げた。
「今宵も、昨夜も、百夜前までさかのぼっても。この子らしき者の記録は、一枚もありません。名がわからない以上、手がかりはあの白い花だけです。けれど、白い花を伴って生まれた者さえ、どこにも」
部屋の空気が、わずかに重くなった気がした。誰も少女の方を見なかったが、見ないようにしていることが、かえってはっきりと伝わってきた。
「あの」
少女は、自分でも驚くほど小さな声で言った。
「あの花じゃ、だめですか。わたしのとなりに、咲いていたんです。夢の中でも……花みたいな何かを、見た気がして」
言いながら、それがどれほど頼りない言葉なのか、少女自身がいちばんよくわかっていた。夢で見たと言ったところで、その夢さえ輪郭があやふやで、あれが本当にこの花だったのかと問われれば、はっきりと頷ける自信はない。それでも、差し出せるものはそれしかなかった。
管理長は、しばらく黙って少女を見つめていた。責めるような目ではなかった。けれど、何かを量るような、慎重な目だった。
「花は、嘘をつかない」
そして、静かに言った。
「だが、花が何を語っているのかを読み違えるのは、いつも私たちのほうだ」
その言葉が慰めなのか戒めなのか、少女にはわからなかった。
◇
「――管理長」
それまで部屋の奥で黙々と古い棚を探っていた老いた記録守が、ふいに声を上げた。腰の曲がった女性で、白く乾いた髪を、細い蔓でひとつに束ねている。彼女は一枚の石板を両手で抱えるようにして、灯火の下へと運んできた。
「マリエナ、何か見つかったのか」
「百夜どころではありませんよ。これは、この棚のいちばん古い段にあったものです」
差し出された板は、ほかのどれよりも色がくすみ、長い時間を経ていたのか、風化して縁が欠けていた。そして、名前が刻まれているはずの場所が、ぽっかりと抉り取られたように白く窪んでいた。花の彫り込みも、同じように削り取られ、名と花とがひとつながりの窪みになっている。そこにどんな花が咲いていたのか、ひと目見ただけでは、もう何ひとつわからなかった。
「削られている」
管理長が低く呟いた。その声は平静を装っていたが、石板の縁に添えた指には、微かに力がこもっていた。「(偶然か)」
「ええ、削られています。それも、一度ではありません」
マリエナは皺だらけの指で、窪みの縁をそっとなぞった。
「ほら、ここ。削った跡の上から、別の手で何かを刻み直して、それをまた削っている。石の粉で埋めた跡もある。材が違うでしょう。この白さは、この神殿の石ではない」
若い管理者が、息を呑んだ。「(誰かが、記録を消した……?)」神殿の記録は決して誤らないと、そう教えられて育ってきた彼にとって、それは足元の石床が抜け落ちるような話だった。
「誰がそんなことを……記録は、神殿の者にしか触れられないはずです」
「だからこそ、ですよ」
マリエナは、ほとんど楽しげにさえ聞こえる声で言った。けれど、窪みを見つめるその目だけは、少しも笑っていなかった。「(まさか、おばあさまの話が……)」
「記録は正しい。けれど、記録を刻むのも、削るのも、同じ手なのです。リト、覚えておきなさい」
名を呼ばれた瞬間、若い管理者の指先に走る葉脈のような文様が、ふっと淡い光を帯びた。少女には、それが何の光なのかわからなかった。ただ、リトというのがこの若者の名なのだということだけは、わかった。
その光が消えないうちに、少女は思わず立ち上がり、吸い寄せられるように一歩前へ出ていた。窪みの底に、かろうじて削り残された線がひとつだけ見えたのだ。弧を描き、途中でふつりと途切れた線――まるで、欠けた円のような。
その瞬間、胸の奥で何かが跳ねた。広間の壁の前で覚えたのと同じ、思い出せないものを、それでも確かに知っているという、焦れるような感覚だった。とくん、と心臓がひとつ大きく打ち、それから急に速さを増していく。指先がじんと痺れ、足元の石床が、わずかに傾いたような気がした。耳の奥で、またあの声が遠くこだまする。
――もう一度。
少女は思わず胸を押さえた。「(まただ)」と思った。「(わたしは、これを知ってる)」けれど、何を知っているのかは、やはりわからなかった。
「どうした」
その声に顔を上げると、管理長とリトとマリエナの視線が一斉に自分へ向けられていた。少女は首を振ることしかできなかった。説明しようとすれば、何もかもが言葉になる前にほどけてしまいそうだった。
マリエナだけが、少女の顔と石板とを、ゆっくりと見比べていた。
(第二話 前編 了)
次回 第二話「名もなき花の傍らで」後編




