第一章【 GATE 】第七話 名を選ぶ花(前編)
百花の庭を出るころには、空の色が変わりはじめていた。
西に傾いた日が、小川の水面から蔓の橋の手すりまで、街じゅうのものを薄い茜色に染めている。根の道を行く少女たちの影は長く伸び、昼のあいだ飛び回っていた小さな妖精たちが、ねぐらの蕾へ帰っていくのが見えた。ひらいていた花がひとつ、またひとつと花弁を閉じ、代わりに家々の丸い窓に、ぽつりぽつりと温かな明かりがともっていく。昼の街とは違う、少し声をひそめたような、夕暮れの街だった。
シャルネは、当たり前のような顔をして少女の隣を歩いていた。夕刻には守護院へ戻せとセレフィアに言われたとき、彼女は「はいはい」と答えただけで、自分もついていくとは一言も言わなかった。ただ、庭を出る前に、見送りに集まった妖精たちへ「留守をお願いね」と言い置いていたところを見ると、はじめからそのつもりだったらしい。
少し先を、クラウゼが黙って歩いている。その斜め後ろでは、リトが妖精たちに編まれたままほどくのを忘れた細い三つ編みを揺らしていた。編み目のあいだには小さな黄色い花が差し込まれていて、歩くたびにそれがひょこひょこと跳ねる。当のリトは、まだ気づいていないようだった。
少女は、腕の中の白い花を見下ろしながら歩いていた。
「(わたしの名前は、わたしが選ぶ)」
小川のほとりで胸に根を下ろしたその決心は、歩くうちにも少しも薄れなかった。とはいえ、心を決めたからといって、名前がすぐに見つかるわけではない。記録の間の石板に刻まれていた名前も、市場の通りを飛び交っていた名前も、どれも誰かのものだった。自分のための名前が、この世界のどこかにぽつんと落ちているとは思えなかった。
「ねえ、わたしがいくつか考えてあげようか」
反対側から、ルクシエルがひょいと顔を覗き込んだ。
「白い花の子だから、光にちなんだ響きがいいと思うの。それとも、門が咲いた朝にちなんで――」
楽しげに指を折りはじめたルクシエルの袖を、シャルネが軽く引いた。ルクシエルは一瞬きょとんとして、それから少女の顔を見て、はっとしたように口をつぐんだ。
「……ごめん。自分で選びたいのよね」
「ううん」
少女は首を振った。責める気持ちなど、少しもなかった。
「うれしかった。考えてくれて。……でも、見つけたいの。自分で」
ルクシエルはしばらく少女を見つめ、それから、少しだけ名残惜しそうに、けれど心の底から納得したように笑った。
「そうね。それがいいわ。わたしにはできなかったことだもの」
◇
守護院の門には、もう灯火が入っていた。
幾重にも巡らされた棘の生垣の切れ目に、花の形をした灯りがふたつ浮かび、その下に、白い装具の衛士がふたり立っている。近づいてみると、そのうちのひとりは、ルクシエルとさほど年の変わらない娘だった。背には白い翼をたたみ、手には長い槍を立てている。
少女が足を止めたのは、その娘の髪に目を奪われたからだった。
耳の上の結い目に、小ぶりな花がいくつも咲いていた。丸みのある花弁が連なり、中心だけがほんのりと濃く色づいている。色は、夕日に溶けてしまいそうな薄紅だった。けれど、その形は――
少女は、腕の中の花と、娘の髪の花とを、何度も見比べた。色も、大きさも違う。それでも、見間違えようがなかった。
衛士の娘のほうも、少女の腕の中に目を留めていた。槍を立てたまま、小さく目を見開いている。
「……ファレノプシス?」
娘が、ほとんど囁くように言った。
「え……?」
「その花。胡蝶蘭でしょう。ファレノプシス。わたしも胡蝶蘭なの。……と言っても、わたしのは小輪の種類だけど」
娘は、自分の髪の花に指を添えた。
「でも、白い大輪は初めて見た。こんなにまっすぐな白、あるのね」
少女は、息をするのを忘れていた。
ファレノプシス。胡蝶蘭。
目覚めた夜から、ずっと「白い花」としか呼べなかった。百花を預かるシャルネでさえ、その名を口にすることはなかった。自分こそ誰よりも近くにいたのに、この花の名前さえ知らずにいたのだ。胸に抱いてきた花に、ずっと前から呼ばれるための名前があった――そう思った途端、なぜだか、目の奥がじんと熱くなった。
「胡蝶蘭は、蝶が舞っているように咲くから、そう呼ばれるの」
少女の様子に気づいたのか、娘は少し声をやわらげて続けた。
「それからね、『幸福が飛んでくる』っていう意味を持つ花なのよ。わたし、胡蝶蘭に生まれて、それだけはちょっと自慢なの」
ふと、懐かしそうに目を細めた。
「三月前に、ずっと南西のホーシンって街から来たばかりなの。胡蝶蘭なんて、ここでは一度も見かけなくて。……だから、うれしい」
「ロネット、交代の刻だ。申し送りを受けに来い」
門の内側から、年かさの衛士が声をかけた。その瞬間、娘の手の甲で、蝶の形をした小さな花紋が、薄紅に灯った。
「はい、ただいま」
ロネットと呼ばれた娘は振り返って答え、それから少女に向き直った。
「あなた、今朝の試しの子でしょう。……名前、もう決まった?」
今朝までの少女なら、ここで唇を閉ざしていただろう。「ないの」と、うつむいて答えていただろう。今の少女は、腕の中の花の重みを確かめてから、顔を上げた。
「まだ。……でも、もうすぐ」
ロネットは、しばらく少女を見つめ、それから、ふわりと笑った。
「そう。じゃあ、決まったら教えてね。同じ胡蝶蘭の子の名前、知りたいもの」
白い翼を微かに鳴らして、彼女は門の奥へ去っていった。
その背を見送りながら、少女は、自分の肩の後ろに手を回した。指先に触れたのは、薄い衣と、その下のなめらかな背中だけだった。ただ、肩甲骨のあたりにだけ、日だまりのような温もりが、ふたつ、宿っている気がした。
少女は、腕の中の花に目を落とした。
「……ファレノプシス」
初めて、その名で呼んでみた。
風はなかった。それなのに、白い花弁が、応えるように震えた。
◇
セレフィアは、街の長たちとの寄り合いに呼ばれたきり、まだ守護院に戻っていなかった。少女たちは、試しの庭の縁で待つことになった。
今朝、あれほど踏み荒らされた庭は、シャルネが直したとおりに花で満たされていた。夕日の名残が花弁を金色にふちどり、昼の熱を含んだ土の匂いが、足元からやわらかく立ちのぼってくる。その庭のちょうど真ん中に、少女が覆いかぶさって守った、あの一輪の小さな花が咲いていた。薄紅の花弁を、閉じかけながらも、まだこちらへ向けている。その傍らでは、シャルネと咲かせた、縁に淡い青を滲ませた花が、寄り添うように揺れていた。
少女は、その花のそばに腰を下ろした。
ルクシエルがついてこようとしたのを、シャルネが肩に手を置いて止めた。「今は、ひとりにしてあげて」と言う低い声が、背中の方から聞こえた。クラウゼは回廊の柱のそばに立ち、壁に掛けられた裂けた盾を、黙って見上げている。リトは少し離れた石の縁に腰かけ、何度も少女の方を気にしては、そのたびに目を逸らしていた。
膝の上に、白い花を載せた。
「あなたの名前、ファレノプシスっていうんだね」
花に話しかけるのは、目覚めてから何度目だろう。
記録の間の石板には、どれも名前のすぐそばに花が刻まれていた。街の者たちは、みな自分の花を知っていて、花と一緒に名乗っていた。エリトアの家に生まれた、雪鐘の花の子、ルクシエル――彼女もそう名乗っていた。家の名も花の名も、その者がどこから来たのかを示すものなのだ。
ならば、わたしが来たところは、ここだ。わたしには、生まれた家はない。でも、この花のそばで、わたしは目を覚ました。この花だけが、わたしを待っていてくれた。
「あなたの名前を、わたしの名前の前に置いてもいい?」
白い花は、何も言わなかった。揺れもしなかった。それでも少女は、その静けさを、頷きだと思うことにした。
それなら、残るのは、あとひとつ。
花の名前の後ろに続く、わたしだけの名前。
少女は目を閉じた。
呼ばれた者の身体に灯る光。自分で名乗るときと、誰かに呼ばれるときとで、違う色になる光。名前のない者は守りの外にいるのだと告げた、大守護者の厳しい声。自分で選んだ名前なら最初から好きになれると言って、夕日の中でこちらを見つめたシャルネの顔。門の前で「もうすぐ」と答えたとき、自分の胸の中で、確かに何かが一歩前へ進んだ感触。
わたしは、呼ばれたい。呼ばれて、振り返って、ここにいると光りたい。そして、誰かを呼べる者になりたい。
そのとき、閉じたまぶたの裏の暗がりに、あの声がよみがえった。
あなたは、もう一度咲きたい?
目覚める前の、上も下もない闇の中で聞いた問いだった。あのときは、答えられなかった。答えるための胸も、喉も、何ひとつ持っていなかった。「もう一度」という言葉だけが、棘のように引っかかって、それきりだった。
今は、胸がある。とくん、とくんと打つ心臓がある。冷たい石と温かい土の違いを知っている手がある。声を上げて笑うということも、今日、初めて知った。
「(咲きたい)」
胸の奥で、少女ははっきりと答えていた。
一度目があったのかどうかさえ、知らない。それでも咲きたかった。誰かの記録の中の誰かとしてではなく、今ここにいる、わたしとして。
その答えが胸の底まで降りていったとき、何もないはずの引き出しの奥で、ひとつの響きが芽を出した。
誰かから借りてきた音ではなかった。市場の通りを歩きながら、喉の奥でかたちになりかけては消えていった、あの薄っぺらな音とも違った。石床の割れ目から、細い茎がまっすぐに伸びてくるように、その響きは、少女の中から、少女の速さで育ってきた。
「……アメディア」
唇から、こぼれていた。
口にした瞬間、それは生まれたばかりの息のように新しかった。そして同時に、ずっと昔から舌の上にあったもののように、ひどくなじんでいた。
夕闇の降りはじめた庭の、花々の影のあいだで、何かが開いた気がした。すべてを見透かすような、ひとつの眼。夢の中で巡っていた十二の影のうちの、あの形。それはほんの瞬きひとつのあいだだけ少女を見つめ、何も言わずに閉じた。
――もう一度。
遠い声が耳の奥をかすめ、背筋に、ひやりとしたものが走った。
少女は、膝の上の花を両手で包み込んだ。この響きがどこから来たのか、少女にはわからない。けれど、この響きを手に取ったのは、自分だった。
「(これが、いい)」
少女は、心の中で言った。
「(これを、わたしが選ぶ)」
(第七話 前編 了)
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