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魔王を倒した後に始まる物語  作者: にめ


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memory 88 届かせる距離

## memory 88 届かせる距離


 屋根のある小部屋を出たとき、空気が変わった。


 前の階層より乾いている。

 湿り気が消えたぶん、音がよく響くはずなのに、響きが薄い。

 音が薄いというより――音が届く前に、意味が削られている。


 アズルは胸元に残る鈍い痛みを、指でそっと確かめた。

 まだ治りきっていない。

 ヴェールの回復が足りないのではない。

 “足りるまで”使っていない。


 それが、今の合意だった。


 勝つために燃やし尽くさない。

 生き残るために、残す。


 ノワールが先頭を歩く。

 足音を抑え、壁の継ぎ目を見て、空気の流れを読む。


 ルージュは半歩後ろで、指先を軽く動かしている。

 幻術を張るほどではない。

 ただ、いつでも張れるように、形だけ整えている。


 ヴェールはさらに後ろ。

 精霊の気配を遠くから確かめながら、呼吸を深く保つ。

 焦りが浮かぶと、精霊はすぐ波立つ。


 アズルは剣の柄に触れた。

 抜かない。

 だが、抜ける。


 昨日までの自分なら、その“抜ける”だけで前に出た。

 今は違う。


 進む前に、言葉を置く。


「今日は、勝たなくていい」


 足が止まる。

 誰も驚かない。


 ルージュが目を細めた。

「いきなりどうしたの。珍しい」


「昨日、届かなかった」

 アズルは短く言う。

「届かなかったものに、もう一回、同じことをしても届かない」


 ノワールが頷く。

「合理的」


 ヴェールは静かに言った。

「じゃあ……今日は何をするの?」


 アズルは呼吸をひとつ置く。


「届かせる距離を測る」


 言ってから、自分の言葉が少し変だと思う。

 距離を測るなら、物差しが要る。

 だが、彼らの物差しは数字じゃない。


 恐怖の量。

 息の乱れ。

 戻れるかどうか。


 そういう、曖昧なもの。


 ルージュが肩をすくめた。

「勝たなくていい、って言ってたくせに、やることは真面目だね」


「真面目じゃないと、死ぬ」


 ノワールの淡々とした言葉に、ルージュは口を尖らせた。


「それ、屋根の下じゃないからツッコミにくい」


「屋根があってもツッコミにくい」


 ヴェールが小さく笑う。

 その笑いが、アズルの肩を少し軽くした。


 ◆


 彼らは“中心”を避けて進んだ。


 中心。


 昨日、あれがいた場所。

 そこへ近づくほど、音が薄くなり、精霊が遠くなり、幻が弾かれる。


 説明はしない。

 地図も作らない。


 ただ、歩いて分かる。


 外縁の通路は、曲がり角が多い。

 壁が近い。

 だが、昨日の狭さと違う。


 息が削られない。

 言葉が残る。


 ノワールが壁に小さく刻み目を入れた。

 三つ。


「戻る線」


 その短い言葉が、全員の背中を支えた。


 ルージュが、少しだけ歩幅を合わせてくる。

 横ではなく、少し斜め。

 近すぎない。

 でも、離れていない。


 アズルは何も言わなかった。

 言えば、意識してしまう。

 意識すれば、判断が鈍る。


 ノワールが言っていた。

 距離が近いと、判断が鈍る。


 それでも。


 鈍っていい瞬間がある。

 鈍らないと、壊れる瞬間がある。


 その加減を、彼らは今、探している。


 ◆


 通路が開けた。


 小さな広間。

 柱が数本、点在している。

 天井は低め。

 逃げ道は二つ。


 そして、気配。


 昨日の“それ”ほどではない。

 だが、普通の魔物よりは明らかに濃い。


 ルージュが小さく舌打ちをした。


「いるね」


 ノワールが頷く。

「数は少ない。二……いや、三」


 ヴェールが目を閉じる。

「精霊が、怖がってる。昨日ほどじゃないけど……近づきたがらない」


 アズルは剣を抜いた。

 抜いた瞬間、熱が戻る。


 勝つためじゃない。

 届かせるため。


 ◆


 影が、柱の裏から滲み出た。


 輪郭が曖昧なまま、形を取る。

 昨日の影より“重い”。

 床に影が落ちる。

 落ちた影が、こちらへ伸びる。


 アズルは踏み込まない。


 距離。


 まず、敵が届く距離を見極める。


 影が伸びた瞬間、アズルは一歩だけ後ろへ下がった。

 影が空を切り、床に擦れる。


「当たると、引っ張る」


 ノワールが短く言った。

 すでに観測している。


 ルージュが、薄い“音”を置いた。

 足音。

 柱の向こうに、誰かが走ったような音。


 影の魔物が、一瞬だけそちらを向く。


「向きが変わる」


 ルージュの声。

 彼女は派手な幻を捨てている。

 視線の向きだけ。


 それで十分。


 アズルはその隙に、剣を振った。


 深く斬らない。


 “当てる”だけ。


 剣先が、影の輪郭に触れた。


 手応えが、ない。


 だが――弾かれない。


 昨日は、触れたはずなのに、触れた結果が消えた。

 今日は、触れた感覚が残る。


 小さな違い。

 それが、今日の目的だった。


 影が、怒ったように揺れた。


 次の瞬間、床から影が跳ねる。


「来る!」


 ルージュの声。


 アズルは一歩横にずれる。

 避ける。

 追わない。


 ヴェールが、息を吸う。

 精霊が薄く集まる。


 回復ではない。


 足元。


 床に薄い“滑り”を作る。

 転ぶほどではない。

 影の魔物が踏み込んだ瞬間、わずかにバランスを崩す。


 その隙に、ノワールが柱の影から飛び出した。

 刃は短い。

 だが狙いは正確。


 “核”ではなく、影の伸びる起点。


 影が、伸びる方向を失う。


 ルージュがもう一度、音を置く。

 今度は近い。

 アズルの背後。


 影がそちらに伸びる。


 アズルは振り返らない。

 振り返れば、間に合わない。


「そのまま!」


 ノワールの声。


 指示ではない。

 状況の報告。


 アズルは頷き、踏み込む。

 影が背後に伸びる前に、距離を詰める。


 剣がまた触れる。


 弾かれない。


 触れた。


 触れた、という事実が残る。


 影の魔物が、少しだけ後退した。


 逃げたのではない。

 反応した。


 その反応が、嬉しい。


 ――通じた。


 勝ててはいない。


 けれど、通じた。


 ◆


 喜びはすぐに押し込める。


 影の魔物は三体。

 一体に触れたところで、状況は楽にならない。


 むしろ、危険が増える。


 影が連携して伸びる。

 床を這い、柱を越え、角度を変える。


 アズルは追わない。

 斬り込まない。


 触れる。

 測る。


 ヴェールは回復を使わない。

 代わりに、呼吸を整え、精霊の距離を一定に保つ。


 ルージュは派手な幻を捨て、音と影だけで敵の“向き”を変える。


 ノワールは解除しない。

 危険が増えたら、止める。


 止めるための退路を、常に目で追う。


 そして。


 影の魔物が、二体同時に伸びた瞬間。


 ノワールが言った。


「十分だ」


 ルージュが反射で口を開きかける。

 まだ行ける。

 もう一回触れたら。


 そう言いたい顔。


 だが、言わない。


 ヴェールが小さく頷いた。


「戻れるうちに」


 アズルも頷く。


「撤退」


 言葉が揃う。


 揃うだけで、足が動く。


 ルージュが最後尾に回る。

 悔しそうに唇を噛みながらも、役割を離さない。


 薄い幻。

 最後の最後に、足音を一つ置く。


 影がそちらへ伸び、追撃が遅れる。


 ノワールが壁の刻み目を確認する。

 三つ。


 戻れる。


 アズルは胸の痛みを押さえながら走った。

 走れる。

 昨日より。


 ◆


 しばらく進むと、小さな部屋があった。

 崩れた石が天井に引っかかり、簡易的な屋根になっている。

 風が弱い。

 音が戻る。


 屋根がある。


 四人は自然にそこへ入り、壁に背を預けた。


 ルージュが最初に座り込み、深く息を吐く。


「……ねえ」


 その声は、屋根の下の声だった。


「さっき、届いたよね」


 アズルは頷いた。


「触れた」


「触れた、って言い方」

 ルージュが笑う。

「それ、すごいのに地味」


「地味でいい」

 ノワールが言う。


「地味が、積み重なると……ちゃんと前になる」

 ヴェールが続ける。


 アズルは、剣を膝の上に置いた。

 刃の冷たさが、少し落ち着かせる。


 ルージュが、いつもの調子に戻りかけた目で、アズルの胸元を指さした。


「そこ、痛む?」


「痛む」


「じゃあ、私が揉んであげよっか」


 ヴェールがぴくりと反応した。


「……揉むの?」


「冗談だよ!」

 ルージュがすぐに手を振る。

「屋根があるからって、いきなり加速しないでしょ」


「加速って言うな」

 ノワールが淡々と突っ込む。


「だってさ!」

 ルージュは頬を膨らませる。

「昨日、私が支えたとき、素直に“助かる”って言ったでしょ」


「言った」


「じゃあ今日も言って」


「何を」


「えー、分かるじゃん」


 ヴェールが小さく咳払いをした。


「……報告。私は、さっき……精霊が少し反応した」


 ルージュは一瞬、口を閉じる。

 真面目な報告を、真面目に受け取る。


「反応?」


「うん。昨日の場所は、遠すぎた。でもさっきは……怖がってたけど、戻ってきた」


 アズルは頷いた。


「つまり、距離だ」


 ノワールが短く言う。

「届く距離には段階がある。昨日は外。今日は縁。中心はまだ先」


 言い方は淡々としている。

 だが、彼女の目は確かに熱を持っていた。

 情報が拾えないことを恐れていたノワールが、情報を“拾えた”顔をしている。


 アズルは、その顔を見て、少しだけ笑った。


 ノワールが微かに眉を動かす。


「何だ」


「いや……ノワールも、嬉しそうだなって」


 一瞬、部屋の空気が止まる。


 ノワールは視線を逸らした。


「報告。私は嬉しい」


 言い切ってしまう。

 それが逆に、照れを隠している。


 ルージュが吹き出した。


「なにそれ、可愛い」


「屋根があるからって調子に乗るな」


「屋根があるからだよ!」


 ヴェールが、くすっと笑った。


 その笑いが、アズルの胸を温めた。


 アズルは、ルージュを見る。


「……助かった」


「今日も?」


「今日も」


 ルージュは満足そうに頷く。

「よし」


 ヴェールが小さく息を吐き、アズルの胸元に指先を当てた。

 精霊の光が、ほんの少しだけ暖かい。


「報告。痛み、少し減らす」


「……ありがと」


 言いながら、アズルは思う。


 距離が縮まるのは、敵に対してだけじゃない。


 自分と彼女たちの距離も、少しずつ縮んでいる。


 それは、急がないからこそ、縮む。


 ◆


 休憩を終え、部屋を出る。


 外の空気は冷たい。

 だが、さっきよりは息が深い。


 遠くに、中心の気配がある。

 昨日の“まだだ”が、今も耳に残る。


 それでも。


 アズルは剣の柄に触れ、確かめる。


 強さには、まだ届かない。


 けれど、距離は確かに縮んでいた。


 今日の小さな手応えが、次の一歩を支える。


 彼らは歩き出した。

 勝つためではなく――届かせるために。


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