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魔王を倒した後に始まる物語  作者: にめ


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memory 84 小さな成功

## memory 84 小さな成功


 ダンジョンの空気は、前の階層よりもわずかに湿っていた。

 壁に染み込んだ水分が、音を吸い、足音を鈍らせている。


 ――いや。


 吸われているのは音だけじゃない、とアズルは思った。

 判断の速さも、決断の勢いも、ここでは一拍遅れる。

 以前なら「遅い」と感じていたその感覚を、今は否定しなかった。


 剣の柄に触れ、確かめるように指を動かす。

 抜かない。

 抜かないという選択が、今は自然にそこにあった。


「……慎重だな」


 ぽつりと呟いたのは、ノワールだった。

 忍びとしては褒め言葉にも聞こえるが、そこに皮肉はない。

 事実の確認に近い声音だった。


「うん」

 アズルは頷く。

「慎重になってる。たぶん、ちゃんと」


 違和感があれば、止まる。

 止まって、言葉にして、共有する。

 それだけのことが、以前はどうしてできなかったのか。


「精霊の流れ、少し歪んでる」

 ヴェールが足を止め、小さく言った。

 目を閉じ、空気の層に指を滑らせるような仕草をする。

「ここ、自然じゃない。罠……たぶん、踏んだ瞬間に派手なことは起きない」


「派手じゃない罠が一番嫌なんだよね」

 ルージュが肩をすくめる。

「あとから『あ、やばい』ってなるやつ」


 軽口だが、視線は床から離れない。

 結界を張る気配はない。

 守りすぎない、という選択が、ここでも守られていた。


「進む?」

 ノワールが問いを投げる。


 正解のない問いだった。


 アズルは一瞬、考えた。

 考えてから、口を開く。


「少し右に寄って進もう。踏み抜く前提で」


 一瞬、空気が止まる。

 だが、否定の声は上がらなかった。


「踏み抜く前提?」

 ルージュが眉を上げる。


「失敗する前提、ってこと?」


「うん」

 アズルは小さく笑った。

 自嘲でも虚勢でもない。

「避けられるなら避ける。でも、失敗しても戻れる距離で行く」


 ヴェールが、ふっと息を吐いた。

「それ、嫌いじゃない」


 精霊たちが、かすかに揺れる。

 賛成とも警告ともつかない、中立な反応。


 ノワールは短く頷いた。

「記録する。床の沈み方と、反応までの時間」


 誰も指示していないのに、役割が自然に回る。

 その感覚が、アズルの胸をわずかに温めた。


 ――戻ったな。


 確信ではない。

 感触に近いものだった。


 ◆


 罠は、想像以上に地味だった。

 床の一部が、ほんの数センチ沈み込む。

 その瞬間、周囲の魔力がわずかに歪み、重力の向きが狂う。


「――っ!」


 踏み抜いたのは、ルージュだった。

 体勢を崩し、思わず声が漏れる。


 だが、落ちない。


 ヴェールの精霊が即座に反応し、空気を固める。

 見えない腕が、ルージュの身体を支えた。


「ごめん!」


 それは失敗の報告だった。

 言い訳も、照れ隠しもない。


「大丈夫」

 アズルは即答する。


 剣は抜かない。

 代わりに、手を伸ばす。


 ルージュは一瞬ためらい、それからその手を取った。


「……落ちると思った」


「思ったね」

 ノワールが淡々と続ける。

「でも、落ちなかった」


「精霊が間に合った」

 ヴェールが言う。

「それだけ」


 奇跡ではない。

 連携の結果だ。


 罠は解除されていない。

 ただ、把握された。


「もう一回、通る?」

 ルージュが訊く。


「通る」

 アズルは即答した。

「今度は、分かってる」


 二度目は、誰も踏み抜かなかった。


 ◆


 次の部屋は、小規模な魔物の巣だった。

 天井が低く、視界が悪い。

 魔物の数は多くないが、動きが読みにくい。


「囲まれると面倒」

 ノワールが囁く。


「散らそう」

 アズルが応じる。


 ルージュが薄く幻術を展開する。

 派手な幻は作らない。

 ただ、距離感と影の位置をずらすだけ。


 ヴェールは回復の準備をしながら、使わない。

 必要になるまで、待つ。


 アズルは剣を抜いた。

 だが、振るう前に一呼吸置く。


 魔物が突っ込んでくる。


 ――遅い。


 そう感じても、踏み込まない。

 一歩だけ前に出て、浅く斬る。

 動きを止めるだけで十分だった。


「後ろ」


 ノワールの声と同時に、ルージュの魔法が弾ける。

 衝撃は小さいが、魔物を引き離すには足りていた。


 数分後、魔物たちは散り、逃げていった。


 誰も追わない。


「……勝った、って言っていいのかな」

 ルージュが首を傾げる。


「いいんじゃない?」

 ヴェールが微笑む。

「全員、無事だし」


 アズルは剣を納めた。

 胸の奥に、静かな熱が灯る。


 ◆


 休憩場所は、天井の低い小部屋だった。

 瓦礫を片付け、腰を下ろす。


 屋根がある。


 だから、少しだけ、気が緩む。


「ねえ」

 ルージュが何気なく言った。

「さっきさ、手、早かったよね」


「ん?」


「落ちそうになったとき」

 彼女は、ちらりとアズルを見る。

「迷わなかった」


 アズルは少し考え、答える。

「迷ってたら、間に合わなかった」


「ふーん」

 ルージュは笑う。

「じゃあ、あれは反射?」


「たぶん」


「ずるいなぁ」


 冗談めかした声。

 だが、距離は近い。


 ノワールが咳払いを一つ。

「屋根があるとはいえ、油断は禁物だ」


「はいはい」

 ルージュは肩をすくめる。


 ヴェールは静かにその様子を見ていたが、ふと口を開いた。

「でも……さっきのは、良かったと思う」


「何が?」


「誰も、責めなかった」


 その言葉に、場が静まる。


 アズルは、ゆっくりと頷いた。

「失敗しても、戻れるって分かってたから」


 ノワールが、わずかに口元を緩める。

「それは、進歩だ」


 小さな部屋。

 小さな成功。


 だが、それは確かに、前に進んでいた。


 ダンジョンは、まだ続く。

 試練も、終わらない。


 それでも――


 この一歩は、間違いなく、戻ってきた証だった。


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