memory 65 帰る場所
## memory 65 帰る場所
境界を越えた瞬間、追ってきていた気配が、嘘のように消えた。
あれほど背中に貼りついていた重さが、ふっと抜ける。
音が戻り、風が普通に流れ、土の匂いが鼻に届く。
誰も「助かった」とは言わなかった。
けれど全員が、同じ理解に辿り着いていた。
――ここまでは、追ってこない。
ルージュは立ち止まり、胸元を押さえた。
ペンダントが、じんわりと温かい。
走り続けていた心臓の音が、ようやく落ち着いてくる。
光ってはいない。ただ、確かに応えている。
「……」
無意識のうちに握りしめた指の隙間から、淡い熱が伝わった。
アズルは周囲を見渡し、剣を抜かなかった。
ヴェールは息を整え、肩で呼吸をするのをやめる。
ノワールは一歩だけ後ろに下がり、背後を確認した。
もう、追撃はない。
それを確信した瞬間、足の力が抜けた。
「……っ」
ヴェールが小さくよろめき、アズルがすぐに腕を伸ばす。
「大丈夫か」
「うん……ちょっと、力が抜けただけ」
そう言いながらも、ヴェールの額には汗が浮いていた。
回復を重ね続けていた反動が、ここに来て一気に出ている。
ルージュは苦笑した。
「さすがに、無傷ってわけにはいかないわよね」
その声も、いつもより少し掠れている。
腕には切り傷が走り、外套の裾は裂けていた。
ノワールは無言で、自分の装備を確かめる。
刃の一部が欠けている。動き自体は問題ないが、長くは保たない。
アズルも同じだった。
肩の傷は浅いが、血が止まりきっていない。
呼吸は整っているのに、体の奥に鈍い疲労が溜まっている。
全員、ぼろぼろだ。
それでも、立っていられる。
それが、今の精一杯だった。
村が、目の前にある。
建物がはっきり見え、人の動く気配がする。
精霊の村とは違う、生活の音。
ルージュは一歩前に出た。
その瞬間だった。
「――ルージュ?」
驚いた声が飛んできた。
次いで、足音。
家の陰から、道の奥から、人影が現れる。
「ルージュじゃないか!」
「どうしたんだ、その格好……!」
一瞬の沈黙。
それから、ざわりと空気が変わった。
視線が、傷に集まる。
血に、裂けた服に、疲労の色に。
「ちょっと待ってて!」
「水を持ってくる!」
「医療の人を呼んで!」
理由を問う声はなかった。
誰と戦ったのかも、なぜ戻ったのかも。
先に出たのは、心配だった。
ヴェールが目を丸くする。
「……すごい」
精霊の村でも、もちろん優しく迎えられた。
けれどここでは、説明より先に手が伸びる。
ルージュは一瞬、言葉に詰まった。
「……ごめん。ちょっと、派手にやられちゃって」
笑おうとして、うまくいかなかった。
「馬鹿!」
そう言いながら、年配の女性がルージュの腕を掴む。
「そんな状態で戻ってくるなんて……!」
叱る声なのに、手つきは優しい。
子どもたちが、少し離れた場所から覗いている。
怖がってはいない。
ただ、心配そうな顔だ。
アズルは一歩下がり、様子を見る。
この場の中心は、自分ではない。
剣を握る必要もない。
ノワールが低く言った。
「……受け入れが、早い」
「でしょ」
ルージュが肩をすくめる。
「うちの村、こうなのよ。元気なときより、怪我してるときの方が騒がしい」
言葉は軽いが、声の奥に安堵が滲んでいた。
水が渡され、布が当てられる。
簡単な処置が、手際よく進む。
「他の人たちは?」
誰かが、ようやくルージュの後ろに目を向けた。
「仲間よ」
ルージュはそう言って、振り返る。
「……かなり、無理させちゃった」
その一言で十分だった。
アズルたちにも、同じように手が伸びる。
ノワールの刃を見て眉をひそめる者。
ヴェールの手を見て、疲労に気づく者。
「中へ」
「外は寒い」
促されるまま、屋根のある場所へ通される。
扉が閉じる音が、やけに静かだった。
室内は明るく、清潔で、余計なものがない。
椅子に腰を下ろした途端、全身の力が抜けた。
ヴェールが深く息を吐く。
「……ここ、安心する」
精霊はいない。
でも、拒まれていない。
ノワールは壁際で周囲を観察し、やがて小さく頷いた。
「安全だ」
短い言葉だったが、重みがあった。
ルージュは、椅子に座ったまま天井を見上げる。
懐かしい。
でも、完全に戻った感じはしない。
それでも――。
「……でしょ?」
ルージュは仲間たちを見て、少しだけ胸を張った。
「悪くない村なのよ、ここ」
強がりでも、自慢でもない。
ただの事実だ。
アズルは頷いた。
「助かった」
短い言葉。
それだけで、十分だった。
温かい飲み物が配られる。
湯気が立ち上り、指先が温まる。
外では、人の声が行き交っている。
心配する声。
安堵する声。
守られている。
そう実感できる時間が、ようやく訪れた。
ルージュはペンダントに、そっと触れた。
熱は、もうない。
役目を終えたように、静かだ。
この村は、逃げ込んだ場所だ。
でも同時に、帰る場所でもある。
その二つが重なっていることに、ルージュはまだ、はっきりした答えを出せずにいた。
ただ今は――。
休んでもいい。
そう、思えた。
しばらくして、湯を張った桶が運び込まれた。
血と泥を落とすためのものだと、一目で分かる。
「先に女の子からね」
当然のようにそう言われ、ヴェールとルージュが顔を見合わせた。
ヴェールは一瞬だけ遠慮しそうになったが、すぐに首を横に振る。
「……ありがとう」
その言葉に、村人は笑った。
「礼を言うほどのことじゃないよ」
まるで、昨日もこうして世話を焼いていたかのような口ぶりだった。
衝立の向こうで、水の音がする。
ヴェールは服を緩めながら、深く息を吐いた。
身体の奥に残っていた緊張が、ようやく溶けていく。
「……強かったね」
ぽつりと、ヴェールが言う。
ルージュは肩まで湯に浸かり、天井を見上げた。
「うん。強かった。あれは……本気で殺しに来てた」
言い切りだった。
でも声は、震えていない。
「それでも、逃げてきた」
ヴェールが言うと、ルージュは小さく笑った。
「正しいでしょ? 生きてなきゃ、次もないもの」
その言葉に、ヴェールは頷く。
精霊の村では、“次”は守られていた。
ここでは、自分たちで掴まなければならない。
それでも、こうして迎え入れられる場所がある。
それだけで、胸が少し軽くなった。
一方、部屋の外では、アズルとノワールが簡単な手当てを受けていた。
「傷、思ったより深いね」
布を当てながら、村人が眉を寄せる。
「動ける」
アズルはそう答えたが、否定はされなかった。
「動けるのと、無理していいのは違うよ」
はっきりした言い方だった。
だが責める調子ではない。
ノワールは、そのやり取りを黙って聞いている。
この村では、隠すよりも任せたほうが早い。
そう直感していた。
処置が終わり、二人も腰を下ろす。
アズルは背もたれに体を預け、目を閉じた。
剣を握っていない時間が、こんなにも長く感じられるのは久しぶりだった。
(……守られている)
そう思うと同時に、胸の奥が少しだけ疼く。
守られることに、慣れてはいけない。
でも、拒む必要もない。
今は、ただ休む。
それでいい。
しばらくして、食事が運ばれてきた。
豪華ではない。
けれど、温かく、腹に溜まる。
「ちゃんと食べなさい」
そう言われ、誰も逆らわなかった。
ヴェールは一口ごとに、体に力が戻ってくるのを感じる。
ノワールは黙々と食べ、周囲の音を聞いていた。
笑い声。
鍋の蓋が鳴る音。
誰かが誰かを呼ぶ声。
全部、普通だ。
アズルは、その普通さに、少しだけ目を細めた。
命を狙われた直後だからこそ、この平穏が際立つ。
ルージュは箸を置き、仲間たちを見渡した。
「……迷惑、かけたわね」
アズルは首を横に振る。
「助けられた」
それだけで、十分だった。
夜が更ける。
外では、結界が静かに村を包んでいる。
意識しなければ、存在すら忘れてしまいそうなほど自然に。
ルージュは窓の外を見た。
ここは、自分の故郷だ。
でも、昔の自分がいた場所とは、少し違う。
それが良いのか悪いのか。
まだ、分からない。
ただ一つ確かなのは――。
今日、ここに辿り着けていなければ、誰かが欠けていたということだ。
ルージュは、ペンダントにもう一度触れた。
何も起きない。
それでいい。
役目は終わった。
今は、人の温度に身を委ねる時間だ。
そう思いながら、ルージュはゆっくりと目を閉じた。




