memory 136 約束の話をする席
# memory 136 約束の話をする席
王城の門をくぐった瞬間、空気が一枚変わった。
王都の街路は、騒がしくても“生きている”。人の声と馬の蹄、荷車の軋み、朝餉の匂い――それらが混ざり合って、勝手に揺れている。
だが王城の内側は違う。
揺れが少ない。
誰かが揺れを嫌って、整えている。
アズルはそれを「管理」と呼びたくなった。
けれど、今日の王城は、いつもの王城ではない。
昨日、王は席を立った。
言葉が残り、欲望が露わになり、そして静かに終わった。
王座は空いた。
その空白を埋めるために、別の誰かが座った――というより、座らされた。
新しい王は、まだ“正しさ”を持っていない。
少なくとも、そう見せている。
だからこそ、ここに呼ばれた。
呼ばれたという言い方さえ、まだ慎重に扱うべきだ。
アズルの袖が、少しだけ引かれた。
「アズル」
ブランだった。
白い髪が、朝の光を受けて淡く透けている。
昨日の洞窟の闇が嘘みたいに、彼女は明るい。
明るいから、怖さが消えるわけではない。
むしろ、明るい分だけ、危うさが目立つ。
ブランはアズルの腕に、しがみつくように寄り添った。
「……離れない」
「離れないのはいいけど、もう少し……」
言いかけて、アズルは黙った。
言葉で引き剥がすのは、管理に似てしまう。
ブランは顎を上げて、当然のように言った。
「だって、ブラン、ここで一人になるの嫌だもん」
その声音には、甘えが混ざっている。
甘えられる側の罪悪感も混ざる。
ルージュが、わざと大きく咳払いをした。
「……ブラン。腕、折れるわ」
「折れない」
ブランはきっぱり言って、さらに密着する。
ヴェールは困ったように微笑んだ。
「うん。怖いよね。……でも、きっと大丈夫」
“きっと”という言葉は、本来なら不確かさを含む。
けれどヴェールが言うと、それは押し付けにならない。
信じろではなく、待てる形になるからだ。
ノワールは、何も言わない。
ただ、アズルの反対側、ブランが寄り添っていない腕の側に、いつの間にか立っていた。
守るための立ち位置。
奪わないための距離。
案内役の女官が現れ、深々と頭を下げた。
「新国王陛下より。こちらへ」
その言い方は丁寧で、必要以上に敬っていない。
廊下を進む。
重い絨毯。
静かな足音。
アズルは、背中の汗を感じた。
戦闘の汗ではない。
言葉の汗だ。
◇
通された部屋は、想像していたものと違った。
玉座の間ではない。
会議の間でもない。
小さな応接室。
窓があり、外の庭が見えた。
扉は閉まっていない。外に兵の気配はあるが、部屋の中にはいない。
――囲われていない。
その事実だけで、アズルの肩の力が少し抜けた。
部屋の中央に、若い王女が立っていた。
昨日まで王女。
今日から王。
彼女は豪奢な冠を被っていない。
王の色を誇示する外套もない。
しかし、その背筋は、誰よりも真っ直ぐだった。
「勇者アズル」
彼女は名前を呼ぶ。
称号を付けるが、重ねない。
「そして――ブラン」
ブランの名を、彼女ははっきり発音した。
ブランは腕にしがみついたまま、目だけで王女――いや、王を見上げる。
王は微笑まなかった。
けれど、冷たい顔でもない。
そこにあるのは、判断ではなく、観察だった。
「今日は、結論を出す場ではありません」
王は最初にそう言った。
「和平を決めるためでも、敵と断ずるためでもない」
アズルが息を吸う。
これは“決める場”ではない。
決めないと先に宣言する。
それは逃げにも聞こえる。
だが同時に、余白を残す姿勢でもある。
「ただ――事実を聞きたい」
王は椅子に座らず、立ったまま言った。
「ブラン、と言いましたね」
ブランが小さく頷く。
「今、魔族の統治はどうなってますか」
いきなり核心。
いきなり魔王の娘に、魔族の現状を問う。
ブランは瞬きをした。
そして、少しだけ口を尖らせる。
「……統治って言い方、むずかしい」
子どもみたいな言い方。
だが次の瞬間、ブランの声の色が変わった。
幼さの奥から、当事者の目が出る。
「お父様――魔王が死んでからは、四天王を中心に各地でばらばらに勢力を強めてます」
淡々と。
「次の魔王になるために、みな必死です」
王は頷いた。
「四天王……刈り取りの将も含め?」
ルージュがわずかに眉を動かした。
アズルは、記憶の中の影を思い出す。
刈り取りの将――グラート。
ブランは頷く。
「うん。みんな、世界の安定が好き。だから、安定のためなら何でもする」
その言葉が、部屋の空気をひやりとさせた。
安定。
善意。
管理。
昨日失脚した王が欲したものと、似た響き。
王は、すぐに次の質問を投げた。
「ブラン。お主は、魔王にはなろうとは思わんのか」
アズルがブランの腕に視線を落とす。
ブランは、迷わなかった。
「はい」
短い。
「私は魔王にも魔族統一にも興味ありません」
さらに、間髪入れずに続けた。
「アズルと結婚するのが望みです」
部屋の空気が、吹き飛んだ。
「お、おい……!」
アズルが声を上げる。
反射だ。
ルージュが指を鳴らすように杖を指先で叩いた。
「……アズル。あとで説教ね」
ヴェールは頬に手を当て、困った笑み。
「うん。落ち着いて、順番に話そう」
ノワールは無言で、アズルの横顔を見た。
視線だけで刺す。
ブランは悪びれない。
「だって、望みだもん」
「望みの話を今するな」
「する」
即答。
王は、それを止めなかった。
止めれば管理になる。
笑えば軽くなる。
彼女はただ、淡々と頷いた。
「よかろう」
その一言で、空気がもう一段変わった。
アズルは目を見開く。
王は続ける。
「今回の報酬には、アズルと住む家を設けよう」
「ほんとうか!」
ブランが跳ねる。
「え、あ、え?」
アズルが言葉を失う。
ルージュが目を細めた。
「……随分と、具体的ね」
ヴェールが小さく首を傾げる。
「報酬が家……珍しい」
ノワールは、何も言わない。
だが、肩の力が抜けたように見えた。
王は、そこで初めてほんの少しだけ口元を緩めた。
「望みには、形がある方がよい」
それは夢想ではない。
押し付けではない。
望む者がいる。
ならば形を用意する。
王の役目の一つ。
だが、王はすぐに続けた。
「しかし、条件がある」
部屋が静まる。
ブランの指が、アズルの袖を強く握った。
「魔族を統一してみせよ。それが条件じゃ」
アズルの心臓が跳ねた。
――管理。
口に出す前に、脳内で警鐘が鳴る。
アズルは、剣に触れずに言った。
「王女……いえ、陛下」
呼び方を整える。
「魔族と和平を結ぶ気がありますか?」
王は、即答しなかった。
この沈黙は、引き延ばしではない。
結論を先に置かないための沈黙。
「いまはわからん」
王は素直に言った。
「じゃが、戦争がなくなるなら、それもよかろう」
ルージュがわずかに頷く。
“賛成”と言わない。
“反対”とも言わない。
結論を持たない。
だが、戦争を終わらせたいという方向性だけは、はっきりしている。
ブランは唇を噛んだ。
その表情は、迷いではなかった。
覚悟の作り方を探している顔。
「……やります」
ブランが言った。
アズルが目を向ける。
「ブラン」
ブランはアズルを見上げた。
「アズルと暮らすためならやります!」
声が少し大きい。
「子供欲しいし」
最後の一言が、爆弾だった。
「ちょ……!」
ルージュとヴェールとノワールが、ほぼ同時に声を上げた。
「アズルー」
三人の声が重なる。
アズルは両手を上げた。
「いや、俺は、その……」
言い訳の出口が見当たらない。
王は、その混乱を眺めた。
眺める。
それだけ。
管理しない。
そして、王は静かに宣言した。
「よし、決まりじゃ」
アズルが言い返そうとして、止まる。
決まり。
決まるのは早い。
早いが、押し付けではない。
ブランが選んだ。
王が条件を出した。
アズルが問いを投げた。
その全部が場の中で交わった。
「準備次第、旅に出よ」
王の言葉は命令の形だ。
だが、それは軍を動かす命令ではない。
“始めるための言葉”。
王は、そこで一つ息を吐いた。
「もう一ついいか。アズル」
部屋の空気が少し締まる。
アズルは頷いた。
「? はい」
王は、まっすぐアズルを見る。
「お主は……世界平和を望むか」
突然、遠い言葉。
アズルの胸の奥が、微かに疼く。
世界平和。
勇者として掲げてきた言葉。
けれど、それは時に人を急がせる。
アズルは、ゆっくりと答えた。
「……望みます」
ただし、と続けたい。
“望む”は、“決める”ではない。
アズルは言葉を選ぶ。
「でも、それを理由に誰かを縛るのは、嫌です」
王は頷いた。
「よい」
短い承認。
その承認は、同意ではない。
場の維持。
余白の維持。
対談は終わった。
終わり際、王はブランに目を向ける。
「ブラン」
「なに?」
「家は、すぐに用意させる」
「やった!」
ブランの声が弾む。
アズルが額を押さえた。
「家って……家って……」
ルージュが肩をすくめる。
「王都の家。逃げ場が多くていいじゃない」
ヴェールが優しく笑う。
「うん。……居場所は、居場所だもんね」
ノワールは一言だけ呟いた。
「……住むなら、鍵は私が作る」
「鍵は……ありがとう」
アズルは返しながら、自分が既に“生活”の話をしていることに気づき、混乱する。
王城の廊下へ出る。
扉の外の兵は、視線を逸らした。
見張っていない。
監視していない。
ただ、そこに立っている。
王都の風が、窓から入り込む。
アズルは息を吐いた。
結論は出ていない。
和平も、戦争も、魔族統一も。
でも。
場は開いた。
そしてブランは、またアズルの腕にしがみついた。
「ねえ、アズル」
「なんだ」
「家、どんなのがいい?」
その問いは、未来の形を先に触ってしまう問いだった。
アズルは困った。
困ったが、逃げなかった。
「……窓が多い家」
そう答えた。
窓が多い家なら、余白が残る。
閉じ込められない。
ブランが嬉しそうに笑う。
「うん。ブランもそれがいい」
ルージュが歩きながら呟く。
「……次は魔族側が動くわね。四天王。面倒くさい」
ヴェールが頷く。
「でも、急がせない」
ノワールが静かに言う。
「急がせたら、同じになる」
アズルは剣に触れず、前を見る。
世界平和。
望む。
だが、望みを盾にしない。
この王都で、今度は“選ぶための旅”が始まろうとしていた。




