↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
魔王を倒した後に始まる物語  作者: にめ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

112/159

memory 110 勝つ者は決まる。終わる者は決めない

# 第110話本文


 忍びの里の朝は、静かに始まる。


 煙が細く立ちのぼり、湯気が屋根の下をすべる。木桶の水が揺れる音、誰かが包丁を置く音、子どもの笑い声――それらはどれも「暮らし」の音なのに、不思議と遠く感じた。


 アズルは歩きながら、目線の置き場に困っていた。


 見られている。


 追われているわけでも、囲まれているわけでもない。それでも、視線が肩に触れて離れない。角を曲がった瞬間、屋根の上から気配が降りてくる。井戸の陰、梁の上、路地の奥。どれも「そこにいる」だけで、何もしない。


 歓迎されている。


 それが、なおさら落ち着かない。


「案内……してくれる人、いないんだね」


 ヴェールが小さく言った。息をひそめるような声だった。


「こちらが勝手に入ってきた形だ。迎えないのが礼儀なんだろ」


 アズルがそう返すと、ルージュが鼻で笑った。


「礼儀って言うより、試験官が机に向かわせる前の顔ね。『勝手に座ったなら、書きなさい』って」


 その言い方に、ヴェールが苦笑し、アズルは肩をすくめた。


 忍びの里は、説明しない。決めさせない。押さない。だからこそ、黙っているだけでこちらの足元が揺らぐ。


 ノワールは――。


 アズルは無意識に、倒木の影や、足元に落ちた砂の向きを見た。塩の粒の散り方。水たまりの端に残る細い跡。


 気配はある。だが、姿は見えない。


 それでも、どこかで「彼女がいる」ことだけはわかる。


 里の中心へ向かう道は、自然にひらけた場所へつながっていた。


 土が固められた円形の地面。周囲を低い柵が囲み、上には屋根がない。空がそのまま天井になっている。


 訓練場――いや、裁定の場。


 すでに人が集まっていた。忍びたちが、等間隔に立っている。ざわめきはない。声もない。ただ、息の出入りだけが薄く重なっている。


 その中央に、長老がいた。


 強そうには見えない。


 背丈は低く、老いた体の線は細い。杖も持っていない。威圧もない。ただ、その場に座り、そこにいる。


 それだけで、空気が揃う。


 長老の右隣――特別席がひとつ、空いているように見えた。


 いや。


 空いていなかった。


 そこに、ノワールがいた。


 その瞬間、アズルは息を止めた。


 いつもの黒装束ではない。


 白に寄った衣が、彼女の輪郭を柔らかく見せていた。薄い生成りの布が肩から腕へ落ち、胸元には細い刺繍が走っている。動きやすさよりも、整えられた線を優先した衣装だ。忍びの機能を捨てて、儀礼のために作られたもの。


 白――ただの白ではない。灰の混ざる白。光を吸って、目に痛くならない白。


 それが、里の土の色と、木の色に溶けている。


 ノワールの髪はいつもより丁寧にまとめられ、黒い髪留めではなく淡い紐で結ばれている。首元には飾りがひとつだけ。派手ではないのに、目が離れない。


 まるで。


 まるで、嫁に出される側の装いだ。


 説明はいらなかった。


 忍びたちの視線が、ノワールを経由してアズルへ向く。敵を見る目ではない。仲間を見る目でもない。


 未来を見る目。


 ルージュが、息を呑む音がした。


「……嘘でしょ」


 小さな呟きが、風に紛れる。


 ヴェールも、言葉を失っていた。驚きと、純粋な美しさへの感嘆が、目に浮かぶ。


「ノワール……」


 ヴェールの声は、どこか祈りに似ていた。


 ルージュは、唇を噛んだ。


 美しい。


 それを認めたくないのに、目が認めてしまう。自分の胸の奥が、ちくりと刺されるように痛む。


 取られる。


 意味のない不安だとわかっているのに、その白い衣装が「席」を与えられていることが、どうしようもなく腹立たしい。


 アズルが、そこへ立たされる。


 そんな未来が、ほんの一瞬で形を持ってしまう。


 ルージュは、拳を握りしめた。


 長老が、ゆっくりとこちらを見た。


「勇者よ」


 声は枯れていない。強くもない。だが、耳に残る。


「この里は、お前たちを拒まぬ」


 アズルは、頭を下げず、ただ視線を返した。


「だが、迎えることもせぬ」


 ルージュが、肩で息を吐いた。ヴェールは静かに頷く。


 迎えられない。


 それは、ここで守られないという意味だ。


 長老の目線が、ノワールへ滑った。


「ノワールは、次を継ぐ者だ」


 その言葉に、里の忍びたちはわずかに気配を揃えた。儀礼の確認のように。


 ノワールは笑わない。


 表情は静かで、目はまっすぐ前を見ている。膝の上で組まれた指が、ほんの少しだけ動いた。


 長老が続ける。


「外へ出ていく理由も、中に留まる理由も」


 間。


「ここでは、同じ重さで量る」


 アズルは、頷きもしない。否定もしない。


 正しさが、止めに来る。


 それがどれほど厄介か、彼はもう知っている。


「条件は?」


 アズルの声は低かった。


 長老は、ゆっくりと口角を上げたようにも見えた。笑いではない。理解の形。


「一対一」


 周囲の忍びの気配が、わずかに動いた。


「お前と、里が選んだ忍び」


 長老の視線が、場の端へ向く。


 そこから一人、忍びが歩き出した。青年とも壮年とも取れる、無駄のない体。目が冷たいわけではない。感情が見えない。


 アズルは剣に手をかけた。


 抜く。


 ここで抜かないのは、拒否になる。


 剣は、嘘をつかない。


 鞘から滑り出た鋼が、日差しを拾った。


「勝敗は問う」


 長老の言葉が、空に落ちる。


「生死は問わぬ」


 さらに、間。


「勝て」


 そして。


「だが、終わらせるな」


 その瞬間、ルージュの背筋が冷えた。


 勝て。


 終わらせるな。


 矛盾のようで、矛盾ではない。


 ここでは、その二つを同時に成し遂げる者だけが「正しく戻れない者」として扱われるのだ。


 アズルは、息を吐いた。


「わかった」


 それ以上、言わない。


 理由も、正しさも、彼は語らない。


 語った瞬間、里の正しさに絡め取られる。


 忍びが構える。


 アズルも構える。


 風が、訓練場の土を撫でた。


 ――始まる。


 忍びが消える。


 消えたのではない。速すぎて、目が追えないだけだ。


 アズルは足を動かさない。重心を落とし、視界の端で気配を拾う。


 右。


 刃が来る。


 アズルは剣を横に滑らせて受けた。金属が擦れる音が短く鳴る。忍びは当てに来ない。切りに来ない。触れて、崩しに来る。


 次。


 背。


 アズルは半歩だけずらし、剣で空を切った。


 そこへ、足が払われる。


 ルージュが思わず声を上げかけて、喉で止めた。


 アズルの足が浮く。


 倒れる。


 ――倒れない。


 膝を土につける寸前、アズルは剣先を地に突いて体を支えた。剣が支柱になり、体勢が戻る。


 忍びは驚かない。


 ただ、さらに速くなる。


 アズルは追わない。


 追った瞬間、引き込まれる。


 彼は「読み合い」に入らない。


 判断をやめる。


 勝つための判断ではない。


 終わらせないための判断だ。


 忍びの刃が、アズルの肩をかすめた。


 薄く血がにじむ。


 ヴェールが、指を動かしそうになって止めた。支援は禁じられている。彼女は祈るように目を閉じ、また開く。


 ルージュは、歯を食いしばった。


 ――負けないで。


 その言葉が、自分の中で燃えるのが悔しい。


 ノワールは、長老の隣で静かに座っている。


 白い衣装の膝の上で、指を組んだまま。


 だが、その指先がわずかに震えているのを、アズルは見ない。


 彼は、目の前だけを見る。


 忍びが、踏み込んだ。


 今度は正面。


 刃が一直線に来る。


 アズルは受けない。


 剣を斜めに滑らせ、相手の刃を「逸らす」。そのまま半歩前へ。忍びの体がわずかに開いた。


 ここだ。


 アズルの剣が、忍びの喉元へ。


 止まる。


 紙一枚分の距離で、剣先がぴたりと止まった。


 刃は震えない。


 アズルの腕も震えない。


 忍びは動かない。


 殺せる。


 だが、殺さない。


 その選択が、空気を変える。


 忍びが、わずかに息を吐いた。


 負けを認めるわけではない。


 ただ、理解したのだ。


 勝敗は、ここで決した。


 それでも終わらせない者が、いる。


 アズルは剣を引いた。


 忍びが一歩下がり、膝をつく。


 長老が、短く言った。


「よい」


 それ以上はない。


 称賛もない。


 許可もない。


 ただ、裁定の終わり。


 忍びたちは散る。儀礼は終わったかのように、すぐ日常へ戻っていく。


 その速さが、逆に怖い。


 ルージュは、息を吐き、ようやく肩の力を抜いた。


 ヴェールはアズルの肩の傷へ視線を向けたが、手を伸ばす前に一瞬ためらった。


 ここは、管理しない場所。


 彼女の優しさでさえ、管理になりかねない。


 それでも。


 アズルが軽く頷いた。


 許可ではない。拒否しないという合図。


 ヴェールは小さく息を吐き、指先で傷口をそっとなぞった。熱が引いて、血が止まる。


 ルージュは、ノワールを見た。


 長老の隣の特別席。


 白い衣装。


 座らされているのに、拘束されていない。


 ノワールは立ち上がった。


 その衣装の裾が、土を払うように揺れる。


 目線が、アズルへ。


 ほんの一瞬だけ。


 そして、すぐに逸らす。


 ルージュの胸が、またちくりと痛んだ。


 ――奪われる。


 そんなはずはないのに。


 自分が、こんなことで揺れるなんて。


 日が傾き、里に灯がともる。


 夜。


 宴の準備が始まった。


 鍋の匂いが漂い、木の器が並ぶ。笑い声は控えめで、騒がしくはない。勝利を祝うでも、敗北を悼むでもない。


 儀礼。


 正しく戻れない者が一人増えたことへの、儀礼。


 屋根のある広間に、アズルたちは通された。


 ここからが、解禁だ。


 ルージュは自分に言い聞かせる。


 屋根の下なら、心が少しだけ軽くなる。


 だが、軽くならない。


 ノワールが、白い衣装のまま宴の場に現れたからだ。


 忍びたちは誰もからかわない。


 誰も祝福しない。


 当たり前のように、彼女の前に器が置かれ、席が用意される。


 ヴェールが小さく息を呑んだ。


「……綺麗」


 思わず漏れた言葉。


 ルージュは、同じ言葉を胸の中で噛み潰した。


 綺麗。


 認めたくない。


 でも、認めてしまう。


 アズルも、視線を向けた。


 ほんの一瞬。


 それだけで十分だった。


 ルージュの中に、熱が立つ。


 取られる。


 取られるわけがない。


 それでも、「特別席」と「白い衣装」が、そう錯覚させる。


 宴は淡々と進む。


 里の酒は強くはないが、甘くもない。舌に残るのは、木と土の匂いだ。


 アズルは多くを話さない。


 忍びたちも多くを話さない。


 それでも、不思議と居心地が悪くない。


 終わらせない。


 それがこの里の礼儀だからだ。


 宴の途中、ノワールが席を立った。


 誰も止めない。


 しばらくして、アズルの視界の端に影が動く。


 手招き。


 ノワールだ。


 アズルは器を置き、立ち上がった。


 ルージュが反射的に彼の袖を掴みそうになって、手を止めた。


 掴めない。


 掴んだ瞬間、自分が「管理する側」になる。


 彼女は、笑ってみせる。


「……行ってくれば?」


 声は平静を装っていた。自分で自分の声が怖い。


 アズルは一度だけ頷き、広間を出た。


 縁側。


 屋根の影。


 灯りが届かない場所に、ノワールが立っていた。


 白い衣装が、夜の暗さの中でぼんやり浮かぶ。昼の白とは違う。月に近い白。


「……勝ったね」


 ノワールが言った。


「勝った」


 アズルは短く返す。


 ノワールは、目を細めた。


「殺さなかった」


「……約束されてたからな。生死は問わないって」


「違う」


 ノワールは首を振る。


「それは、里の条件。あなたの条件じゃない」


 アズルは黙った。


 言い訳をすれば、軽くなる。


 軽くしたくない。


 ノワールは、衣装の裾を指でつまんで、小さく揺らした。


「ねえ」


 少しだけ声が低くなる。


「……これ、どうだった?」


 アズルは答えを探して、困った。


 綺麗だ。


 似合ってる。


 そんな言葉は簡単だ。


 でも、簡単に言っていい種類のものじゃない。


 この衣装は、誰かに「置かれた」ものだ。


 未来に。


「……似合ってる」


 結局、アズルはそう言った。


 ノワールの頬が、ほんの少しだけ赤くなる。


「そっか」


 その一言が、驚くほど普通の女の子だった。


 そして。


 彼女は、目を逸らさずに続ける。


「じゃあさ」


 小声。


 忍びが本気で秘密を言う時の声。


「強い人の子供、作れるね」


 アズルは、咳き込みそうになって耐えた。


「……急に何を言ってる」


「合理的でしょ」


 ノワールは平然としている。


「里の人たちはね、血を残すのが正しいって思ってる」


 そして、少しだけ口元を緩める。


「でも私は、里の正しさじゃなくて……」


 言葉が途切れる。


 夜風が、縁側の灯りを揺らした。


 ノワールは咳払いをして、ふっと笑う。


「冗談」


 間。


「……半分は」


 アズルは、ため息のような息を吐いた。


「半分が一番困る」


 ノワールは肩をすくめる。


「困ればいい」


 忍びらしい。


 強気で、逃げない。


 そして、どこかで怖がっている。


 アズルは、縁側の柱に手をついた。


「今日の勝負で、何が決まったんだ」


 ノワールは目を伏せた。


「勝者が決まった」


「それだけ?」


「……命を奪わなかったことも」


 ノワールは小さく息を吸い、吐く。


「里はね、正しく戻れる人が好きなの。正しい勝ち方をする人」


 白い衣装が、夜の闇に沈む。


「でも、あなたは正しい勝ち方をしなかった」


 それは、責めていなかった。


 むしろ。


 どこか、救われたみたいな声。


「……嬉しかった?」


 アズルが問う。


 ノワールは、鼻で笑った。


「ばか」


 それだけ。


 短い言葉に、全部が入っていた。


 嬉しい。


 怖い。


 決めたくない。


 それでも、決める。


 遠くで、宴の笑い声が聞こえる。


 屋根の下。


 ラブコメが許される場所。


 だが、ここで交わされた言葉は、笑いだけでは終わらない。


 アズルは、もう一度だけノワールの衣装を見た。


 白。


 未来に置かれた白。


 それを、彼女が自分で脱ぐ日が来る。


 あるいは、自分で着続ける日が来る。


 どちらにしても。


 背中は押さない。


 押させない。


 ノワールが、自分で選ぶ。


 それが、この旅のルールだ。


「戻ろう」


 アズルが言う。


 ノワールは、頷いた。


「うん」


 そして、付け足す。


「……明日も、勝ってね」


「もう勝負は終わった」


「違う」


 ノワールは目を細める。


「勝負は、これから」


 アズルは返事をしなかった。


 返事をした瞬間、何かが決まってしまう。


 決めない。


 終わらせない。


 里の正しさと、旅のルールが、同じ方向を向いた夜だった。


 宴の灯りの中へ戻ると、ルージュがこちらを見た。


 笑っている。


 笑っているのに、目が笑っていない。


「……遅かったじゃない」


 軽い声。


 でも、その軽さが、逆に刺さる。


 ヴェールがその空気を柔らかくするように、器を差し出した。


「お酒、少しだけ。傷に響かない程度にね」


 アズルは受け取った。


 ルージュは、ノワールの白い衣装をちらりと見て、目を逸らした。


 綺麗だ。


 悔しい。


 そして――。


 その悔しさが、自分の中に「想い」があることを、認めさせる。


 屋根の下。


 笑いが混じる。


 だが、誰も正解を口にしない。


 勝った。


 殺さなかった。


 それだけで十分だ。


 正しく終わることは、ここでは選ばれない。


 灯りは揺れ、酒は巡り、忍びの里の夜は静かに更けていった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。