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第七話 散華

居間の隅で存在感を放つ大きな振り子時計が、もう三時を回ったことを告げる。油が切れているのか、扇風機は首を振るたびに今にも壊れそうな音を出していた。築何年になるかわからないこの家には当然のごとくクーラーなどという文明の利器はない。昔ながらの風通しに優れた和室を走り抜ける風も、最近は海の湿気を吸ってじめじめしている。そんな時には、この壊れかけの扇風機を使うか、風鈴に耳を傾けて気分だけ涼むことしかできないのだ。

史恵ふみえは看護師の仕事の関係でどうしても一旦帰らなければならなかった。暗い空気が嫌いな絵美えみは、美波みなみ奏海かなみを何とかして悲しみから遠ざけようと若干無理をして笑い話をし続けた。

気を遣ってくれなくてもいいですよ、と美波が口にしようとした時、ぼんやりとしたままの鶴子つるこが居間に出てきた。


『私は明日戻ってくるけど、それまで守ってほしいことがある。お母さんに対して死を連想させるような話は絶対しないように約束してほしい』

美波の心の中を、病院へと戻る直前の史恵の声がよぎった。

「あ、おばあちゃん。おはよー。今日はずっと気持ちよさそうに眠ってたね」

「いつもどおり起きたつもりなんだがな。お、絵美か。また久しぶりだな」

「うん。お母さんは元気にしてた?」

「まずまずだよ」

「そう、それは良かったよ。それと、お土産あるよ」

絵美はちゃぶ台の下に置いてあった紙袋を差し出した。袋には都内の老舗和菓子屋のロゴ。絵美は毎回この店のお菓子を持ってくる。他の店のあんことの微妙な甘さの違いがわかるほど何度も。

「またここのお菓子かい。東京には他の店はないのかね」

鶴子の反応もいつも同じ。毎度飽きたような口を聞くが、お菓子はしっかり受け取る。それをわかった上で、絵美もこの店以外のお菓子は買ってこない。

美波は、二人のこういったやり取りが好きだった。なかなか素直にならない鶴子に、それを楽しむようにおみやげを持ってくる絵美。そんな絵美と話す鶴子は少し微笑んでいるように見えた。美波は、鶴子の優しい表情を久しぶりに見たような気がした。それだけで今までの悲しみとか不安とか、そういったものが一気に吹き飛んだように思えた。

「絵美、スイカはまだ残っているのかい?」

「野菜室の奥の方に入れてあるよ。あ、美波ちゃん、もう一つ食べていいからお母さんに切ってあげて」

「じゃあ、みんなに小さいの一つずつ切ってくるね」

「美波、私も手伝います!」

わしがやる、と言うように鶴子も膝を立てようとした。

「まぁまぁお母さん。今はかわいい子たちに任せておこうよ」

「そうか。だが、わしもまだそんな歳じゃないんだがな」

「うん。そうだね……」

鶴子がどういう意図で言ったのか、絵美には分からなかった。本当にそう思っていたのかもしれないし、あるいは何かを暗示していたのかもしれない。鶴子は遠い目をしながら庭のほうを眺めている。美波が生まれたと同時に植えた木には毎年元気な蝉がたくさんとまる。鶴子が庭に穴を掘り、そこに美波の両親が小さな苗をそっと植えた。鶴子は、ふと蘇った記憶を懐かしそうに眺めていた。

「ねえお母さん」

「……」

「お母さん」

「どうしたんだい」

「いや……やっぱり何でもない」

鶴子は再びぼんやりと、まるで空中に何かが浮いているかのように一点を見つめ始めた。絵美にとっては、鶴子のこういった一つ一つの兆候が胸に突き刺さるように辛く感じられた。

「おばあちゃん、絵美さん、おまたせー」

「スイカ切れました!」

「お! ありがとうー!」

絵美は何もなかったようにわざと元気に振る舞った。姪っ子たちを決して悲しませないように。鶴子は果実をほどくようにスイカを頬張った。本当に甘さを感じているのだろうか。誰にも分からない。

これが鶴子にとって最後のスイカだった。


お盆を過ぎてすぐ、魂を失った鶴子を最初に発見したのは史恵ふみえだった。史恵は毎朝6時に、鶴子の体温と、病院から借りてきた簡易式の血圧測定器で心拍数と血圧を確認していた。その日の朝も同じように体の状態を確認しようと部屋に向かったのだった。

看護師としてそれなりのキャリアを積んできた史恵には、寝顔と死に顔の微妙な違いが分かった。なんとなくだが、亡くなった人の表情には顔全体の筋肉の弛緩が見出だせるのだ。魂ある者には決して再現することのできない表情。だから、史恵は部屋に入った瞬間にいつもとは違う空気を感じた。

異常に低い体温、動かない心拍。目の前の止まったままの機械を疑いたくなった。人の死は何度も見てきたはずなのに、人が死ぬということが今は信じられなかった。

史恵は、自分を育ててくれた手を強く握りながら声を上げて泣いた。シワだらけの固くて大きな手にもう温かみはない。幼い頃、転んで膝を擦りむいた時に、泣き止むまで抱きしめたくれた腕も二度と動かない。美波から見ればしっかりした大人でも、鶴子の前では泣いてばかりだった。親を前にして子供以外の何かになれる人なんて一人もいないのだ。

史恵は手を合わせた。すんなりと手を合わせると、死という事実を認めてしまうようで抵抗があった。でも、何もせずに部屋を出て行くことなどできなかった。目を閉じて、震える手を鶴子の上で合わせた。最後に涙を拭って、三人を起こしにそれぞれの寝室へと向かった。


「みんなに大事な話がある」

居間に集まった三人に向かって、史恵は目を赤く腫らしながら話し始めた。

「お母さんが……死んだ……」

蝉の声がどんどん大きくなっていく。真っ白な雲が幾重にも重なり合い、空に重い蓋をしているように見えた。

誰も口を開かない。絵美はそれが現実と信じていないように史恵の目を見つめ続け、美波の頬には涙が静かに流れた。

「お母さんの部屋に行こう……」


布団で眠る鶴子にみんなで手を合わせた。仏のような不思議な表情で安らかに眠っている。きれいな死に顔だった。そんな顔を見ていると涙が止まらなかった。美波や絵美には、鶴子が今にも目を覚ましそうに見えたからだ。

奏海は布団から一番離れた位置に座っていた。正座しながら畳の一点を見つめている。四人の中で泣いていないのは奏海だけだった。ともに過ごした月日の浅さに、泣いていいのか分からなかった。本当は今にも涙が出てきそうだったのに。

無言の中、美波はゆっくりと顔を上げた。そのまま、涙をためながら史恵を睨みつけた。

「ねえ史恵さん……。おばあちゃんの体調が悪くなった時、どうして入院させなかったの?」

「あのね、美波ちゃん……」

「あのね、じゃない! おばあちゃんは死んじゃった! もう帰ってこないのに!」

「だから話を聞いて……」

理由を話そうとする史恵を無視して、美波は問い詰めるように叫んだ。

「史恵さんがうちに来てすぐにおばあちゃんを入院させれば、間に合ったかもしれない! それなのに……それなのに……」

美波は崩れ落ちるように泣いた。間違っている、そう頭では理解していても、この悲しみをどこにやればいいのか分からない。行き場のない思いが涙とともに溢れ落ちた。

そんな美波を、史恵はそっと抱きしめた。割れ物を扱うように優しく、だけど力いっぱい抱きしめた。

「ちゃんと言ってなくてごめんね。老衰で弱っている人に医療行為を施すと、肺炎とかにかかりやすくなっちゃうんだ。それに、私はお母さんの意思を尊重したかった」

「おばあちゃんの意思……?」

これを見てごらん。そう言って史恵はボロボロになった一枚のメモを差し出した。

それは確かに鶴子の字で書かれていた。たった三行のメモ。罫線を無視して力強く書かれたそのメモを四人は取り囲むようにして読んでいった。

「最期はこの家で迎えたい」

「タンスの奥の桐の箱に遺書を入れてある。二重底だから注意すること」

「わしが死ぬまでこのメモは隠しておいてくれ」


遺書は朝ごはんを食べてから探すことになった。みんな食欲なんて湧かなかったけれど、しっかり完食した。生きていることを実感するために、いつも以上にご飯を噛みしめた。

もっと腹いっぱいお食べ。食べれば幸せになれる。美波は、そんな鶴子の声が聞こえたような気がした。


第七話「散華」


おわり













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