第六話 波の綾
奏海の提案で二人は砂浜を散歩していた。 子供連れやサーファーでにぎわう人気の浜から少し離れたところにあるため人もまばらで、目に入るのは打ち上げられた海藻か犬と遊ぶ老人くらいだった。
美波は家を出てからずっと奏海の表情をうかがいながら歩いていた。自分のことのように悲しいと言っても、やっぱり自分のことではないから奏海の気持ちをすべて理解することはできない。
奏海の話を聞くうちに美波の心の中で徐々に罪悪感が占める領域が大きくなっていった。やっぱり奏海と一緒に戦わないといけないのかもしれない……。
話を聞く限り、竜渦は奏海では勝ち目のなさそうな敵だ。二人で協力すればそんな敵でも倒せるのだろうか。
奏海の体を傷つけた人間。澪を殺して奏海の心を傷つけた人間。美波も自覚していないほどであるが、竜渦に対する怒りが確実に大きくなっていた。
家を出てから二人は言葉を交わさなかった。お互いの気持ちを気遣っているのか、あるいは変に話して空気を重くしたくないのかもしれない。
またしばらくあてもなく歩いて、また止まって。波打ち際で海を眺める美波と、その後ろでぼーっと貝殻を拾う奏海。平行線のように見える二人も、遠くの方でちゃんと交わっている。
美波も腰を下ろした。目を合わせないようにわざと背中を向けたまま口を開いた。
「奏海。ちょっと考えてみたんだけど……」
「はい……」
「勾玉だけ竜渦にあげて、海の子は他のところで暮らすっていうのはダメなの?」
確かにこれなら相互の要求を満たしているのかもしれない。命が奪われるくらいならみんな他のところに引っ越してしまえばいい、と美波は考えた。
しかし奏海は小さく首を横に振った。
「勾玉は私達の命を保つのに必要だからです」
「でもそれって陸に上がる時でしょ?」
「海の中もです……。海の中にいる時も勾玉がないと息ができなくて溺れちゃいます」
私達の命ってどこにあるんでしょうか、と奏海は遠くを見ながら言った。
「海の子なのに溺れ死ぬって馬鹿みたいですよね。あ、ごめんなさい。せっかく美波が一生懸命考えてくれたのに」
美波は、海の子に振りかかる運命の重さに目を瞑りたくなった。話を聞くだけでも心が痛いのに、それを体と心一つで抱え込む奏海の気持ちなんて想像できなかった。
落ち込んだような表情の美波を見て、奏海は前向きな話を必死で探した。
「あの美波。『波の綾』って知ってますか?」
「なにそれ?」
「波が何層にも重なって織物みたいに見えるっていう言葉です!」
「そうなんだ。綺麗な言葉だね」
「私この言葉大好きなんです!」
「そうなの? どうして?」
「なんだか人も海も同じだなあって思えるからです。何回も波が打ち寄せるみたいにいろんな出来事が起こって……」
奏海は美波の隣に微妙な距離をあけて座った。「岸へ向かう波と沖へ帰る波がぶつかり合ってまた新しい波ができますよね。人生もいろんな出来事同士がぶつかり合って、目を逸らしたくなるようなことも起こると思います。でも、過去と今と未来とを長い目で見たら人生はきっと綺麗で美しいものだと思います」
だから私決めました、と奏海は小さな手にぎゅっと力を込めた。
「私もっと強くなります。きっと悪いことばかりが続くなんてことないと思いますし。それに落ち込んでばかりいるなんて、せっかく生きてるんですからもったいないですよね。今まで出会った"みんな"に生かされてる命ですから!」
奏海は美波の手を握って走り出した。ときどき美波の方を振り返りながら笑顔で走った。
でも美波は見逃さなかった。笑っていながらも目は涙で潤んでいて、笑顔もひきつっていたことを。それでも美波は何も言わず、引っ張られるままに走った。ちゃんと二人は分かっていた。美波は、遠回しな奏海の言葉の意味を。奏海は、本当は悲しくて立ち直れてなんかいないことを。
人生、波の綾。辛いことも苦しいことも乗り越えて心は大きくなっていく。砂浜に描いた絵も波に飲まれて簡単に消えてしまうのかもしれない。何度も消されて、何度も描きなおして、人の想いは波に襲われるたびにどんどん強く深くなっていく。だから苦しみを乗り越えた人は美しいのかもしれない。
二人の少女は何も考えずに無邪気に走り続けた。日を受けて輝く波の中に、また一つ大切な想いが溶け込んだ。
「おばあちゃん、朝だよー」
美波がそっと障子を開けると、古びた和室に光が入り込む。それでも鶴子は、美波の声にも差し込む日光にも全く反応せず深い眠りの中にいた。
鶴子の食欲が少なくなってから三週間がたった。前まで美波が起こされていたが、今は完全にその立場が逆転してしまった。
「またあとで起こしに来るね」
鶴子は不思議な世界の中にいた。今までの人生の価値を見出すため、自分以外の存在すべてを消し去った世界の中に。美波には寝ているように見えるかもしれないが、鶴子は現実でも夢でもなくはっきりしない感覚の中でしっかり起きていた。
ここ最近ずっとこんな調子なので、美波も流石に違和感を覚えた。寝ている時間が長くなり、起きていてもぼんやりとして前みたいに大きな声で笑うこともなくなった。
美波は、何かあったらすぐにかけるように、と渡されていた電話帳を初めて開いた。紙同士がくっついて開けにくかったそれには、赤いペンで大きく電話番号が記されていた。美波はその番号を一つずつゆっくり押した。
「あ、もしもし美波です。あの、最近おばあちゃんが元気なくて……。暇だったら仕事終わりに寄って行ってもらえませんか?」
『美波ちゃんか、珍しいね。そういうことなら、今から休みもらって行くよ。多分昼過ぎには着けると思う』
電話の後ろで交わされる事務的な会話。美波でも相手の忙しさが感じ取れたが、ここは何も言わずに来てもらうことにした。
美波は受話器を置いてため息をついた。鶴子の両親の遺影が少し悲しそうな表情に見えた。
久しく仕事をしていなかったインターホンが鳴って、美波はなれない様子で慌てて玄関を飛び出した。
「やっ、美波ちゃん。元気?」
「あ、史恵さん。こんにちは」
「久しぶりー! 美波ちゃん! いっつも同じのだけどお土産持ってきたよ」
「絵美さんもいつもおみやげありがとうございます。とりあえず、中へどうぞ」
ゆっくりと靴を脱ぐのは関東の方の大きな病院で20年以上看護師をしている史恵。白髪交じりの髪に、細いフレームのメガネがよく似合う美波のおばさんだ。とても面倒見が良く、美波はその優しさが大好きだった。
史恵とは対照的に子供のようにどたばたと板張りの床を歩くのは、その妹の絵美だ。服も髪も適当だけど、面白い話をさせれば右に出るものはいない。漫才師になれるんじゃないか、と美波は本気で思ったこともあったが、もちろん本人には伝えなかった。
「美波ー? 誰か来たんですかー?」
玄関の方での賑やかな話し声に、奏海は廊下にひょいと顔だけ出したが、すぐに絵美に見つかってしまった。
「あ、その子が噂の留学生?」
「え? 留学生?」
「お母さんが喜んで電話してきたんだよ。家に留学生が来たって」
「えーっと……」
「確か名前は……キャナミだっけ?」
ようやく美波は、留学生は鶴子の言い訳だということに気がついた。海の子だとバレるのも面倒なので鶴子に乗っかってごまかしておくことにした。
「あ、そうそう! キャナミちゃん」
何が起こっているのか分からずに固まる奏海を、絵美はじろじろと観察し始めた。
「でも、留学生っていうけど、日本語かなりうまいし、顔も日本人っぽく見えるけど……」
「えっとね、絵美さん。それは……」
「ちょっと二人とも。それより今はお母さんの話」
はーい、と怒られた子供みたいにとぼとぼと和室まで歩いて行った。ところどころ廊下がみしっときしんだ。
鶴子は昼前に一度起きたものの、また眠ってしまった。四人は鶴子を囲むように座り、呼吸で浮き沈みする胸に視線を向けていた。誰一人視線を上げようとはしない。秒針が時を刻む音が沈黙を強調する中、史恵が慎重に口を開いた。
「あのね美波ちゃん。私は看護師だからいろんな人の最期を見てきた。話を聞く限り、おばあちゃんは弱ってきていると思う。たぶん老衰と見て間違いないと思う」
話を聞く美波以上に、史恵と絵美の目がひどく悲しそうだった。いつも頼りにできるお母さん的な存在のおばさんも、鶴子から見れば子どもなのだ。当たり前なことだが、美波は改めてそれを気付かされた。
唇を震わせながら史恵は言葉を続けた。
「これから私と絵美はできる限り休みを取りながらこの家で生活しようと思う。こんなこと言いたくないけど……、万が一が起こるかもしれないってことを頭に入れておいてほしい」
命あるものは必ず死へと向かい、それを妨げることはできない。美波もついこの間までは納得していただろう。ただ、それが自分のすぐ身近での話となると、そんな綺麗事を受け入れられるはずもなかった。
蝉に負けないくらい何度も何度も心の中で叫んだ。無情な時の流れには抗うことすらできなかった。
第六話「波の綾」
おわり




