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第四話 悲しみの濃度


美波は顔にタオルを被せて、縁側で寝っ転がっていた。連日の強烈な日差しで腕や足は小麦色に焼けていて、もう諦めているのか今は日焼け止めも塗っていない。

「美波、私、海の方に行ってきますね」

ドタバタと廊下を走る音が聞こえたと思っていたら、美波は顔に乗せてあるタオルをはがされた。


「眩しっ……、んー? また行くの?」

仰向けになったままの美波に日光が突き刺さる。あまりにも強烈な眩しさで目は半開き。おまけにシャツの下からお腹が少し顔を出している。

「どうしても気になっちゃって」

「そっか。それじゃ気をつけてねー」

「行ってきまーす! あとサンダル借りますねー!」

「はいはーい」

また足音を家中に響かせて玄関へと向かう。サンダルをひょいとひっかけて海へと続く坂道を下っていく。

奏海が家にやってきて二週間が経った。持ち前の明るさで美波とも鶴子とも仲良くなれた。海に行く、と言って朝のうちから家を出るのもこれで三回目だ。

美波は何の心配もなく奏海を送り出した(と言っても縁側で寝っ転がっているだけなのだが)。


「美波。奏海ちゃんはまたどこに行ったんだい」

奏海と入れ違いで鶴子が縁側に腰を下ろした。

「ちょっと散歩してくるだって」

タオルを被せたまま美波はぶっきらぼうに答えた。鶴子は、奏海が海の子だなんて知らないから適当に言い訳しておいた。

そうか、と言い残して、鶴子の足音は和室の奥の方へと消えていく。草いきれと畳にしみこんだお線香の匂い。美波が好きな夏の匂い。


いつもと違ったのはその日の夜のことだった。今までの二回はお昼すぎに帰ってきたのに、夕飯の時間になっても奏海が帰ってくる気配がない。

食卓に並べられた料理の湯気が目立たなくなってきた。切れかかった流し台の蛍光灯は小刻みに点滅していた。


「美波、ちょっと家の周りを見てきてあげなさい」

「わかった……」

砂浜へ続く坂道を全力で走った。網戸から笑い声が溢れる家、煮物の香りが漂う家。今の美波にはそんなものに構っていられる余裕はなかった。

砂浜沿いの国道の長い信号がようやく青になって、美波は砂浜へと駆け下りた。太陽の余韻もあと僅か、海の向こうはもうすぐ闇に飲み込まれようとしている。


「奏海ー!」

砂浜を走り回って探しても奏海からの返事はない。

もしかして奏海は海の国に帰ってしまったのではないか。美波がずっと目を逸らし続けてきた不安が大きくなっていった。それは体の奥からぞわぞわと湧いてきて、胸のあたりを圧迫していった。

美波はついに砂に足を取られてバランスを崩し、その場に座り込んでしまった。

ざあっと押し寄せて、すぐにさあっと引いていく。子供の頃からずっと聞いていた波の音さえも自分を追い込んでいくように感じられた。

やはり人は生まれ育った環境から離れて暮らすことはできないのかもしれない。陸の人間が土から離れて暮らせないように、海の子は水から離れては生きていけないのかもしれない。

横を見れば、そこにはずっと奥まで続く砂浜。前を見れば、他の大陸と繋がっている海。そして嫌でも耳に入ってくるただの音としての波の音。感情のない音。

美波を育ててくれた自然も、今は沈黙の旋律を奏でていた。



「みなみ……、こんなところで寝てたら風邪ひきますよ」

誰かの華奢な手が体育座りで丸まっていた美波の頭を優しく撫でた。涙目の美波が顔を上げると、奏海がなぜか悲しそうに微笑んでいた。周囲には灯りもなく、暗闇にすっかりなれた目でもっても周りがよく見えない。それでも美波はそこに確かな奏海の存在を感じることができた。

「もう帰って来ないのかと思ってた……」

美波は少し赤くなった目を拭った。

「ちょっと色々あったので……」

「何してたの……?」

美波が小さな声で尋ねると、海の様子を見てきただけですよ、と奏海は上を向いて少し誤魔化した。しかし、お腹が空いた美波には、特に深く問う必要性も感じられなかったし、何よりそんな体力はもう残っていなかった。


「とりあえずご飯もあるし帰ろっか」

はい! と元気よく美波の後ろをついていく。奏海は心配させてしまったことを申し訳なく思っているのか、下を向きがちに歩いている。奏海が歩くたびに硬いもの同士がぶつかる音がした。金属のような、それでいてどこかで聞いたことのあるような音。


木造建ての家が立ち並ぶ坂道を登っていく。少し街灯も増えてきて、ようやく日常が戻ってきたように感じられた。

「早く帰らないとお腹と背中がくっついちゃうよ」

「もー美波ったら、そんなわけないですよー」

「でもお腹空いたでしょ?」

美波は、街灯が増えてきてから初めて奏海の方へと振り返った。美波は、奏海の質素な和服の異変に気がついた。

「え? そ、それどうしたの?」

「えっと……」

奏海の和服は至るところが切られたように破れていて、右の袖に関しては肩のあたりからなくなっていた。しかも細い腕には異常なほどの切り傷ができていた。

「危ないことでもしたの」

美波は急に真剣な表情になった。

「い、いえ。そんなわけでは……」

「じゃあその傷は何? どうして腕に切り傷があるの?」

奏海は腕に走った一本の切り傷を和服で隠そうとしたが、隠すための袖はすでになくなっている。よく見ると、奏海の目は泣いたまま寝た後のように赤くはれている。


「何があったのか教えて……。我慢しなくていいから」

美波には、言葉にせずとも分かった。奏海が嘘を付いていること。そして美波に気を使わせないようにしていること。

「これは我慢すべきことです……」

「ちょっとでも楽になろうよ。辛いなら話聞くよ?」

「ありがとうございます。でもきっと、今の美波では私を苦しみから解放できません……」


奏海につられて美波も立ち止まる。頭上の街頭には虫が引き寄せられて、酔っているようにふらふらと飛んでいる。

「だからね、話はいくらでも聞くから……」


この時、奏海の中で何かがぷつんと音を立てて切れた。

「話を聞いたところで美波は私と一緒に戦ってくれないから、何も解決しないじゃないですか! 私は心の支えなんて欲しくないんです!」

そう言い放った瞬間、奏海は自らの言葉を悔やんだ。一滴の涙が美波の頬をつうっと流れたから。

美波の目は光を失ったように、ぼんやりとしていて焦点があっていない。

「そんな風に言わなくてもいいじゃん……」

「あっ……、そういうわけじゃなくて……」

「早く帰ってご飯食べよ」

奏海は、そう言って先を歩き始めた美波の表情を見ることなんてできなかった。言い返すでもなく、逆に怒るでもなく、ひどく悲しそうな目をした美波の表情が、奏海自身を余計に自傷の念へと至らせた。


それから二人は家に着くなりお互いに黙りこんで冷めたご飯を食べた。奏海は当然のことながら鶴子に傷のことを尋ねられた。奏海が適当な言い訳を考えていた時、美波がうまくその場をやり過ごしてくれた。

食べ終わってから奏海は言い訳をしてくれたお礼を言おうとしたが、美波は急いでいるようにお風呂に入ってしまった。結局、奏海はひどいことを言っただけで、謝ることもできずにその日を終えた。自分がすべて悪いのに、謝りたい気持ちはあるのに、あと一歩のところで言葉が出てこない。胸の上に石がずっしりと覆いかぶさっているかのように素直な気持ちを伝えることができなかった。

今日は、珍しく奏海の方が布団に入るのが遅かった。お腹までタオルケットをかけてぼんやりと天井を見ていた。美波は奏海に背中を向けて横になっている。聞こえるのは虫の鳴き声と、美波の不規則な呼吸の音。眠っていないと気づいたが、奏海は声をかけることもできなかった。



翌朝、奏海が目を覚ました時にはもう8時を回っていた。廊下の方から聞こえる掃除機の音に、慌てて布団を畳んで着替え始めた。普段ならもう洗濯機が回っている時間で、奏海が早くパジャマを脱がないといつまでも洗濯できないのだ。

脱ぐパジャマも着るシャツも全部美波から借り物。

奏海はふと昨日の出来事を思い出した。自分の方に非があるのに、美波とはあまり顔を合わせたくなかった。そっと障子を開け、縁側から迂回して居間へ向かおうとした。

「あっ、おはよう!」

奏海が驚いた様子で振り返ると、そこには普段と何一つ変わらない元気な美波がいた。

「お、おはようございます」

「今日はお寝坊さんだね」

「ちょっと昨日の夜なかなか眠れなくて」

「ん? 何か悩みごとでもあるの?」

え、と言葉に詰まる奏海には分からなかった。美波は昨日のことなど忘れた、いやまるで何もなかったかのように奏海に接してくれている。



「もしかして和服がボロボロになっちゃったこととか? 」

奏海は気づいた。美波は決して昨日のことを忘れているわけではない。奏海が自分の言葉で苦しまないように、わざと明るく話しかけてくれていることを。

奏海は、ますます自分を責めたくなった。

「あのっ! 昨日は……ごめんなさい! あんなひどいこと言ってしまって」

必死に気を使わせないようにする美波の口調に、奏海は謝らずにはいられなかった。

「ううん、腕元そんな傷だらけになって奏海も辛かったんだよね。私こそ支えになってあげられなくてごめんね」

「そうじゃなくて……」

「じゃあ、何があったのか教えてくれる? 教えてくれないと支えにもなれないから」

美波は縁側に体育座りで腰を下ろした。美波の背中は、いつもより二回りくらい小さく見えた。


奏海もその横に座り、口を小さく開き始めた。

「私、幼馴染の子が竜渦に殺されるところを見てきたんです……」

奏海の目から光が消えたように見えた。

幾度となく繰り返される残虐な行為。水に漂う幼馴染の血。勾玉の色が目当てのものでないと分かった瞬間に、いらだちながらその場を去っていった竜渦の眼差し。

それらすべてが記憶に強くこびりつき、思い出した途端に溢れ出してきた涙を止めることはできなかった。



第四話「悲しみの濃度」


おわり















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