からっぽの竜
そうして世界はからっぽになった。
楽しい記憶も苦しい記憶も、涙とともに流れ出して。
虚ろになった世界に、河のように悲しみだけが横たわっていた。
竜はかつて居たのに似た洞窟に身を横たえて、微睡んでいた。
悲しみの河が、横たわる竜の身体を浸し、翼に絡みつく。
そんな夢ばかりを、繰り返し見ていた。
何年が過ぎただろうか。
何十年が過ぎたのだろうか。
時折首を伸ばし、近くを過ぎる小さな獣を喰うだけの竜には、分からなかった。
人として生きた頃には、一年があんなに長かったのに。
竜は空を見上げた。
雲一つない、何もない空。
竜はふと、己が人になる前を思い出した。
あの頃も、こうやって空を見上げていた。
世界に意味のあるものなどなく、竜の中には何もなかった。
終わりにしようか。
竜は首を上げた。
翼を伸ばし、軽く動きを確かめた。
竜は身体を浮き上がらせ、洞窟を出た。
眼下に広がる、穏やかな草原を見渡す。
あの人のいない世界だ。
もう二度と戻ってこない世界の、抜け殻。
翼を羽ばたかせ、高く高く舞い上がる。
竜は大きく口を開け、炎を起こそうとした。
世界を呑み込み、自分自身をも焼き尽くす炎を。
その時。
金色の眼に、青い輝きが飛び込んだ。
海だ。
人の言葉で反芻したとき、 竜の脳裏に鮮やかな歓声が響いた。
ああ。
あの人が、生まれて初めて見た海だ。
次から次へと記憶が蘇り、竜の翼が震えた。
苦労の末に辿り着いた氷の国。
ひどい仕事を掴まされ、ようやく生きて帰った日の、麦酒の香り。
老人の夢を叶えるために、三つの山を越えて探した赤い花。
割に合わない魔物退治の後、村人の笑顔を見て笑った、あの人の笑顔。
竜の口からこぼれたのは、炎ではなく吐息だった。
ああ。
あの人が、愛した世界だ。
意味のなかった一つ一つに、愛しい人の愛が息づいて。
竜は、もう一度泣いた。
竜は世界とともに滅ぶことをやめた。
戻らない人の愛に包まれて、竜は洞窟に身を横たえて、微睡んでいた。
閉じた口は、開かれないまま。
投げ出した脚に土が降り、苔に包まれていく夢を見ながら、竜は静かに朽ちようとしていた。
そんな竜のもとを、男が訪れた。




