第60話 ノクスの刻印
影へ潜り込んだ俺は、すぐに移動速度を上げた。
振り返らない。
オースティンが追ってきているかどうかも確認しなかった。
先ほど相手へ与えた印象が神秘的であればあるほど。
ここで綻びを見せるわけにはいかない。
俺は地下第三層に広がる影の中を、高速で移動した。
壁。
石柱。
死体。
十分な大きさの影さえあれば、即座にそこへ乗り移る。
だが、来たときのように無人ではなかった。
地上から、大勢の教会関係者が押し寄せている。
通路に響く足音は、時間とともに増えていった。
「第三小隊は祭壇へ向かえ!」
「治療神官を優先して通せ!」
「地上へ通じるすべての出口を封鎖しろ!」
「不審者を発見した場合は即座に警告! 単独で交戦するな!」
オースティンは、とっくに増援を要請していたらしい。
俺は何度も進路を変えるしかなかった。
聖灯を掲げる神官を避け。
探知術式を設置している執行官を迂回する。
他に選択肢がないときは、誰かの足元にある影へ潜り込み。
その人物の移動を利用して、封鎖線を抜けた。
この状況では、【ドーンの暗影外套】が大きな力を発揮した。
対象の影に留まり、自分から移動しなければ。
【影潜行】中であってもMPを消費しない。
ただし、教会の増援部隊が。
いつまでも俺の行きたい方向へ進んでくれるわけではない。
多くの場合。
一人の影から抜け出し、別の人間の影へ入り直す必要があった。
MPが急速に減っていく。
俺は初級魔力回復薬を一本取り出し、影へ潜ったまま飲み干した。
苦い液体が喉を流れる。
回復したMPが安定するより先に、再び【影潜行】を発動。
突然振り返った神官を避けた。
「右、右!」
妖精の声が、突然頭の中へ響いた。
「そっちに教会の人間が三人いるぞ」
「左にも二人」
「あっ、前の奴は探知魔法まで使えるみたいだ」
「人間の小僧、お前、見つかったら縛られて焼き殺されるのか?」
俺は無視した。
「どうして喋らないんだ?」
「怖すぎて馬鹿になった?」
「さっきの女の前では、ずいぶん偉そうに振る舞っていたのにな」
妖精が俺の横を飛んでいく。
俺はすでに影へ溶け込んでいるというのに。
こいつは正確に位置を把握し、平然とついてきていた。
壁にも。
暗闇にも。
まったく妨げられていない。
「おい」
「どうして【影渡り】なんて役立たずの職業を選んだんだ?」
「お前とノクスは、どういう関係なんだ?」
「さっき助けてくれた影は誰のものだ?」
「それと、お前の変な天賦。どうして私にもまったく分からないんだ?」
次から次へと質問を浴びせてくる。
止まる気配がない。
長時間【影潜行】を維持するうえで最も難しいのは、MPの管理ではないかもしれない。
この妖精を黙らせたいという衝動へ、耐えることだ。
地下第二層を通過するとき。
俺は二本目の魔力回復薬を飲んだ。
その薬も半分以上を消費した頃になって。
ようやくすべての教会関係者を避け、地上へ戻ることができた。
それでも、潜行は解除しなかった。
カラウ通り周辺は、完全に封鎖されている。
鎧を身につけた騎士が、それぞれの通りを塞いでいた。
教会の馬車が次々と道端へ停まり。
さらに多くの神官と執行官を、廃酒場の中へ送り込んでいる。
遠くには、大聖堂所属を示す白金色の旗まで見えた。
増援の規模は、俺の予想以上だった。
俺は負傷者を運ぶ馬車の下へ潜り込んだ。
車輪が作り出す影を利用し、第一封鎖線を通過する。
続いて何度も影を乗り換え。
カラウ通りを離れた。
一つ目の通り。
三つ目。
五つ目。
廃酒場が完全に見えなくなっても、まだ止まらなかった。
さらに十分近く潜行を続ける。
追跡者がいないこと。
教会の探知術式も設置されていないこと。
その両方を確認してから。
ようやく無人の路地裏で影を抜けた。
漆黒の外套が、再び実体を取り戻す。
両足が地面へ着いた瞬間。
俺は壁へ手をつき、ゆっくりと息を吐いた。
「ようやく出られたか」
先ほどは、本当に危険だった。
オースティンの一撃だけではない。
逃走の途中で一度でも失敗していれば。
大勢の教会関係者に包囲されていた。
ドーンの庇護は、すでに使用済み。
今の俺の実力では。
二度目の脱出など不可能だった。
「人間の小僧、なかなかやるじゃないか」
聞き慣れた声が、また響いた。
妖精が右肩の後ろから顔を出す。
鬱陶しい羽虫のように、俺の目の前を行ったり来たりした。
「レベル46の上級職業者を騙そうとするなんて」
「しかも本当に騙し切ったうえで、逃げ出すとはな」
口元を手で隠し、意地の悪い笑い声を漏らす。
「へへっ」
「あの女が知ったら、どんな顔をするんだろうな?」
「目の前で大物ぶっていた奴が、実はレベル4だったなんて」
俺は答えなかった。
ここへ来るまでに。
一つだけ確認できたことがある。
この妖精は、実際に声を出す必要がない。
俺が影へ潜っていても。
直接、意識の中へ声を送り込める。
さらに悪いことに。
こいつは筋金入りの話好きだった。
地下第三層からここへ来るまで。
ほとんど一度も口を閉じていない。
「でも、お前は本当に運がよかったな」
妖精は話し続ける。
「逃げるのが少しでも遅かったら、もう首が落ちていたぞ」
「その程度の体質なら、剣が当たらなくても風圧だけで死ぬんじゃないか?」
俺は相変わらず無視した。
意識を足元へ向ける。
俺の影には、ずっと僅かな違和感が残っていた。
注意しなければ気づかないほどの、小さな異物感。
だが、たった今――
それが消えた。
俺は足を止めた。
路地の奥にある影が、ゆっくりと長く伸びる。
普通の灰色の外套を着て。
杖をついた老人が、その中から姿を現した。
「ははははっ」
ドーンが快活に笑った。
見れば分かる。
かなり機嫌がいい。
「さすが、私が見込んだ若者だ」
「レベル4でありながら、レベル46の【聖契裁判官】の前へ立ち」
「二度と攻撃できないほど、見事に騙し切った」
俺は驚かなかった。
だが、妖精は新しい玩具でも見つけたかのように反応した。
素早くドーンの前へ飛んでいく。
最初に頭の周囲を一周し。
続いて杖の先端へ降り立った。
暗金色の瞳で、ドーンの全身を観察する。
ドーンには、何の反応もない。
やはり妖精の姿は見えていなかった。
「へえ?」
妖精が驚いた声を出す。
「こいつが、さっきお前を助けた奴か?」
「レベル72」
「蹴られただけで死にそうな人間の小僧に、レベル72の護衛がついているなんてな」
ドーンの額近くまで飛ぶ。
非常に珍しい何かを観察するように、顔を近づけた。
「それに、こいつからはノクスの刻印が感じられる」
「珍しいな」
俺の瞳孔が、僅かに収縮した。
ノクスの刻印?
普通の信徒が持てるものではない。
この世界には、神を信仰する者が数え切れないほどいる。
祭司。
神官。
聖騎士。
教会の上層部でさえ。
あくまで信徒と呼ばれる存在だ。
だが、使徒は違う。
一柱の神が持てる使徒の座は、極めて限られている。
使徒が受け取るのは、単なる神の加護ではない。
その体内には必ず。
神が持つ理念と権能の一部が宿っている。
それこそが。
神明の刻印。
ドーンは、ノクスの使徒だったのか?
一度目の人生で俺が知っていたのは。
ドーンが生涯を懸け、旧神の痕跡を追い続けていたこと。
忘れられた教会に属する、高レベルの信徒だったことだけ。
ノクスと、これほど深く結びついているとは考えたこともなかった。
だからこそドーンは。
【夜行者】の職業で、レベル72へ到達できたのか。
だから、たった一粒の影の種子だけで。
俺が隠し初期職業【影渡り】を解放できたのか。
そして妖精は。
これほど深い秘密さえ、一目で見破った。
こいつの価値は、さらに上がっている。
何より重要なのは。
ドーン本人が、完全に見抜かれたことへ気づいていない点だ。
ただ、俺が黙り込んだことを不思議に思ったらしい。
少しだけ眉を上げていた。
俺は妖精の言葉へ反応しなかった。
ここでノクスの刻印について尋ねれば。
妖精の存在を自ら明かすことになる。
俺はドーンへ僅かに頭を下げた。
「助けていただき、ありがとうございました」
「礼を言う必要はない」
ドーンは軽く手を振った。
「取引だ」
「君が死にかけたとき、一度だけ守る」
「私は約束を果たした。これで取引は完了だ」
実にあっさりとした口調だった。
それからドーンは。
俺がつけている灰白色の仮面を見て、さらに笑みを深めた。
「それよりも、君だ」
「今夜が明ければ、少し有名になるかもしれんな」
「正体不明の暗影系職業者」
「血月の神が持つ古い神名を知り」
「教会が封印した歴史にも通じている」
「さらに、オースティン・レイヴンを一撃で退ける力まで操った」
ドーンは杖で地面を軽く叩いた。
「教会は今後、相当な労力を割いて君を調べるだろう」
俺は頷いた。
「気をつけます」
実際には。
それも最初から、計画の一部だった。
仮面人の素性が強大で。
謎に満ちていればいるほど。
転職したばかりの異界人の学生と、同一人物だとは考えられなくなる。
たとえ教会が。
俺が訓練場から一時的に姿を消していた事実へ辿り着いても。
二人を結びつけることは難しい。
ドーンは空を見上げた。
東の空が、僅かに灰白色へ染まり始めている。
夜明けは近い。
「そろそろ時間だ」
「私も王都を出るとしよう」
俺はドーンを見る。
「今から北方辺境へ向かうのですか?」
「ああ」
ドーンの声が、少しだけ軽くなった。
「私には、あまり時間が残されていない」
そこで一度、言葉を区切る。
「小僧。君も必ず来るのだろう?」
問いではない。
確信だった。
ドーンは外套から、折り畳まれた紙を一枚取り出した。
俺へ差し出す。
書かれていたのは、一つの住所だけ。
【黒鉄通り十七番地】
「到着したら、私が渡した影の徽章を見せろ」
「誰かが私のところまで案内する」
俺は紙を受け取った。
「分かりました」
ドーンは、それ以上何も言わなかった。
杖の先で、地面を軽く突く。
足元の影が、音もなく広がった。
「それでは、セグランで会おう」
俺が返事をするより早く。
ドーンの身体が闇へ溶け込んだ。
瞬きをする間に。
気配まで、完全に消失する。
妖精は、元へ戻った影の上まで飛んでいった。
周囲を見回す。
「逃げ足が速いな」
「レベル72ともなると、便利なものだ」
俺は手の中にある住所へ視線を落とした。
セグラン。
迷宮暴走が始まる場所。
次の舞台だ。




