第69話 魔法植物カフェとエルフの里(1)
第69話 魔法植物カフェとエルフの里
ボタニカル・マギアフェスタの午前。
ノクティス魔法学園は、普段とはまるで別の場所のようになっていた。
石造りの校舎を覆うように、淡く光る蔓が絡みついている。廊下の柱には、色とりどりの花が輪飾りのように巻かれ、風もないのに小さく揺れていた。足元には光苔が敷かれ、踏むたびに、ほのかな緑色の光が水面の波紋のように広がる。
校庭には屋台が並び、外部から訪れた客たちの声が絶えない。
貴族らしい服装の男女。大きな鞄を背負った薬師。珍しい植物を観察しようとする研究者。子どもの手を引いた近隣住民。学園の生徒たちも、いつもの制服姿だけではなく、催しごとの衣装や研究会の腕章を身につけている者が多かった。
祭り。
そう呼ぶにふさわしい賑わいだった。
蒼井蒼真は、その人混みの中をゆっくり歩いていた。
手には、入口で受け取ったパンフレットがある。
そこには、魔法植物育成コンテスト、魔法植物フォトスポット、魔法植物バトルレース、魔法薬の材料採集競争、魔法植物の相性迷路、魔法植物アクセサリー工房、魔法植物カフェ、魔法植物スイーツコンテスト、魔法植物研究発表、そしてフィナーレの音楽パレードまで、細かく予定が書かれていた。
「……多いな」
蒼真は、思わずそう呟いた。
ただでさえ学園の敷地は広い。その上、今日は一般公開日で、人通りも多い。何も考えずに歩いていると、それだけで一日が終わってしまいそうだった。
とはいえ、まず優先すべきことは決まっている。
朝食だ。
今朝はユリウスとのいつもの騒がしいやり取りがあり、そこから植物研究施設へ向かい、エルミナと少し話をした。赤く染まっていた植物たちがほとんど元に戻っているのを見て、蒼真も少し安心した。
その流れで、すっかり朝食を食べそびれていた。
パンフレットの中で、蒼真の目に留まったのは、魔法植物カフェの案内だった。
場所は中央校舎と植物研究施設の間にある中庭。期間限定で作られた、温室型の特設カフェらしい。
魔法植物を使った茶、菓子、軽食を提供。
安全確認済み。
魔法研究部協力。
その一文を見て、蒼真は少しだけ眉を上げた。
「魔法研究部……リリアのところか」
九条リリア。
黒髪眼鏡の理論派で、魔法研究部に所属している少女。
蒼真の召喚について調べてくれている、数少ない理解者の一人でもある。
最近は植物施設に通っていたこともあり、図書室や研究部へ顔を出す機会が少し減っていた。
そう考えて、蒼真はふと足を止めた。
減っていた。
確かに、減っていた。
別に避けていたわけではない。ただ、エルミナから魔法植物のことを教わるうちに、放課後の時間が自然と植物施設に向くようになっていたのだ。
「……まあ、会ったら説明すればいいか」
蒼真は軽くそう考え、魔法植物カフェへ向かった。
中庭に近づくにつれ、甘い香りが風に乗って流れてくる。
普通の焼き菓子の匂いに、花の香りと、どこか薬草のような青い香りが混ざっていた。違和感があるはずなのに、不思議と嫌ではない。むしろ、鼻の奥が少しすっきりするような香りだった。
やがて、蔓で作られた大きなアーチが見えてきた。
その上には、木製の看板が吊られている。
――魔法植物カフェ。
看板の周囲には、小さな白い花が咲いていた。花は客が通るたびに、ふわりと開いて、淡い光をこぼす。
「いらっしゃいませ」
入口に立っていた女子生徒が、笑顔で頭を下げた。
植物研究会の腕章をつけている。手には、小さな葉の形をした案内札を持っていた。
「おひとりですか?」
「はい」
「お好きなお席へどうぞ。混み合ってきましたら、相席をお願いする場合があります」
「分かりました」
蒼真は軽く会釈して、店内へ入った。
中は、外から見た以上に温室らしい空間だった。
透明な天井から午前の光が差し込み、その光を受けた吊り花が淡く輝いている。壁際には鉢植えが並び、中央には丸いテーブルがいくつも置かれていた。テーブルの上にも小さな鉢植えがあり、客が笑うと花が少し開き、驚くと葉がぴくりと揺れる。
食事中に植物が反応するらしい。
落ち着くような、落ち着かないような空間だった。
蒼真は空席を探しながら歩く。
そのとき、窓際の席に見慣れた黒髪を見つけた。
艶のある長い黒髪。
整った横顔。
眼鏡の奥の、知的で少し冷たい印象の瞳。
リリアだった。
彼女は一人で席に座り、紅茶のカップを前にして、本を開いている。だが、蒼真の目には、少し妙に映った。
ページが、進んでいない。
読むために本を開いているというより、何かを隠すために本を開いているように見えた。
蒼真は近づいた。
「おはよう、リリア」
声をかけると、リリアの指がわずかに止まった。
彼女は顔を上げる。
「……おはよう」
返事はあった。
だが、温度が低い。
蒼真は一瞬だけ考え、それから向かいの席を指した。
「ここ、いいか」
リリアは本に視線を戻しながら、短く答えた。
「どうぞ」
「ありがとう」
蒼真は向かいの椅子に座った。
椅子の背もたれには、細い蔓が飾りのように巻かれている。座ると、蔓の先についた小さな葉が、ぴくりと揺れた。
蒼真は一瞬それを見てから、テーブルに置かれたメニューを手に取った。
沈黙。
普段なら、リリアの方から何かしら言ってくる。
魔法植物カフェの成分がどうとか、安全管理の理屈がどうとか、蒼真が何か妙なものを注文しないように注意してくるとか。
だが、今日は何も言わない。
蒼真はメニューを開いた。
そこには、祭り限定らしい名前がずらりと並んでいた。
月光草のハーブティー。
精霊ミントの冷製茶。
星蜜花のパンケーキ。
眠り苺のタルト。
小さな文字で、眠り苺は睡眠作用を除去済み、と書いてある。
「除去済み……除去しないと眠るのか」
蒼真が小さく呟くと、リリアが本から目を離さずに答えた。
「普通に食べたら、三時間くらい眠るわね」
「危ないな」
「だから除去してあるのよ」
会話は続かない。
蒼真はメニューをさらに見る。
そして、ある一文で手を止めた。
「……ルミエール作、魔法植物モンブランケーキ」
思わず声に出ていた。
リリアの視線が、わずかに上がる。
蒼真はメニューを見たまま首を傾げた。
「なんだこれ」
リリアは、少しだけ息を吐いた。
「魔法植物スイーツコンテストの参加作品ね」
「スイーツコンテスト?」
「ええ。参加者が作った菓子や料理を、このカフェで販売するの。売り上げ、見た目、味、魔力成分の安定性、審査員評価。そういうものを合わせて順位を決める仕組みよ」
「なるほど」
蒼真はメニューを見直した。
ルミエールの名前の横には、簡単な説明がある。
光蜜栗と月露草を使用した、光属性反応型モンブランケーキ。
甘さ控えめ。
紅茶との相性良好。
「ルミエールらしいな」
蒼真が言うと、リリアは少しだけ目を細めた。
「そうね。見た目も味も、きっと優等生なのでしょうね」
「褒めてるのか?」
「褒めてるわよ。半分くらいは」
「半分なのか」
蒼真は少し考えた。
せっかく知っている名前があるのだ。注文してみるのもいい。
彼は近くの店員に声をかけた。
「すみません、注文お願いします」
「はい、ただいま」
植物研究会の女子生徒が来る。
「この、ルミエール作の魔法植物モンブランケーキと、紅茶をお願いします」
「かしこまりました。紅茶は月光草のブレンドでよろしいですか?」
「はい」
女子生徒はにこりと笑い、注文札に記入して去っていった。
その背中を見送ったあと、蒼真はリリアへ視線を戻した。
リリアは、また本に視線を落としている。
しかし、やはりページは進んでいない。
蒼真は、それを見逃さなかった。
しばらくして、ケーキと紅茶が運ばれてきた。
白い皿の上に置かれたモンブランケーキは、思ったよりも華やかだった。
淡い金色のクリームが細く重ねられ、山のような形を作っている。頂点には栗に似た実が乗り、その周囲に小さな光る花びらが散らされていた。花びらは食用らしく、皿の上で淡く光っている。
魔法植物の菓子、という言葉から少し奇抜なものを想像していたが、見た目は上品だった。
むしろ、ルミエールらしい。
蒼真はフォークを入れ、一口食べた。
「……うまいな」
自然に言葉が出た。
甘すぎない。
栗に似た香ばしさと、花の香りが広がる。後味に、ほんの少しだけ清涼感があった。
紅茶を飲むと、その香りがさらに整う。
リリアが横目で見る。
「そんなにおいしいの?」
「ああ。見た目だけじゃなくて、味もいい」
「そう」
リリアは短く答え、自分の紅茶を飲んだ。
蒼真は、もう一口ケーキを食べた。
おいしい。
だが、空気は重い。
カフェの周囲では楽しそうな声がしている。隣の席では女子生徒たちが限定スイーツを前に笑っている。入口付近では子どもが光る花に驚いて歓声を上げている。
それなのに、この席だけ微妙に静かだった。
蒼真は、リリアを見る。
リリアは本を開いたまま、紅茶を飲んでいる。
表情は普段通りに見える。
だが、よく見れば違う。
口元がわずかに硬い。
視線が少し尖っている。
蒼真はフォークを置いた。
「リリア」
「なに?」
「表情がいつもと違う気がして」
リリアの指が止まる。
蒼真は続けた。
「気のせいなら、ごめん」
リリアはすぐには答えなかった。
カップを置き、本を閉じる。
ぱたん、という音が、やけに大きく聞こえた。
「さあ、どうだかね」
リリアは蒼真を見た。
「思い当たる節はあるの?」
蒼真は真面目に考えた。
何かしただろうか。
リリアに失礼なことを言ったか。
研究部の本を返し忘れたか。
召喚調査の約束を破ったか。
いや、特に思い当たらない。
「……いえ、ありません」
正直に答えると、リリアは深いため息をついた。
「でしょうね」
「その反応だと、何かあるんだな」
「あるとも言えるし、ないとも言えるわ」
「難しいな」
「難しくしているのはあなたよ」
蒼真は黙った。
リリアは腕を組む。
その動きで、豊かな胸元が少し強調される形になり、蒼真は慌てて視線をメニューへ戻した。
リリアはそれに気づいたのか、気づいていないのか、淡々とした声で言った。
「最近、図書室にあまり来ないけど、何をしていたの?」
「ああ、それか」
蒼真は納得した。
やはりそこだったらしい。
「学園内の植物施設があるだろ。あそこで、エルミナ先輩に植物学を教わっていた」
リリアの表情が、わずかに変わった。
「エルミナ先輩?」
「ああ」
「二年生の、美人エルフ先輩?」
「たぶん、その人だ」
「たぶん、じゃないでしょう」
「いや、他にエルミナ先輩を知らないから」
リリアはじっと蒼真を見た。
「男性嫌いって聞いていたけど。よく対応してもらえたわね」
「え、そうなのか?」
蒼真は素直に驚いた。
「とても優しい先輩だったよ。魔法植物のことも丁寧に教えてくれたし」
「……そう」
リリアの声が一段低くなった気がした。
蒼真は首を傾げる。
「何か?」
リリアは無表情に近い顔で、ぼそりと言った。
「女ったらしめ」
「なんでそうなる」
「普通はならないのよ」
「何が?」
「男性嫌いと噂されている美人エルフ先輩に、植物学を教えてもらって、優しくされて、平然としている男子なんて」
「いや、植物を教わっただけだ」
「本当にそれだけ?」
リリアの目が鋭くなる。
蒼真は一瞬、言葉に詰まった。
植物を教わった。
それは事実だ。
だが、それだけかと言われると、完全にそれだけとは言い切れない。
マンドラゴンの植え替えを一緒にした。
エルミナの手を支えた。
背中に彼女の柔らかな感触が当たった。
耳についた泥を拭った。
耳を触られたエルミナが真っ赤になって逃げた。
植物施設が赤く染まる事件が起きた。
トマスから守るために、エルミナが蒼真を彼氏だと言った。
それを信じさせるために、唇にキスされた。
その後、額にもキスされた。
エルフの里へ招待する、と約束された。
……植物を教わっただけ、ではない気がしてきた。




