第62話 エルフの先輩と食人植物(1)
第62話 エルフの先輩と食人植物
魔法陣学の授業を終えた翌日。
ノクティス魔法学園には、久しぶりに穏やかな時間が流れていた。
もちろん、学園という場所である以上、完全な静寂とは無縁だ。廊下では生徒たちが行き交い、教室からは談笑の声が漏れ、校庭では実技訓練の掛け声が響いている。遠くでは、火属性の生徒が制御に失敗したのか、小さな爆発音が上がり、すぐに教師の叱る声が続いた。
けれど、それでも蒼井蒼真にとっては平和だった。
女子寮覗き事件。
ルミエールへのストーカー事件。
リリアの下着盗難事件。
教室での魔法暴走事件。
この学園に来てから、何かと事件に巻き込まれることが多かった。魔法という未知の力が日常に溶け込んでいる世界では、現代日本の常識だけでは測れない出来事がいくらでも起こる。
それでも、事件の中心にあるものはいつも同じだった。
誰かの嘘。
誰かの弱さ。
誰かの欲。
魔法はあくまで手段であり、人の心が事件を起こす。
そのことを、蒼真はこの世界に来てから何度も見てきた。
だからこそ、何も起きていない時間は貴重だった。
放課後。
授業を終えた蒼真は、特に目的もなく学園内を歩いていた。
ルミエールはクラス委員として教師に呼ばれ、セレナは騎士科の合同訓練へ向かい、フレイアは火属性実技の補習に引っ張られていった。リリアは別クラスで、おそらく研究部にいるだろう。
つまり、今日は珍しく一人だった。
「……こうして見ると、まだ知らない場所ばかりだな」
蒼真は廊下の窓から外を眺めながら呟いた。
学園は広い。
城のような本校舎、実技訓練場、研究棟、図書館、寮、旧校舎。これまで事件や授業で訪れた場所はいくつかあるが、それでも全体から見ればほんの一部に過ぎない。
異世界に召喚された。
元の世界に戻れるかどうかもわからない。
その事実は、今も蒼真の胸の奥に沈んでいる。
けれど、ただ不安に飲み込まれていても仕方がない。
この世界にいる以上、この世界を知る必要がある。
魔法も。
学園も。
人も。
そして、この世界にしか存在しないものも。
蒼真は本校舎を出て、普段あまり歩かない裏手の通路へ向かった。
石畳の道は校舎の影を抜け、緩やかな坂道へ続いている。左右には整えられた植え込みが並び、時折、見たことのない色の蝶が花の上を飛んでいた。
蝶、なのだろうか。
羽の先から淡い光の粉をこぼしている時点で、現代日本の生物図鑑には載っていない気がする。
蒼真がその蝶を目で追っていると、道の先に大きな建物が見えた。
ガラス張りの巨大な温室のような建物だった。
ただし、ただの温室ではない。
外壁には透明なガラスのような素材が使われているが、その表面には薄い魔法陣の線がいくつも浮かんでいる。線は時折淡く光り、建物全体を包むようにゆっくりと流れていた。
入り口の横には看板が立っている。
【植物研究施設】
【見学可能。ただし、展示植物には許可なく触れないこと】
「植物研究施設……」
蒼真は足を止めた。
魔法植物。
そういえば、この世界には魔力を持つ植物があると聞いたことがある。薬草、魔法薬の材料、精霊に関係する花、戦闘に使える蔓や樹木。
考えてみれば、魔法が人間だけのものとは限らない。
動物に魔力が宿るなら、植物に宿ってもおかしくない。
「見学可能、か」
看板の文字をもう一度確認する。
関係者以外立入禁止ではない。
触れるなとは書いてあるが、見るだけなら問題ないらしい。
蒼真は少しだけ考えたあと、扉に手をかけた。
扉は軽い音を立てて開いた。
中に入った瞬間、空気が変わった。
温かい。
湿っている。
けれど、不快ではない。
土と草の匂いが濃く、どこか甘い香りが混じっている。日本の植物園にも似ているが、それよりもずっと鮮やかで、空気そのものに魔力が溶けているような感覚があった。
蒼真は思わず足を止める。
「……すごいな」
そこには、見たこともない植物が並んでいた。
青白く光る葉を持つ小さな草。
水の中でもないのに、葉先から泡を吐き続ける花。
枝に実った果実が、風船のようにふわふわと宙に浮かぶ樹。
人が近づくと、葉を閉じて眠ったふりをする植物。
逆に、人の気配に反応して、こちらへ顔を向けるように花を動かす植物。
現代日本では、どれも作り物にしか見えなかっただろう。
だが、ここではすべてが生きている。
蒼真はゆっくりと通路を進んだ。
施設の中はいくつかの区画に分かれているようだった。入口近くは比較的安全な観賞用植物の区画らしく、花壇の周囲には低い柵があるだけだ。奥へ行くほど柵が高くなり、ところどころに注意書きが増えていく。
【魔力刺激を与えないこと】
【強い光を当てないこと】
【水属性魔法の使用禁止】
【歌わせないこと】
「……歌わせないこと?」
蒼真は思わず看板を二度見した。
植物を歌わせるとはどういう状況なのか。
この世界では、まだまだ知らない常識が多すぎる。
そう思いながら歩いていると、ひときわ奇妙な植物が目に入った。
赤黒い蕾。
肉厚の花弁。
茎は太く、根元は檻のような鉢に固定されている。
花の形は、どこか口に似ていた。
左右に分かれた花弁の内側には、細かな牙のような突起が並んでいる。花の中央には蜜らしきものが光っており、甘い香りが漂っていた。
「これは……」
蒼真は興味を引かれ、少し身をかがめた。
見た目は食虫植物に似ている。
ハエトリグサ、ウツボカズラ。
現代日本にも虫を捕らえる植物は存在する。もちろん、それらは人間にとって危険というほどではなかった。
だが、目の前の植物は明らかに違う。
大きい。
そして、妙にこちらを見ている気がする。
蒼真は慎重に観察した。
花弁の縁。
茎の動き。
根元に刻まれた魔法陣。
鉢の横には小さな札があったが、文字は少しかすれていて読みづらい。
「触るな、とは書いてない……いや、書いてあるのか?」
蒼真が札を読もうとして、無意識に手を伸ばした。
その瞬間だった。
「それ、触っちゃだめよ!」
背後から女性の声が飛んだ。
蒼真は反射的に手を止めた。
振り返る。
そこにいたのは、緑色の長い髪をした女子生徒だった。
柔らかな色合いの制服を着ている。胸元には二年生を示す紋章。手には剪定用らしき小さな鋏と、細長いピンセットを持っていた。
穏やかな雰囲気の少女だった。
目元は優しく、声も柔らかい。
けれど、その表情にはほんの少し焦りが残っている。
「あ、すみません」
蒼真はすぐに手を引いた。
「勝手に触るつもりは……いや、触りかけてましたね」
「ふふ。正直でよろしいわ」
少女は微笑んだ。
そして、蒼真の横に立つと、問題の植物を指差す。
「それは食人植物よ」
「……食人?」
蒼真は聞き返した。
少女はこくりと頷く。
「ええ。正確には捕食系魔法植物。小さいうちは虫や小動物を食べるだけだけど、大きく育ったものは人間くらいなら丸呑みにするわ」
「丸呑み」
「この子はまだ幼体だから、さすがに丸呑みはできないけれど」
少女はにこりと笑った。
「指くらいなら、簡単に食べられるわね」
蒼真は無言で自分の指を見た。
五本、全部ある。
今のところは。
「……危なかった」
「本当にね」
少女はピンセットで、小さな種のようなものをつまんだ。
「見ていて」
そう言うと、彼女は種を食人植物の花の前へ近づける。
次の瞬間。
バチンッ!
音がした。
花が開いた、と思った時にはもう閉じていた。
蒼真の目には、動きがほとんど追えなかった。
ピンセットの先から、種が消えている。
「……今、食べました?」
「ええ」
「植物が?」
「植物が」
「……」
蒼真はもう一度、自分の指を確認した。
五本、全部ある。
ありがたいことに。
少女はくすくすと笑った。
「好奇心はいいことだけど、魔法植物相手には命取りになることもあるの。特に、甘い香りがするものには注意してね。たいてい、何かを誘っているから」
「勉強になります」
「ふふ。素直ね」
少女はピンセットを腰の道具入れに戻した。
「そういえば、見ない顔ね。新入生?」
「はい。一年の蒼井蒼真です」
「アオイ、ソウマ……」
少女は名前を確かめるように繰り返した。
「珍しい響きね」
「俺のいた場所だと普通なんですけど、この世界だと珍しいみたいですね」
「この世界?」
少女が首を傾げる。
蒼真は少し迷ったが、隠すほどのことでもないと思った。
「俺、異世界から来たんです」
少女の目が丸くなった。
「異世界?」
「はい。召喚された、らしいです。詳しいことはまだわかってませんけど」
少女は数秒、蒼真をじっと見つめた。
それから、ゆっくりと瞬きをする。
「……魔法学園に男子生徒がいるだけでも珍しいのに、異世界から来た一年生」
彼女は何か思い当たったように、ぽんと手を打った。
「ああ、あなたなのね」
「俺ですか?」
「校内の事件をいくつも解決したっていう生徒。魔力がないのに、妙に鋭い観察をする一年生がいるって聞いたわ」
蒼真は少し困った顔をした。
「そんな大したことはしてません」
「そう言う人ほど、だいたい大したことをしているのよ」
少女は楽しそうに微笑む。
そして、蒼真の周囲をゆっくり歩き始めた。
「ふむふむ……」
「何をしてるんですか」
「観察よ」
「俺を?」
「ええ。珍しい植物を見る時と同じ」
「俺は植物じゃないです」
「わかっているわ。でも、珍しいものを見る時は、まず観察するのが基本でしょう?」
蒼真は否定できなかった。
確かに、それはその通りだ。
少女は蒼真の正面に戻ると、にこりと笑った。
「私はエルミナ・リーフグレイス。二年生よ。植物研究会に所属しているの」
「エルミナ先輩ですね。よろしくお願いします」
「こちらこそ、蒼真くん」
エルミナは穏やかに言った。
その時、蒼真は彼女の耳に気づいた。
髪の隙間からのぞく耳が、人間よりも長く、先がすっと尖っている。
「あの、エルミナ先輩」
「なに?」
「もしかして、エルフ族ですか?」
エルミナは少し驚いたように目を開いたあと、嬉しそうに笑った。
「ええ。よくわかったわね」
「耳が少し違ったので」
「この学園にもエルフは何人かいるけれど、一年生だとまだ見慣れないかしら」
「はい。初めて見ました」
蒼真は素直に答えた。
「この世界にはいろんな種族がいるんですね。初めてエルフ族を見ました」
その瞬間、エルミナの頬がほんのり赤くなった。
「わ、私が……初めて……」
「はい?」
「な、なんでもないわ」
エルミナは慌てたように視線を逸らした。
蒼真は首を傾げる。
何か変なことを言っただろうか。
少し考えてみたが、特に思い当たらない。
エルミナは片手で頬を押さえながら、小さく咳払いした。
「異世界の子は、時々まっすぐな言い方をするのね」
「すみません」
「謝ることじゃないわ。ちょっと驚いただけ」
そう言って、エルミナは柔らかく笑った。
その笑顔は、植物施設の湿った空気によく似合っていた。
「それより、蒼真くんはどうしてここに?」
「学園を見て回っていたら、この施設を見つけたんです。この世界の植物については何も知らないので、少し勉強してみようと思って」
「いい心がけね」
エルミナの表情が明るくなった。
「魔法植物は、知っていると役に立つことが多いのよ。薬草になるもの、毒になるもの、防御に使えるもの、攻撃に使えるもの、魔法薬の材料になるもの、精霊と関係が深いもの……本当にいろいろあるの」
植物の話になった途端、エルミナの声に熱が入った。
さっきまでのおっとりした雰囲気はそのままだが、目が輝いている。
「たとえば、さっきの食人植物も危険なだけじゃないの。うまく管理すれば、害虫や小型魔獣の侵入を防げるし、根から取れる成分は強力な消化薬の材料にもなるのよ。もちろん扱いを間違えると、研究者の指が減るけれど」
「最後が怖いです」
「大丈夫。減らさないために、きちんと知識を身につけるの」
エルミナは得意げに言った。
危険植物の話をここまで楽しそうにする人を、蒼真は初めて見た。
だが、嫌な感じはしない。
本当に好きなのだろう。
植物という存在が。
「よかったら、少し案内しましょうか?」
エルミナが言った。
「いいんですか?」
「もちろん。見学可能とはいえ、初めての人が一人で歩くには危ない場所もあるもの。それに、植物に興味を持ってくれる後輩は歓迎よ」
「助かります」
蒼真は素直に頭を下げた。
エルミナは嬉しそうに頷く。
「じゃあ、まずは安全な区画からね」
二人は通路を歩き始めた。




