12 バレンタイン(前編)
三学期に入り、二年生は進路ガイダンスや進路希望調査、模擬試験などでにわかに忙しくなった。三年生がセンター試験を終え、登校する者が少なくなったことも、二年生をそわそわさせる一因となっていた。
真木は教室に入ると、いつも以上に空気が重いと感じた。いつも通り、みなめいめいに仲の良い者同士で固まっておしゃべりに興じている。見た目は何も変わらない。けれども、肌で感じる空気は明らかに変わっていた。唯はきっとこの空気の変化に気づかないのだろうな、と真木はこの場にいない友達へ思いを馳せた。
教師が教室に入ってくると、みないつもより早く席についた。その変化に教師はわずかに目を開いたが、それ以上反応することは無かった。
教師の話を聞き流しながら、真木は否応なく、進路決定の時期が近づいてくるのを感じていた。今はまだ、なろうと思えば、たいていの者にはなれる。スポーツ選手やピアニスト等は難しいだろうが、教師や料理人、デザイナーや記者と様々な可能性が残されている。時間が経つにつれ、その可能性がどんどんと狭まっていくのだろう。それは、これからの選択にかかっているのかもしれない。そう思うと、真木はその選択を先延ばしにしたくて仕方がなかった。
昼休みになると、真木は逃げるようにして地学室へ足を運んだ。
そこでは、いつも通りに唯が一人でお昼を食べていて、真木はその姿にほっとした。
「あ、真木ちゃん」
「唯、今日はからあげ弁当なのね」
「そうなの。冷凍のからあげが安かったんだって」
「冷凍食品でも、お弁当を作ってもらえていいわね」
真木は言ってしまってから、しまった、と思った。どうやら今日は機嫌が良くないようだ。自分らしくもないみっともない発言をしてしまった。
「そうだよね。一人暮らしとか始めたら、誰もお弁当なんて作ってくれないもんね」
真木が固まっているのにも気づかないで、唯はマイペースに箸を進める。
「一人暮らし? 唯は県外の大学へ行くつもりなの?」
真木は唯の発言に軽い衝撃を受けていた。県外へ行くなど、真木は考えたこともなかったのだ。
「うん、まあ、選択肢の一つとしては考えているよ。県外の大学の方が、レベルはずっと高いからね。今の学力に合ったところなら県外かなあ」
人によっては嫌味に聞こえそうな話だが、唯が話すと単純な事実として聞こえる。真木は唯の学力が学内トップレベルであることを思い出した。たしかに、唯の学力ならば、県内の大学を受験するのはもったいない。
「そうね。唯は意外と成績がいいものね」
「意外と、は余計だよ」
そう唯が叫ぶ。真木は笑いながら、やっと調子が取り戻せた、と感じていた。
「真木ちゃんは県内の大学?」
唯にそう水を向けられて、真木は思わず固まった。
「……まだ、決めてない」
「そうか。そうだよね。なかなか決められないもんね」
始業式の日には唯はまだ何も決めていないと言っていた。あれからまだ二週間ほどしか経っていないのに、唯は少しずつ自分の進路を決めてきている。そのことに真木は焦りを感じていた。
いや、自分は決められないんじゃなくて、決めたくないのではないか。
そんな考えが頭をよぎった。
「真木ちゃん?」
進路を決めたところで、何者かになれる保証なんてどこにもない。何者にもなれないまま、終わるのかもしれない。それならば、色々な者になれる可能性を残した、今の状態がいい。だって、今の自分ですら、何者か分からないのだ。
真木の中で何かが繋がった。
「私もそろそろお昼を食べようかしら」
真木は思考を放棄して、目の前の昼食に注意を向けた。逃避しているのは自覚していても、他にどうしようもなかった。
月日が経つのは残酷で、目の前のことをこなして現実逃避をしているうちに、あっという間に二月になっていた。一月は行く、二月は逃げる、三月は去るというけれど、本当に三学期ってあっという間ね、と真木は心の中で呟いた。
二月、それも半ば。ここ最近ぴりぴりしていた教室の空気が今日だけは浮足立っていた。世間はバレンタインデーを迎えていた。愛する人にチョコレートを渡す日。今日、教室に来るまで、真木はそのことをすっかり忘れていた。最後に誰かにチョコレートを渡したのは何年前の話だろう。振り返ってみるが、思い出せなかった。唯や塔野は誰かにあげるのだろうか。昨日話した感じでは、特に渡す人もいなさそうな様子だった。
放課後、真木は地学室に向かう。いつものように扉を開けた手が途中で止まった。
「これ、塔野ちゃんにあげる」
唯が、塔野に小さな箱を渡していた。黒いボーダーの包装紙に包まれ、青いリボンがかけられていた。
「いいのか?唯」
「うん。もちろん。塔野ちゃんのために作ってきたから」
唯が満面の笑みで答える。塔野は後ろ向きのため、表情が見えなかったが、きっと嬉しそうな表情をしているのだろう。真木には容易に想像が出来た。そのことが、真木の心にどす黒いインクを落とした。
二人に気づかれないよう、そっとその場を後にした。
二人は、相思相愛だったのだ。
あてもなく街を歩く。真木は一人でいられる場所を探していた。今日の街には色が無かった。目で鮮やかなものを探すが、見当たらない。
地学室を手に入れる前は、これが日課だった。色んな場所に行った。喫茶店、ファーストフード店、コンビニ、公園、映画館。どこも落ち着かなかった。自分のいる場所ではない気がしていた。どこに行っても、誰かと誰かが話していた。それが真木には苦痛だった。きっと勝手に疎外感を感じていたのだろう。
疎外感、という言葉を思い浮かべた時、真木の中でかちり、と欠けていたピースがはまった気がした。今の気持ちを言い当てるのに、これ以上ぴったりの言葉は無い。
本当は知っていたのだ。自分が邪魔者であることを。
唯と塔野は仲が良い。二人の間のコミュニケーションは、真木と唯、真木と塔野の間でなされるものよりはるかに滑らかだった。もともと相性がいいのかもしれない。その上、相思相愛とくれば、真木はいないほうがいいのだろう。
自分で思い浮かべた、「いないほうがいい」という言葉が真木の心に重くのしかかる。心が冷えていく。痛い。こんな痛み、知らなかった。知りたくなかった。やっぱり人となんて関わるんじゃなかった。
足は自然と家に向かう。家に帰りたくない。だけど、外にもいたくない。ここではないどこかへ行ってしまいたい。その思いだけで、前に進む。
帰り着いて、真っ先に机の上のカッターナイフを手に取った。浴室に行き、左の手首に赤い筋を作る。
いつもより激しく、何度も、何度も、何度も。
モノクロの世界の中で、血だけが鮮やかな色をしていた。
「今日は真木ちゃん来ないね」
地学室で、窓の外を眺めながら唯が呟く。
「せっかく真木ちゃんにチョコレート持ってきたのにな」
「友チョコか、唯らしいな」
塔野が笑う。
「ところで、あの扉って開けっぱなしにしてたか」
「あ、ごめん。わたし閉め忘れてたのかな」
唯が扉まで駆けていき、そっと閉めた。
その後ろ姿を眺めて、塔野は首を傾げた。
翌日も真木は地学室に向かわなかった。代わりに屋上に来ていた。真冬の冷たい風が容赦なく真木を襲う。真木はそんな中、たった二本の足で必死に立っていた。
屋上にいると、嫌でも唯が告白されていた時のことを思いだす。思えば、あれが全て狂いだした始まりだったのだ。あの事件のせいで塔野は唯への恋愛感情を自覚した。それをつきつけたのは真木自身だった。もし、あの時に塔野の気持ちの自覚を促さなければ何かが変わっていたのだろうか。そんなことをつい考えてしまう。
思えば、ずっと自分の居場所を探していたのかもしれない。家の中に、街の中に、学校の中に。自分は「普通」じゃないから、居場所なんて見つからないと思ってた。諦めて、見下して、一人でいいって思ってたくせに、本当は全然納得してなかったんだ。誰かと一緒にいたかった。だから、地学室なんて、誰かにすぐに見つかる場所を選んだ。
塔野が来た時、塔野の暗い瞳を見た時、初めて一人じゃないと思った。同じように心に闇を抱えている人がいるんだと分かって、嬉しかった。だから、好きに地学室に来ていいなんて言ったんだ。本当は、来ていいじゃない。来て欲しいだったんだ。塔野なら、自分と一緒にいてくれると思った。唯が来て、唯も同じだと分かって、ちゃんと居場所が出来て、本当に嬉しかった。誰かと気持ちが通じ合うということは、こんなに心地の良いものだったなんて、知らなかった。幸せだった。
だから、だからこそ、自分の唯一の場所が失われて、もうどうしたらいいのか分からない。失って初めて、どれだけ自分が地学室に、二人に依存していたかが分かった。自分には二人しかいないのに、あの場所しかないのに。十七年間探してやっと見つけた場所だったのに。
何気なくフェンスに手をかける。これを乗り越えれば、ここではない場所に行けるのだろうか。ここでは私は必要とされていない。それならば、いっそのこといなくなってしまった方がいいのではないか。
この世に希望がないことは数々の書物を読み、思索にふけった結果、知っていた。神様はいないし、こうして生きている意味なんてどこにもない。死んだって、ただ消えちゃうだけ。死後の世界なんてどこにもない。
「だったら、今すぐ終わらせたって私の勝手じゃない」
真木はそっと呟いた。
しばらく更新があいてしまってすみません。これからは最後まで毎週更新していきますので、よろしくお願いします。




