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10 祈り

 年が明けた。

 新年を迎えると、昨日のことも、去年のことになる。ごく最近のことなのに、遠い昔のことのようだ。そうやって全てリセットされればいいのに。唯は身支度を整えながらそんなことを考えていた。


「唯、そろそろ出かけるわよ」


 母が階下から声をかけた。


「はーい。今行くよー」


 唯は鞄を持って扉を開けた。







 一月二日の神社はにぎわっていた。いつもは参拝者など見たことのない近所の神社も、今日はまるで立派な観光地のようだった。


「すごく混んでるね」


 唯が母にうんざりした調子で話しかけた。


「本当に。この日ばかりはどこの神社も人でいっぱいよね」

「一も来れば良かったのにな。まったく、友達と行くと言い張るんだから」


 父が呟くと、唯は笑った。


「ははは。家族で初詣なんて、恥ずかしくて行けない年頃なんだね」


 唯は心の中で、わたしは一緒に行く友達なんてずっといなかったから、毎年家族で来てるけどね、と呟いた。

 三人はお参りの列に並んだ。父と母が話しこんでいるのをぼんやりと聞きながら、唯は 辺りを見渡した。みんな、お参りをする列に並んだり、おみくじをひいたり、お守りを買ったりしている。人々の願いが、ここに集約されているのだ。


 神様は、こんなにたくさんの人の願いを聞いて、どう思っているのだろう。そして、自分は何を祈ろう。そう考えて、真っ先に思い浮かんだのは田中のことだった。

 田中のことを唯は幸せにしてあげられなかった。だから、神様に委ねるしかない。田中を幸せにしてあげてください、と祈るのだ。自分のことを願うのはそれからだ。


 再来年は受験だ。そのために、成績を上げたい。でも、自分はどこに行きたいのだろう。何をしたいのだろう。そこまでの明確なビジョンを、唯はまだ描けていなかった。

 そもそも、自分はちゃんと社会に出てやっていけるのか。友達もまともに作れないのに、社会に出て働くなんて、唯には途方もないことのように感じられる。ひとまず大学に進学するつもりなので、まだ先のことなのだが、まともな社会人になれるのかという不安は、常に唯の心の中にくすぶっている。


 でも、去年は二人、友達が出来た。欠陥品の自分にも根気強く付き合ってくれる人はいたのだ。このことは、神様に感謝しなければならない。この二人とずっと友達でいられますように、と祈ろう。

 そう決めて、唯の顔がほころんだ。





***


 塔野の家では、一月二日に家族総出で初詣に出かけていた。

 兄二人は普段都会で一人暮らしをしているが、年末年始にかけて実家に帰ってきていたのだ。


「兄さん達、そろそろ彼女と初詣に行けばいいのに」


 姉が兄二人をからかう。


「うるさいな」

「彼女が実家に帰るっていうから、俺も帰って来たんだよ」


 対照的な反応の兄二人。


「え、兄さん彼女いたのか」

「ああ、最近な」

「この、裏切り者!」


 いい年をして取っ組み合いをする兄二人を眺めて塔野は笑ってしまった。


「こら、姫香笑ってるんじゃないぞ」

「姫香もそろそろ彼氏を作れよ。俺が姫香にふさわしいか判断してやるから」

「ははは、そのうちな」


 塔野は曖昧に笑ってごまかす。


「まあ、姫香は来年受験なんだから、それどころじゃないわよね」


 母がそう言って助け船を出した。


「大学受験か。私、あの頃には戻りたくないな」


 姉が苦い顔をする。


「大学生は楽しいぞ。それを励みに頑張れ」

「ああ、大学生は楽しかったな」


 現在大学生の兄とすでに社会人になっている兄は対照的な表情で同じことを語った。


「ふうん。姉さん、兄さん、どうして今の大学を選んだんだ?」


 三人は顔を見合わせる。


「どうしてだろう」

「いや、俺に聞かれても」

「俺は都会に出て一人暮らしがしたかったからな」

「ああ、俺もそうだ。あと成績」

「私は家から通いたかったから。成績もあるけどね」

「そっか、そうなんだ」


 塔野は考える。みんな、なんとなく進路を決めている。自分は、どうだろう。どうやって決めよう。人生における、大事な選択だと言われている。それがどういう意味を持つのか、まだあまりよく分かっていない。でも、自分なりに考えて、最善の選択をしたいとは思っている。


 自分の性別に疑問を持っている人間が、果たしてまともな大学生活を送れるのだろうか。自分は再来年、どうしているのだろう。霧の中にいるようで、全く想像がつかなかった。この先、この悩みを抱えたまま、自分は生きていくのだろうか。自分はこのまま、女にも男にもなれないまま、大人になってしまうのだろうか。何者にもなれないまま。塔野は何か大きな不安に飲み込まれるような感覚を覚えた。


 不安は、別の不安を呼ぶ。塔野の思考は唯のことへ移った。

 塔野は、唯に自分の気持ちを悟られることを恐れていた。

 唯は間違いなく塔野のことをただの友達だと思っているだろう。それなのに、塔野が唯に恋愛感情を抱いているなどと知ってしまったら、どうなるだろうか。怒るかもしれない。泣いてしまうかもしれない。唯なら、泣くような気がする。そしてきっと、傍にいられなくなる。唯は数少ない友達を失い、塔野は大切な人を見捨てなければならないことになる。どちらにとっても、悲しい結末だ。それだけは、絶対に避けなければならない。


 遂げられない想いを抱えながら、想い人の傍にいるだけでも辛いのに、その想いを悟られぬよう心血を注いで過ごすなど、塔野の弱い心で耐えられるかどうか分からなかった。だが、唯の傍を離れるという選択肢は、塔野の中には無かった。やるしかないのだ。

 心が痛む。心臓が握りつぶされるような、圧迫を伴う痛み。けれども、この痛みを癒す薬はこの世に存在しない。痛みを抱えたまま、生きていく。


 自分の気持ちを悟られないよう、上手く振る舞えますように。唯に、これまで通りの友達と思われますように。

 これが、今の塔野の切なる願いだった。





***


 真木は一月二日、独り家で過ごしていた。共に初詣に出かける相手もおらず、また真木自身にそもそも行く気が無かった。神社に参拝したところで、何が変わるわけでもない。それなのに、わざわざ人混みの中へ進んで行くことが真木には理解できなかった。


 ふと読んでいた本から視線をあげると、殺風景な室内が目に入る。見慣れた光景なのに、どこか冷たくてよそよそしい。真木は、自分の家が好きではなかった。だから、地学室を手に入れたのだ。

 出来ることなら、今日も地学室に行きたい。しかし、年始のため、学校は開いていないだろう。外に出てカフェに入るという手もあるが、人混みの中で独り本をめくるというのも、なんとなく躊躇われる。特に今日は独りで出歩く人はあまりいないだろう。


 真木は独りが好きなはずだった。相手に合わせるなんて苦痛で、それなら独りでいるほうがずっといいと思っていた。だが、地学室に通うようになって、二人の友達が出来て、誰かと過ごす楽しみを知ってしまった。同時に寂しさを感じるようになった。地学室で過ごすことが楽しくなるほど、家での独りの時間が苦痛になる。それまでは、こんなに苦痛じゃなかった。好きじゃなかったけど、これほどまででは無かった。真木は思わず胸を押さえた。


 辛い時は、連鎖的に嫌なことばかりを思い出す。

 文化祭の終わりに見た、塔野と唯が踊っている姿。唯の温かい家庭。唯を見つめる、塔野の熱い視線。

 どれも微笑ましい光景なはずなのに、思い出すと胸に冷たい波が押し寄せ、浸水する。どうして心が冷えるのか、真木はうまく説明できない。理解できなくて、もどかしくて、苦しくて、机の上のカッターナイフを見つめた。


 真木が祈ることはただ一つ。三人で仲良くしたい。三人でこれまで通り笑っていたい。たとえ秘密を抱えても、いびつな形になってしまっても、友達でいたい。この願いは間違っているだろうか。叶えられないものなのだろうか。

 真木の心が悲鳴を上げた。この悲鳴は、今に始まったものではないのかもしれない。







 それぞれの祈りを胸に抱え、新しい年の幕が開けた。


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