第62話 最後の獲物⑤
インターフォンのモニター越しに、陽葵の顔が見えた。なにやら一生懸命にこちらを覗き込んでいる。
(そうか、陽葵は転校したんだもんな。わざわざ来てくれたのかな。さすがに、そのまま返すのは悪いか)
ドアを開けると、陽葵は勝手に上がり込んで、ベッドの横にちょこんと座った。
「へぇ。……ここが今の蒼空クンの部屋かぁ。お決まりだけど……エッチ本はどこ?」
その様子に俺は、陽葵を家に入れたことを激しく後悔した。
「あの、悪いんだけど、誰とも話したくなくてさ。何しにきたの?」
陽葵は俺の不機嫌などどこ吹く風で、笑顔のままだ。
「ん。引っ越したら幼馴染じゃなくなっちゃうし」
「いや、離れても幼馴染でしょ。それに同じ日本なんだから、いずれ会えるだろうし」
「……もう蒼空に会うつもりはないよ。だから、これが蒼空との最後の思い出」
え?
いまさっき、しばらく会えないって言ったのに。
言葉が終わると同時に、陽葵は俺にキスをしてきた。拒もうとしたが、長い付き合いの陽葵との時間もこれで最後かと思うと、「まぁいいか」という気になった。
「……んっんっ……」
子供の頃から聞き慣れた陽葵の声なのに、別人のように艶めかしくて、それが逆に新鮮だった。
陽葵の身体は柔らかくて滑らかで、……俺は夢中で陽葵の身体を貪った。何度も何度も何度も気が済むまで身体を重ねて、気づけば、いつの間にか眠っていた。
目覚めると、陽葵は俺の腕を枕にして寝ていた。まるで付き合いの長い彼女のように、自然に寄り添ってくる。陽葵の顔を見ていたら、もう会えないことがすごく寂しくなった。
「……あの。ごめん。もう会えないのかな」
陽葵はスッと目を開けた。
「……んー……。おはよぅ。……そう思ったけど、やめた。でも、エッチは最初で最後。幼馴染でも一度くらいなら……、そういう思い出があっても……若気の至り? きっと、あとで笑い話にできるよね」
「そっか」
そのまま俺の側に居てくれる訳ではないらしい。
「それに、わたし自身、蒼空クンにリセットしてもらって、次に進みたかったの。だから、これは自分のため。あと……」
「あと?」
「珠凛ちゃん、良い彼女だね。大切にしなよっ。わたしには、あんなことできない。負けたなーって思った」
どういうことだろう。
まさか、珠凛が陽葵を来させたのか?
泊まっていくように勧めたのだが、陽葵は、明日の飛行機の時間が早いから、と言って帰ることになった。
別れ際、陽葵にキスをされた。
唇が離れると、陽葵の瞳は潤んでいた。
「……バイバイ。蒼空。好きだったよ」
そう言うと、陽葵は身体を翻した。後ろ姿を見送りながら、俺は今生の別れのように感じた。きっと、いまのは別れのキスだ。
これからも陽葵とは幼馴染だけれど、俺だけのことを真っ直ぐに見つめてくれる陽葵に会うのは、きっとこれが最後なのだろう。
次の日、珠凛が来た。
ドアを開けても入ってこない。
「ずっとごめんな。……入ってきなよ」
「うんっ!!」
珠凛は嬉しそうな顔をした。
(飼い主を見つけた子犬みたいだな)
俺は珠凛に座るように促すと、左手でコーヒーを淹れた。左手ばかり使っていると、それなりに器用になるものらしい。珠凛はちょこんと座っている。毎日を一緒に過ごしたリビングなのに、知らない子みたいだ。
「昨日、陽葵がきたよ」
「うん……」
珠凛は特に驚くことはなかった。頷いて聞いている。やっぱり珠凛の仕業か。
「珠凛が来させたの?」
「うん……お願いした」
「どうして?」
「だって、ウチの言葉は届かないし。悔しいけれど、陽葵ちゃんなら、蒼空クンを元気にできるかなって」
「そっか……」
「ウチ、いっぱい考えたけど、それしか思いつかなくて……頭悪くて、ごめんなさい」
陽葵の行動のどこまでがオーダーだったのかは分からないが、敢えて追求する必要かはないか。
珠凛は続けた。
「蒼空クンが元気になったのは良かったけど、やっぱり悲しいし悔しいよ……」
いや、頭が悪いのは俺の方だ。
珠凛、ごめん。
珠凛が言ってくれた「大切」の意味を理解していなかった。
俺はポロポロと涙を流す珠凛を抱きしめて、頭を撫でた。
「ごめんな。周りのヤツに当たっても仕方ないのに、珠凛に甘えきってた。バカは俺の方だよ。ずっと支えてくれてありがとう」
「……うん♡」
珠凛は俺の胸に顔を押し付けて、スンスンすると、安心したような表情になった。
この2ヶ月間、俺よりも珠凛の方が、流した涙の量は、きっとずっと多い。
「……エッチする?」
俺がそう言うと、珠凛は首を横に振った。
「ううん。今日は蒼空クンと沢山お話したい。子供の頃の事とか……」
その日は、朝まで語り明かした。珠凛に会ってから、こんなに話したのは初めてかも知れない。
次の日の朝、珠凛は帰り支度をしていた。この家には、もうすこし色々と落ち着いたから戻ってくるらしい。
帰りを玄関で見送ったのだが、ドアが閉まると、珠凛はまたすぐに戻ってきた。
「あっ、蒼空クンに伝えることがあるんだ!!」
「なに?」
もしかしたら、別れ話とか……?
珠凛には酷い事を沢山言っちゃったし。
俺は唾を飲み込んだ。
「あのね、彩葉なんだけど、お話できるようになったみたい」
……え?
「……生きてるの?」
珠凛は頷いた。
「大怪我でどうなるか分からなかったから……。樹お兄さんが、蒼空クンに伝えるのは、蒼空クンが落ち着いてからにした方が良いって」
「そうか。たしかに、俺が不安定すぎたからな。気を遣わせてごめんな」
「ううん。まだお見舞いはできないから、詳しくは樹兄さんに聞いてね。それと、颯のことは、蒼空クンがどうするとしても、ウチ、応援してるから」
そう言い残すと、珠凛は帰って行った。
集中治療室にいるのかな。
まだ安心できる状況ではないのだろう。
でも、彩葉か生きていてくれた……本当に良かった。俺は自分の心が軽くなるのを感じた。
昼過ぎに、またインターフォンがなった。
モニターを覗くと小春だった。
暑いくらいの気温なのに、何故か長いトレンチコートを着ている。小春は部屋に入るなり、季節外れのコートを脱いだ。
「蒼空クン。心が壊れちゃったって聞いた。あの、ボクの全部あげるから元気だして……」
小春がコートを脱ぐと全裸だった。
首には小さな向日葵の付いたリボンが巻いてある。
(……痴女? この人、家からこの格好で来たの? ……やばい。爆笑してしまいそうだ)
「……ごめん、小春。俺、もう大丈夫なんだわ」
小春は顔を真っ赤にした。
「ええっ。それじゃ、ボ、ボク、変な人だ……」
「そうだな。痴女以外の何者でもないな」
「ええっ。困るんだけど……。これでも勇気出したのに。ボクのこの状況の責任とってよ」
正直、綺麗な身体をしている。あのへんなリボンがなければ、欲情してしまったかも知れない。きっと、あと数年経てば、俺には手が届かないような良い女になるのだろう。
「んー、おこちゃまは恋愛対象外かな。ちゃんと生えたら、出直しておいで」
「子供じゃないし。こ、これで完成形だし」
小春にしては珍しくテンパっている。
俺は、小春の頭を撫でた。
「まぁ、でも……、心配してくれてサンキューな」
小春は言った。
「うん。ボク、……蒼空クンには負けてほしくないな」
そうだよな。
負けっぱなしなんて、俺らしくない。
珠凛、陽葵、斉藤、山口、それに小春も。
こんな俺なんかのために、皆んな来てくれた。
最低の気分ではじまったリベンジだったけれど、今は……悪くない。
だから、壊されたくない。
だから、このまま立ち止まることはできない。
……颯。
お前はそこまでやるのか。
だったら、なおさら放ってはおけない。
お前を、許さない。
俺達がいる世界から消えてくれ。




