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 その時だ、石村城の中からわっと歓声が上がった。

 同時に正門が開いて三頭の馬が飛び出してくる。三頭ともが裸馬で、人を乗せていなかった。

「これは陽動だ、惑うな!」

 城を取り囲む竹田の兵のうち、誰が声をあげたのやら。

 馬たちは兵列に飛び込み、前脚で人を踏みつけ後ろ足で人を蹴り上げて荒れ狂う。

「止めろ、討ち取れ!」

 兵たちは槍を振り回して馬に飛びつく。兵列は大きく崩れた。

 これこそが石村城の作戦だったのだ。

「やぁ!」

 鋭い掛け声とともに十頭ほどの馬が正門から飛び出してきた。今度は鞍を置いて人を乗せた馬たちだ。どうやら石村城主は一か八かの賭けに出たらしい。

 この馬たちは禿川に当てた早馬である。それぞれが石村城の窮状を訴えて援軍を乞う旨の書状を持たされている。もしもこのうちの一頭でもが濱末城にたどり着くことができれば、タヌキ親父というあだ名で天下に知られた禿川とて無視することは出来まい、きっと援軍を寄越してくれるはず。

 竹田の足軽たちは、そんなことに気づかぬほど愚鈍ではない。即座に動いて、馬たちの足を止めようとした。

「禿川のところに行かせるな! 確実に討て!」

「止めろ、追え! 追って仕留めろ!」

「そっちだ、そっちへ逃げたぞ、追い詰めろ!」

 あっという間に三頭の馬が引き倒され、その背に乗っていた伝令は槍で突き殺された。ぞろりと赤い血が流れ落ち、生臭い匂いがあたりに広がった。

 前衛の槍を逃れた七頭は、四方に散って各々が林に藪に飛び込もうとした。しかし竹田の兵は優秀である、素早く駆けつけた騎馬の隊がこれらを追った。

 金船は、これらの馬よりも一歩遠いところにいたのが幸いした。かの馬は、その七頭の中にあの鹿毛馬がいることに気付いた。金船は首を振り回して山片が握る手綱を振り払おうとした。

 この山片正影という男、小柄だが剛健な性質である。彼は金船が首を振った程度で手綱を緩めたりするようなことはなかった。しかし藪に飛び込んで行く見事な鹿毛の馬を見ては別だ、わずかに手綱を緩めてうめく。

「奴か!」

 山片としては、金船が鹿毛馬とまみえるのはもっと後だろうと予測していた。

 戦場において馬は道具であり、財でもある。城が落ちれば戦利品としてあの馬を手に入れる機会もあるだろうと、そう考えていたのである。さすれば馬場に金船と鹿毛を並べて存分に走らせてやろうとも。

 しかしあの馬がここに現れてしまった、ならば勝負の場はここしかあるまい――山片という男、理知的に見えてなかなかどうして、荒くれものの魂というものも持ち合わせた豪傑漢だ。他の馬には目もくれず、鹿毛の馬ただ一匹に狙いを定めた。

「いけ、金船よ、存分に走るが良い」

 鞭を一つくれてやると、金船は待ちかねていたかのように鹿毛を追って走り出す。葦毛の巨体をぐっと寝かせて藪に飛び込む。その先は山頂に向かう細い獣道であった。

「いいぞ、野がけは得意であろう」

 山片が右に左に手綱を捌いて茂みを避ける。なかなかに荒っぽい捌きだ。

 太郎彦も乗り手としては上手だったが、慎重な性格ゆえに手綱捌きは丁寧だった。茂みがあれば金船の体に葉の一枚も当たらぬように大きく手綱を揺らす。

 しかし山片の手綱は茂みのギリギリをかすめて走るコースを選ぶ。柔らかい萩の葉が金船の肌にあたって散った。蹄に踏まれた小枝が、チッと小さな音を立てて弾ける。

 ――楽しい。

 金船は無我夢中で走った。長い耳の間を吹く風はゴウゴウと音を立て、足の下に踏みしだいた草がザザザと鳴る。

 何よりも、あれほど希っていた強い相手(ライバル)が隣を走っている。その差、わずか半馬身。

 一瞬、鹿毛がちらりと振り返って金船を見た。あちらもまた金船をライバルと認めたのだ。鹿毛馬はさらに速度を上げ、金船は再び、かの馬の尻を見せつけられる位置まで落とされた。

 しかし金船はそれでいじけたりしたわけではない。かの馬は身が震えるほどの興奮に満たされて満足していた。

 ――そうだ、これだ、これなんだよ。

 人間が仕組んだレースには、必ずゴールが設定されていた。ゲートが開けばそこから飛び出し、たかだか数千メートルの決められたコースを決められたとおりに走ってゴールにたどり着く、まったく安全なお遊びだ。

 対してここにはゴールなどない。もしも決着がつかぬのならば遠く遠くどこまでも、地獄の底まで駆けても誰も咎める者はいない。つまりどちらかが斃れるまで、命をかけた走り(レース)なのだ。

 山片が鋭く叫んだ。

「金船号! もっと寄せてゆけ!」

 山片はすでに槍を構えている。金船号があと数歩踏み込んで鹿毛馬に近づいたならば、馬上の兵を薙ぎ落としてやろうという気合いに満ち満ちている。

 これに応えずして何が名馬か!

 金船はさらに強く踏み込んで速度をあげる。相手が並の馬であれば十分な速度であるはず、肩が触れるか触れないかのギリギリまで寄せて、するりと滑るように追い抜かすのだ。

 しかし鹿毛馬は、そんな走りに惑わされるような馬ではない。わざと金船に体を寄せて進路をふさぐ。

 ――なるほど、なるほど、つまりルール無用ってワケだ、ますます面白い。

 金船は内に踏み込んで鹿毛馬の脇腹のあたりに肩を当てた。鹿毛馬がよろめいて足元が大きくばらけた。

 その間に、馬上では槍による打ち合いが始まる。

「やあっ、やああっ!」

 号砲とともにぶつかる穂先の金属音を聞いて、金船はますます興奮した。いまやかの馬は周りの何も気にならぬほど、自分の走りに心酔していた。

 ――もっと早く、ただ、早く!

 金船はついに鹿毛馬を追い抜かして鼻先ひとつ前に出た。自分がこの世で最も早い馬であるような気がして、誇らしかった。

 しかし、それは一瞬のことであった。

「お命ちょうだい!」

 鹿毛馬の背上から突き出された槍は大きく剃れて、山片の鎧をかすめて滑り、そして、金船の肩に深く食い込んだ。金船の巨体は藪の中に倒れ込み、その背に乗っていた山片が投げ出される。

「ちっ」

 山片は両手をついてぱっと飛び起きるが、金船の方は……。

「おい、金船号、大事ないか!」

 よろめきながら立ち上がった金船は、三本の脚で立っていた。刺された左前肢はだらりと下がって、もはや体を支える役には立っていない。

「ああ、これではもう、走れまい」

 山片は金船を哀しく見上げた。不幸にも傷は深いらしく、槍穂の抜けた傷口からだくだくと血が流れて葦毛を血色に染めてゆく。賢い金船は自分がすでに再び走れぬほど傷ついてしまったことを知っているはずである。徒に苦しませるよりは、ここでトドメを刺してやった方が情け深い。

「ゆるせ、金船号」

 山片は槍を拾い上げた。

 しかし金船は出血のためだろうか呆然とした様子で、よろよろと歩き出した。まるで山片の構える槍など見えていない様子であった。

「金船号、その体では無理だ、もう、あの鹿毛は行ってしまった!」

 制止の声をあげる山片の脇をすり抜けて、苦しそうな鼻息を吐きながら、一歩、また一歩――前へ。

 そう、金船号は死を目前にしてなお、走ることを渇望していた。実際には這うような遅さであるが、ただ前へ、前へとよろめきながら『走る』。

「金船、もうやめるのだ! お前は十分に走ってくれた、もう、走らなくてもよい!」

 しかし金船の歩みは止まらない。噴出した血に汚れた顔をぐっとあげて藪の中をにらむ。

 振り向いた山片は、そこに鹿毛馬が立っていることに気づいた。どこぞで乗り手を振り下ろしてきたのか、その背の上は空で、金船をじっと睨みつけている。

 山片は自分の膝が震えていることに気づいた。おそらくは二頭の闘気に当てられたのだろう。

 止めても無駄だ、この二頭は二度と人の思いどおりになど走らぬつもりだろう。この馬たちには、自分たちが決めた終着点ゴールしか見えていない。

「そうか、行くのか、金船」

 どちらかが斃れるまで、地獄の底まで。

「どうせ止めても、行くのだろう、お前は」

 金船は答えなかった。ただ風がザワと萩の葉を揺らして吹き抜けた。

「わかった、行くがよい、金船よ、存分に駆けて……どこまでも駆けてゆくが良い」

 山片は槍で金船の尻をぴしりと叩いた。これから命を賭したレースに向かう愛馬への、最後の手向けだった。

 ――ゲートもない、ファンファーレもない、足元だって整備されていない、だけど、ここに強い馬がいる!

 金船は傷ついた足を引きずって走った。鹿毛の馬を目指して走った。足元はもつれ、早さは出なかったが、生まれて初めて、自分で決めたゴールに向かって、ただ走った。

 鹿毛馬は金船と並んで走り出し、二頭は並んで藪の中に消えた。それっきり、この二頭の姿を見たものは、誰もいなかった。


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― 新着の感想 ―
[一言] 涙……キンは最後まで自分を貫いたのですね。 駆け抜ける姿は熱く、しなやかで気高い。例え世界が変わっても自らの本質を見失うことなく走った金船号は、最後まで競うことに燃えた漢でありました。ぐっと…
[良い点] あまりにも、最初から最後まで貫かれた作品でした。 走ること それにここまで注力した作品は無いと感じます。 [一言] どこまでも、二匹の馬は自由に、どこまでも行くのでしょう。
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