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(五)ノ5

「んっ!」

 テュケが組んだ両手を空へと突き上げて、目一杯に伸びをした。それから「あふっ」と、込み上げる欠伸をかみ殺す。勝気そうに吊り上がり気味の目は半開きに、その端には微かな涙が滲んだ。

 空は澄み渡り、穏やかな陽気。のどかな退屈さが眠気を誘う。エウリーケもつられるように、小さな欠伸を漏らした。


 交易都市ダイタロスへと向かう荷馬車の上。幼いクロトは最初こそはしゃいでいたが、その元気はもう既にない。身動きが制限される狭苦しさにぐずるようになり、そして今はエウリーケの膝を枕に寝そべっている。

 ただ、眠ってはいない。

 荷馬車は土の荒れた道を走る。絶え間のない揺れに加えて、不定期に織り交ぜるガタンと突き上げるような衝撃。眠れるはずがない。

 だからその度に、クロトは頭を起こし、不満気な顔でエウリーケに、無言の抗議をしてくるのだった。


「ねえ、カロン」

 テュケは葡萄酒ワイン樽から背を離して上体を捻り、御車台で手綱を握る、赤髪で長身の男の背に声をかけた。

「まだ? 実はそろそろ見えてきてたりとか、しないかな?」

「そんなわけないだろ。まだまだ当分先だ」

「あ、やっぱり」

 そうだろうな、と分かってはいたのだろうが、それでも抱いた淡い願望を打ち砕かれ、テュケは頬を引きつらせる。

「だったらさ、そろそろ休憩にしない? お尻が痛いんだよね、私」

「いや、場所が悪いな。とりあえず水場までは休憩なしだ」

「水ならあるよ、ホラ。だから良いじゃん。休もうよ」

 テュケは革の水袋を手に取り掲げて抵抗を試みるが、「バーカ」と、カロンににべもなく返り討ちにされる。

「馬に飲ませるんだよ。頑張ってるのはコイツ等だぜ。文句も言わずによ。ケツが痛いぐらいなんだ。我慢しろ」

 むう、とふくれっ面になるテュケを横目に、エウリーケは「まあ、そうよね」と、カロンに味方した。

 ここで休んだところで、何も補給させないで再び重い荷車を引かせるのは、馬には返って負担で可哀そうだ。


「それでカロン」と、エウリーケは尋ねた。

「その水場までは、あとどのくらい?」

「ああ? うーん、まあそうだな――。まだずっと先、だな」

「えー!」

 不満の声が重なった。膝の上のクロトが、ビクリとして上体を起こした。

 テュケだけでなく、カロンに同意したはずのエウリーケも一緒になって頬を膨らませる。

「私も、ケツが痛い……」

「ケツって、義姉さん」

「あら」と、エウリーケは自身の口元を手で押さえた。

「カロンのが伝染うつってしまったわ」

 テュケが、なら仕方ないね、と笑う。

「カロンが悪い」

「なんだそれ? 理不尽だ」

 すかさずカロンが言い返した。一瞬の間が生じ、何故かそれが可笑しくて三人で声を上げて笑った。

 クロトは訳が分からずにきょとん顔だ。エウリーケは笑いを残したまま、そんな娘の黒髪をそっと撫でた。

 その光景を見守るように、テュケが微笑ましそうな目を向けてくる。


「なんかさ、すっかりお母さんだよね。エウリー義姉さん」

「そう、かな? でも、ありがとう。ただ毎日がね、もう手探り状態よ」

 ふーん、と呟きを返してテュケは、立てた両膝を抱きかかえると、その上に顎を乗せながら、「ね、聞いていい?」と少し声を改めた。

 エウリーケは、うん? と目を向ける。


「兄貴との馴れ初めっていつ、どんな感じだった?」

「え? なに急に。いきなりどうしたの?」

 思わぬ話に、エウリーケは分かりやすく狼狽えた。テュケは「いやさ」と、笑う。

「そう言えば聞いたことないなって」

「そうだった、かしら?」エウリーケは惚ける。

「うん。私、兄貴とは年が離れてるから。ムーサイに来たのって、クロトちゃんよりも小さい頃だったし。なんか気が付いたら義姉さんが、って感じなんだよね」

「ああ、そうね。私はよく覚えているわ。テュケちゃん、お兄ちゃん子だった。オルフェにべったり甘えて。ホントに可愛らしかったわ」

「いや、やめてよ、義姉さん。なんか恥ずかしいってば」

 テュケは膝の上から顎を上げ、顔の前で短く手を振ってから、そんなことよりもさ、と再び攻勢に出る。

「義姉さんと兄貴の話。ね、どんなだったの?」

 興味津々に目を輝かせるテュケに、エウリーケは「イヤだわ」と、照れて顔を俯けた。

「私も恥ずかしいのよ? カロンだっているのに」

「あん?」

 前方の御車台で、背を向けたままのカロンが、いかにもどうでもよさ気な声を上げる。

「オレならいないものとでも思っておけよ。聞こえないフリしておくからよ」

「何よ、それ」エウリーケは短く笑う。

「つまり、しっかり聞くつもりではいるのね」

「どうしたって聞こえてくるからな。まあ、口は挟まないよ」

「いや、カロンなんかどうでもいいからさ」

 テュケが話を本筋に戻そうする。

「なんかって、おい」というドスの効いた声には聞く耳を持たずに、「さあ、姉さん」と急かしてきた。


 もう、とエウリーケは観念した。娘の黒髪を撫で、クロトも聞きたい? と、その真ん丸な琥珀色の瞳を覗き込む。クロトは小首を傾げた。

 エウリーケはそんな娘の当然の反応に小さく笑い、「私って」と十五年も前の自分を思い返しながら語り始める。


「ホラ、背が高いでしょ? 子供の頃からそうだったの。凄くね、イヤだった」

「確かに、まあ……。でも、そんな気にするほどかな?」

「大人になった今はね。女性にしては高いね、ぐらい? かな」エウリーケはクロトの先ほどの仕草を真似て、首を傾げて苦笑する。

「でも、子供の頃はホントにね――。オルフェと出会ったのって、十歳になるかならないかで。その時で既に、百七十センチもあったのだから、私」

「おい、マジかよ」前方から、思わずといった声が上がった。

「オレのガキの頃より全然デカいぞ、それ」

「口を挟まないじゃなかった?」テュケが、振り返ってきたカロンに、邪魔をするなと文句を言う。

「いや、だってよ。十歳でだぜ? マジか、スゲーぞ。本当にデケェな、それ」

「カーローン?」

 テュケが威圧的な目で睨みつけると、カロンは「分かったよ」と、首をすくめて前へと向き直る。

 エウリーケは、そんな二人のやり取りに短く笑った。


「でもまあ、そうだよ。カロンの言うとおり。スゲー、デカかったのよ、私。オルフェなんか、こーんなだったし」と、エウリーケは自身の肩程の高さで手を水平にかざした。

「だからね、その所為で私、同世代の子たちにちょっと虐められてたの。デカ女、巨人ギガースが来たぞ。気を付けろ、踏みつぶされるぞって」

「なによ、それ」テュケが憤慨する。

「ヒドイ話。どこのガキだ、それ」

「今はもう、ガキではなくなってるけどね」

 眉間にしわを寄せて表情を険しくする義妹テュケを、エウリーケは宥める。

「まあ、仕方ないよ。子供って、自分たちとは明らかに異質なのが目につけば、それを揶揄いたがるものだし。そんなに悪意があったわけではなかったと思うわ」

「でも、だからって、さあ」

「いずれにしても」とエウリーケは、テュケに諭すような笑みを向ける。

「これはもう、ただの昔話。今はそんなことを言う人なんていないわ」

「当たり前よ」テュケは口を尖らせ、鋭く言った。

「そんなヤツいたら、私がぶん殴ってやる」

 フフッと、エウリーケが微笑する。

「いや、それでよ」と、カロンが焦れたらしく、口を挟んできた。


「ガキの頃から背が高いのは分かった。ただそれが先生と、どうつながるんだ?」

 普通に話に加わってくるのね、と心の中で思いながら、エウリーケは「そうね」と返す。

「私は、これは病気だと思ったのよ。だって、周りの子たちとは明らかに違うのだもの。このままどんどんと伸び続けて、それこそ本当に巨人ギガースになってしまうのかもって――。そんなはずないのにね」

「無理もないよ」テュケは、当時のエウリーケを思い遣って言う。

「エウリー義姉さん、まだ子供だったのだから」

 そうだね、とエウリーケは頷いた。

「だから、すごく怖かったわ。朝、目を覚ましたら、また昨日よりも大きくなっているかもしれない。怯えながらベッドに入る。そんな毎日――。疲れてたわ、あの頃の私は。ただそんな折にね、丘の上の領主別館マナーハウスに、ある親子が住み始めたの」

「ああ」とテュケが声を上げた。

「私たちだ、それ」

「そうよ。テュケちゃんたち。オルフェと、そしてアスクレラス先生。診療所という言葉を、私はその時に初めて知ったわ。怪我や病気を治してくれて、なのにお金や対価は何もいらない。そういう施設だと――。司祭様のことは信じていたけれど、でも初めてのそれに、村の人はみんな怖がってた。もちろん私もその一人」

「そうみたいだね。私は覚えていないけど。最初から来てくれたのはお婆ぐらいだったって。兄貴、そう言ってた」

「うん」と、エウリーケは頷いた。

「怖くないの? ってお婆に聞いたら、こんなガタついた体に悪さして、それがあの親子の何の得になるんだい? そうカラカラと笑うの。でね、心配ない、アタシはこれからも、ずっと通うよ、だって」

「なんか、スゴくお婆らしいや、それ」テュケが嬉しそうに呟く。エウリーケも、本当にね、と同意した。

「だからだよ」と、エウリーケは言った。

「お婆がそう言うから。だから私も、すごく怖かったけど、行ってみようと思ったの。何度か診療所の前に立って、やっぱり勇気が出なくて、引き返して……。でも、このまま巨人ギガースになってしまうのはイヤだから」


 何度目だったかな? エウリーケは記憶の中を探り、そして、もう忘れちゃったな、と小さな苦笑を漏らす。

 それだけ何回も、同じ行為を繰り返したのだ。

 エウリーケは顔を横に向け、視線をムーサイの村の方の遠くへとやる。もうとっくに見えなくなってしまったアスクレラス診療所。そのドアの前に、エウリーケは十歳の自分を立たせた。

「遂にね、思い切ってドアを叩いたわ。こう――」

 エウリーケは腕を伸ばし、コン、コンと、宙を二度、ノックした。

 ああ、違う。こんな音じゃなかったな――

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