(五)ノ4
「どうにもならないって……」
ハルモニアは、冷静な彼女にしては珍しく、語気をやや強くした。
「随分といい加減なのですね。まるで他人事のように聞こえます」
「え? あ、いえ、そんなつもりでは」
オルフェは彼女の静かな剣幕を前にして、少したじろいだ。
睨みつける、とまではいかなくとも、ハルモニアの暗い色の瞳には、はっきりとした強い感情が宿っていた。
「司祭様は、この村に診療所を立ち上げられたのは自分の誇りだと、そうおっしゃいました。そしてオルフェ先生のご献身に、深く感謝されています」
「とんでもない」と、オルフェは目を丸くしながら首を横に振る。
「診療所は司祭様あればこそです。私なんて、いつも頼ってばかりで――」
「では、なぜ今回は言ってこられないのでしょう?」
「えっと……、何を、ですか?」
食い気味の勢いのハルモニアに押されながら、オルフェは聞き返す。
すると彼女の表情が強張った。なぜ理解が及ばないのかと、目の前の男のニブさに不満を募らせたのだ。
「私は――」と、勢い込みかけて思い止まり、一つ息をついてから続けた。
「修道院で医学についても触れております。もちろんオルフェ先生には知識も実地も遠く及びません。ですが多少の心得はあるつもりでいます」
「ええ、司祭様も感心されていましたよ。あなたは本当に幅広く学んでいると。とても勤勉で――」
「違います! そういう話をしているのではありません。私のことはどうでも良いのです!」
「はい、なんかゴメンなさい!」
ハルモニアがぴしゃりと言い放ち、オルフェは思わず身を固くして謝った。
それでも彼女は「それは何に対する謝罪なのでしょう?」と、あくまでも容赦がない。
だってコワいんだもん、などと返そうものなら、一体どうなってしまうのか。彼女の話の焦点がどこなのか見えずに、オルフェは困惑した。
「いいですか?」と、ハルモニアは丁寧だが、それは分からず屋の子供に言って聞かせるような、そんな口調だ。
「診療所です。明日はオルフェ先生お一人では、どうにもならないのですよね?」
「はい、それはもう。まったく」オルフェは頷いた。
「そこです」
「どこです?」
思わず、条件反射で聞き返してしまった。ハルモニアが押し黙る。彼女は辛うじて、込み上げる感情をぐっと飲み込んで堪えた。
その様子にオルフェは恐怖した。このままではまた叱られてしまう。訳も分からず虫の居所が悪い親に怯える子供の気分だ。必死に頭を働かせて、考えを巡らせる。
そして、見つけた。
ああ、と胸中で声を上げた。そうか、そういうことか。
「そうでした。すみません、シスター。直接はまだでしたね。失礼しました。ただ、快く引き受けて下さって、本当にありがとうございます。明日はよろしくお願いしますね」
オルフェは姿勢を正して、丁寧に頭を下げた。彼女の苛立ちの理由が分かり、とにかくほっとするばかりだ。
これでもう、怒られずに済む。
ただ、ハルモニアからの返答がない。
怪訝に思い、顔を上げて見ると、彼女は虚を突かれた表情になっていた。半開きの口は、え? という形だ。
どうやらハルモニアは、戸惑っているようだった。今度は彼女が記憶を辿る番となった。視線を左上へと向けて、宙を見つめている。
しかし思い当たらなかったらしい。やがて諦めた。
「あのう――」とハルモニアは、先ほどまでとは打って変わって、自信なさげな声で伺うように言った。
「引き受けたとは、私は一体、何を?」
「ん?」
オルフェは首を傾げた。これは惚けている? いや、堅物な彼女がそのような真似をするはずがない。
どういうことか。せっかく見つけたと思った話の焦点が、また何処かへと消え去ってしまう。そんな不安が頭をよぎった。
「診療所を明日、手伝って下さる、と」オルフェは恐る恐る言った。
「私が、ですか?」ハルモニアはすかさず聞き返す。
「はい」
「いつ、そのようなお話を……」
「昨日の夕刻です」オルフェは応えた。
「司祭様にお願いに伺ったのです。シスターの助力を乞えないかと。司祭様は確認してくると言って、その場で席を外されました。それからすぐに戻られると、二つ返事で了承した、大丈夫とおっしゃいました」
「司祭様が? 私に? いつ?」
「いや、ですから昨日、夕刻に」
「……」
ハルモニアはまた黙った。真っ直ぐにオルフェを凝視している。本当に心当たりがないのだ。
それは何を意味するのか。
「では、シスターは」オルフェも彼女の暗い色の瞳を見つめ返し、確認した。
「司祭様からは聞いていない、のですか?」
ハルモニアが、コクリと頷く。
「まったく?」
「はい、何も」
「ああ」と、オルフェは無意識に声に出した。
それで納得した。三日前の食事の内容ならともかく、彼女が昨日にパーン司祭から言われた話を失念するとは思えない。
「なるほど。どうりで――」
話が噛み合わないわけだ。
つまり、そんな事実はなかった。元凶はすべてパーン司祭だったのだ。
パーン司祭はハルモニアを探しに部屋を出たものの、その時に彼女は屋内にいなかったのか、見つからなかったのだ。
それで面倒になったパーン司祭は「まあ、いっか」と、話をつけたフリをした。
やけに戻ってくるのが早いなと、その時にオルフェは思ったのだ。それに、オルフェを快く思わない彼女が、すぐに快諾したというのもおかしな話だ。
どうせ司祭の言いつけに、助祭の立場で不服従は許されない。後で言っておけば済む話、パーン司祭はそう考えたのだろう。で、そのまま忘れてしまった、と。
オルフェは、ようやく全てに合点がいった。ハルモニアの苛立ちの、本当の理由が分かった。
怪我人一人での診療が無理なのは明白。自分の助けが必要になるはずと、ハルモニアは誰に言われるまでもなくそのつもりでいたのだ。
なのに、待てどもオルフェからの要望が一向に届かない。当然だ。パーン司祭の所で止まっていたのだから。
だから悪いのは、全部パーン司祭。彼女がオルフェの要領を得ない態度を無責任に感じたのも無理はない。
「私は、てっきり司祭様から伝わっているものだとばかり」
オルフェはほっと息をつきながら言った。原因が自分ではなかったので、それで心は一気に軽くなった。
「そう、でしたか……」
ハルモニアは応えたが、彼女は動揺の最中にあった。言葉をどう続ければ良いのか、分からない様子だ。
そんな彼女に対して、オルフェは背筋を伸ばし「シスター、ありがとうございます」と、深く頭を下げた。
「い、いきなり何です? 困ります。その、どうかお直り下さい」
「お気持ちが嬉しかったものですから。シスターがこんなにも診療所のことを思って下さっていたとは」
オルフェは顔を上げ、笑ってみせた。
「ち、違います!」と、ハルモニアが声を張った。
「私、そんなつもりでは――」
「違うのですか?」オルフェは惚けて聞き返す。
「違います。診療所なんて、ええ、その、私はまったく気になど、しておりません」
「なんだ、そうでしたか。残念です」
彼女とは対照的に、オルフェの心には余裕が生まれていた。茶目っ気で、大げさに落ち込んでみせる。
「では、明日は手伝ってもらえない、そういうことなのですね……」
困ったなと、大きなため息を交えて呟く。
「言ってません! 手伝わないとは、私、ぜんぜん言ってないです」
なんだかもう、支離滅裂だ。彼女は随分と取り乱していた。
「あのう」とオルフェは、堪えきれずに苦笑した。
「それでは、診療所は手伝って頂ける。そう思って良いですか?」
ハルモニアは、ぐっと黙った。いつからだろうか、彼女の大理石のように無機質なはずの白い肌の頬が、今は赤く染まっている。
触れられる距離になくとも、その頬は柔らかそうで、上気した温もりが伝わってくるかのようだった。
そしてハルモニアは、遂に観念した。小さな息をついた。
「分かりまた。司祭様のお言いつけとあれば、仕方ありません」
あ、噛んだ。とオルフェは胸中で思った。彼女の早口をオルフェは初めて聞いた。
ハルモニアも気付いたようだ。一瞬、動きが止まった。
「あ、あの、それだけです」と彼女は、取り繕うように言った。
「私、朝の支度があります、ので……。その、失礼します!」
ハルモニアは素早く頭を下げると、くるりと踵を返してオルフェに背を向けた。
司祭館へと戻る彼女の後姿は、日頃の落ち着いた所作とは程遠く、なんだか慌ただしい。
ハルモニアは今、どんな表情を浮かべているのだろうか。
オルフェは彼女の背を見送りながら、ふと思い出した。
昨日、教会にクロトを迎えに行った際に、勉強を教えていたのはパーン司祭でなく、ハルモニアだった。
優しく接してくれたのだろう。子供は正直だ。クロトはハルモニアに懐き、離れるのを寂しがった。
それと、もう一つ。
昨夜遅くに、ハルモニアがいきなり押しかけてきた。クロトの身元証明書をわざわざ届けに来てくれたのだ。
パーン司祭の署名が入ったこの証書がなければ、ムーサイの村人はダイタロスに入れない。
クロトの分が未発行であったことに気付き、ハルモニアが急いで用意してくれたものだった。
ハルモニアがこの村に赴任してきて、四カ月が過ぎただろうか。
隣人でありながら、オルフェはこれまで彼女の起伏の少ない表面しか見てこなかったのかもしれない。そんなことを思わされた。
ハルモニアの姿が、司祭館のドアの向こうへと消えていく。
それを見届けられる程度に空が明るくなっていたのだと、オルフェはようやく気付いた。




