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(五)ノ3

 早朝、葡萄酒ワイン樽と四人を乗せた荷馬車が遠ざかっていく。オルフェはそれを診療所の前で見送った。

 周囲はまだ暗く、荷車から大きく手を振っていたエウリーケの姿も、程なく薄い闇の中へと隠れてしまった。

 静寂が訪れる。先ほどまでの慌ただしさを思えば、嘘のような静かさだ。ただそうなると、独り残ったオルフェの心が若干の物寂しさを訴えてきた。


 オルフェは、ほうと息を吐いた。視線を落とし、自身の左手を見つめる。思い返すと、自然と口元が綻んでしまう。

 出立に際してエウリーケは、目の縁に涙を滲ませながら、握ったオルフェの手をなかなか離そうとしなかった。

 その彼女の温もりが、感触と共に左手に残っている。まるで今生の別れかのようだった。明日の夜には戻る予定なのに。


 さて、どうしようか――

 気を取り直し、オルフェは考えた。

 今日は休診日。本来であれば、薬草を摘みにニンフの森に入るのだが、背中と右腕を怪我をしているのでそれは無理だった。

 護衛を務めてくれるカロンもいない。彼は今は、テュケに雇われの身だ。馬車の御者台で手綱を握り、ダイタロスへと向かっている。

 エウリーケとクロトの二人も一緒にその荷車の上。つまりオルフェは、診療所に一人っきり。

 そして特にこれといった予定もなかった。

 これは久しくないことだ。何をすべきなのか。ただ片腕ではやれることが限られてくる。


 ふむ、と小さく呟く。何だかもう既に、時間を持て余してしまいそうな、そんな予感がした。

「とりあえず」と、オルフェは誰に向けるでもなく、独り言を口にした。

 本でも読もうかと思った。野草茶ツァイを、今日はセージと、それにレモングラスも加えて淹れよう。

 ああ、それが良いな。オルフェはそう決めて、診療所へ戻ろうとした。


 と、その時に、ぎぃと軋む音がした。これは耳慣れている。教会の司祭館のドアを誰かが開けたのだ。

 パーン司祭かと、オルフェは立ち止まって目を向けた。しかし、すぐに違うと分かった。薄闇をさらに黒く塗りつぶす人影は、小柄でそして華奢だった。


「おはようございます。オルフェ先生」

 丁寧な挨拶。ただそれは、一切の親しみを含まない平坦な口調だった。

 助祭のハルモニアが姿勢よく背筋を伸ばし、ゆっくりとオルフェへと近付いてきた。

 黒い修道服を纏った彼女の白い、それは石の彫刻のように無機質で整った顔が、暗がりの中に浮かんできた。

「これは……、修道女シスター。おはようございます」

 挨拶を返すが、そこに若干の緊張が伴う。彼女はオルフェに、あまり良い感情を持ってくれていない。

 そしてそれは、そのまま態度に表れる。ハルモニアは、オルフェから少し距離を残して立ち止まった。

 二人で立ち話をするにしてはやや遠い、間違っても触れられることのない位置。

 それを認めて、オルフェは彼女に気取られぬように、そっと苦笑した。随分と警戒をされたものである。

 ただオルフェには、ハルモニアに対してその前科があったので、これは致し方がないのだと、今のところはそう思うようにしている。


 そのハルモニアはというと、彼女はしばらく周囲を見渡していた。そして「ああ」と微かな声を上げた。

「もう出立されてしまいましたか……」

 彼女は声に微かな落胆の気配を滲ませた。馬車のことを言っているのだと、オルフェはすぐに分かった。

「ええ、ついさっきです」消えていった馬車の方を見つめ、オルフェは応える。

「えっと、シスターはテュケか誰かに何か用件が?」

「ああ、いえ。そういうわけではないのです。ただ、外で物音がしたものですから――。出立は早朝になると、昨日に伺っておりましたが、まさかこれほど早くにとは思いませんでした」

「騒がしくしてしまいましたか?」

 オルフェは彼女へと体を向け、すみません、と浅く頭を下げた。ハルモニアは小さく首を横に振った。

「大丈夫です。起きておりました。ですが司祭様にまだお目覚めのご様子がないようでしたので。せめて私がお見送りをと思ったのですが……」

「あ、ではシスターは、それでわざわざ?」

 オルフェが尋ねると、ハルモニアは薄く自嘲の笑みを浮かべる。

「ええ。ただ私も身支度に手間取ってしまいました。結局はお見送りが叶いませんでしたね」

「いえ、それでもありがとうございます」

 なんとも律義な彼女らしい。オルフェはその心遣いが嬉しく礼をのべると、ハルモニアは僅かに首を横に振って応えた。

 ただ彼女が無言でそうしたので、それで会話が途切れてしまった。

 すると、それまで二人の間で燻っていた微妙な気まずさが、ここが見せ場とばかりに急に張り切りだした。


「あ……」

 沈黙の間を嫌い、オルフェは何かを言おうと口を開きかけた。ただ言葉が出てこなかった。

 彼女は馬車を見送るだけのつもりで、オルフェと話がしたかったわけではないはずだ。

 そのように考えが及ぶと、何を話せば良いのか分からなくなった。

 緊張をはらんだ空気に、いたたまれない気持ちになる。

 ただハルモニアには、まだ立ち去ろうする気配がなかった。彼女もまた、タイミングを逸しているのだろうか。


 ここで切り上げるべきか、オルフェは判断に迷った。するとハルモニアが、「あの」と少し改まった様子で口を開いた。

「つまりオルフェ先生は、今日はお一人ということになりますよね?」

「え? ええ、あ、はい。そうです。そうなりますね」

 オルフェは戸惑いながら応えた。彼女がこうして、話を続けようとしてきたのが意外だった。

 ハルモニアの切れ長の目は、オルフェの三角巾で首から吊り下げた右腕へと向けられている。

「ご不自由はないのですか? その、お怪我されてて……」

「多少は」オルフェは意味もなく短く笑った。

「でも、まあ、自分のことぐらいなら大丈夫ですよ。診療所も今日は休みですし」

「休み――。ええ、確かに。そうでしたね」

 ハルモニアは頷いた。ただ納得していない様子だ。変化に乏しい彼女の表情には、微かな不満の色が覗いていた。

 それは何故なのか、オルフェはその理由が分からないまま沈黙を恐れ、「ただ、今日はともかく」と話を繋げる。

「問題は明日です。明日はきっと大変になるでしょうね」

 想像して、オルフェは小さく息をついた。


 実はここ数日、診療所はいつにも増して忙しかった。オルフェの怪我を心配して、村の人たちが足繁く通ってくるからだ。なので結果として、慌ただしくなってしまっていた。

 片腕しか使えないオルフェは、エウリーケの介助なしでは診察一つままならない。

 そのエウリーケたちが、ダイタロスから戻るのは明日の夜になるはずだ。

 無理をすれば昼間の内に帰れるのだろうが、クロトにはせっかくの機会。牧歌的なこのムーサイの村とは異なる、発展した賑やかな街を少しでも長く楽しませてやってほしいと、オルフェはエウリーケとテュケにそう言い含めていた。


 ただそうなると、診療所のほうが問題となる。二日続けて休診とするわけにはいない。

「確かに」とハルモニアが、微かに眉根に皺を寄せた。

「大丈夫ではなさそうですね。オルフェ先生、お一人では」

 オルフェは正直に、ええ、と頷いて認めた。

「私はこの有様です。本当にもう、どうにもならないですね」

 苦笑いを浮かべ、オルフェはあまり重苦しくならぬようにと、少し冗談めかした物言いをした。

 ただそれが、どうやらハルモニアの気に障ったようだった。

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