(四)ノ30
「先生、先生」
遠慮がちな低い声がする。
オルフェは揺り起こされて、「ん?」と短く息を零した。
「もうすぐ、村だぜ」
これはカロンの声。その短い言葉にも気遣いが伝わってくる。
体には一定のリズムで、小さな振動が繰り返される。いつの間にか、眠ってしまっていたようだ。
薄目を開けると、オルフェはカロンの背中におぶさっていた。
そして周囲はもう、暗かった。陽は完全に沈み、森は暗幕に覆われている。
ただ不思議だ。
微かにだが、手を伸ばせば届く程度の範囲は様子が伺えていた。
目の前にあるカロンの後頭部はもちろん、傍らで肩を並べて歩いているのが、ニクスだともすぐに分かる。
クロトは――、そのニクスに抱きかかえられていた。幼い娘は、どうやら眠っているようだった。
ニクスは松脂を用意してくれていたが、松明のものとは違う。月光の下にいるよりも淡く頼りない。しかし森は、完全な闇ではなかった。
何故だろうか。オルフェは視線を上へと向けた。
前方の木枝の上がなにやら、ぼうと明るい。
「あれは――」
オルフェは目を凝らし、その正体を見極めようと努めた。
大きくはない。手のひらに乗る程度。小刻みに動いていた。そのしぐさには、見覚えがある。
「小鳥?」
オルフェが呟くと、傍らのニクスが「そうっすよ」と応えた。
「あれ、エルフが呼び寄せたっす。自分は動けそうにないから。だから代わりに村まで案内させるって。なんか青くて、すごく奇麗な鳥でしたよ」
ならば、ルリビタキであろうか。そういえば、今朝に一瞬だけ遭遇したのを思い出した。宝石のように美しい青い羽根の小鳥だった。
オルフェはその姿を頭の中に浮かべ、改めて木枝の光を見つめる。
それで気が付いた。どうやら光っているのは、小鳥自体ではないようだった。ルリビタキがくちばしに咥えているもの。
あれはヤコウダケだ。
ヤコウダケは自らが発光する珍しい種類のキノコである。
ただ光るとは言っても、自身の姿を闇に浮かび上がらせる程度。このように周囲を照らせるはずがない。
心当たりはただ一つ。エルフだろう。彼女がヤコウダケの光る能力を増幅させたのだ。
エルフは不思議な力を持っていた。
その力は、瀕死であったオルフェの体力を回復させた。また、オーガの太い腕と、離れた位置からゴブリンの首を切り落としてみせた。
それを目の当たりにしたのだ。だからキノコを光らせるぐらい、彼女ならば造作もないことのように思えた。
そんなヤコウダケの光が、周囲をおぼろげに浮かび上がらせていた。
ルリビタキは、木枝の上でオルフェたち四人が追いつくのを待ち、近付くと、少し奥の枝へ飛び移る。それを繰り返して先へ先へと進んでいった。
青い小鳥が導くのはムーサイの村。オルフェたちが帰る場所。
森は空を覆う。月の光は届かず、目印の星も望めない。夜の森は簡単に方角を見失わせ、自分が今、どこにいるのかさえ分からなくさせる。
だから、たとえどれだけ日中に通い慣れた森だとしても、この小さな道標は確かに必要なものだった。
「しかし、妙なもんだな」カロンはルリビタキが咥えるヤコウダケの光を見つめながら言う。
「鳥の後を付いて行くってのはよ」
「うん、そうっすね」と、傍らのニクスがそれに同調した。
「ただ、なんだろ。オレ、割とこの状況をすんなり受け入れてるんっすよね」
「そうだな……。ああ、オレもだ」
カロンが応えた。
夜の森はしんと静まり、控えめなはずの歩く音や、衣擦れさえもよく響く。そんな静寂の中にあってか、カロンとニクスは囁くように抑えた声であった。
確かにエルフがすることならば、こんな状況もあり得るかと違和感なく思えてしまう。
だからオルフェも、カロンの背の上で小さく頷いた。
「結局――」と、オルフェは呟く。
「お礼を言いそびれてしまったな」
エルフがいなければ、オルフェとクロトは今、こうしていられなかった。
彼女にどのような意図があったにせよ、命を救われたのは確かだ。どれだけ感謝しても、しきれるものでない。
だからオルフェは、エルフがこの場にいないのを残念に思った。
ブロンドになびく長い髪。透き通るような翆玉の瞳。常人離れした気高く美しい森人。
こうして思い返せば、なにやら幻でも見ていたかのような気分になる。
ただ、彼女は存在した。オルフェは自身へと視線を落とした。
オルフェはローブを身に纏っている。これはエルフのものだ。オルフェの裸に照れて、見かねて差し出してきた。
そんな彼女の意外とも思える初心な反応を思い返し、オルフェは小さく微笑んだ。
また、会えるのだろうか?
オルフェはそのことを願うように思い、そしてニクスの腕の中で眠るクロトに目をやる。
ヤコウダケの光程度では、娘の表情までは伺えない。ただ深く眠っているようだった。
クロトへと目を凝らしながら、やがてオルフェは確信した。
また会える。そのはずだと。
エルフはクロトに対して強いこだわりを持っていた。きっと何かしらの繋がりがある。
だから彼女は、またオルフェとクロトの前に姿を見せる日がくるはずだ。
その時はきっちりと感謝の思いを伝えよう。そしてこの恩に報いる為に、オルフェは微力な自分に出来ることがあるのならば、その時はなんであっても厭わぬと心に誓った。
「よほど疲れたのでしょうね。ぐっすりですよ、クロトちゃん」
ニクスはオルフェの視線を感じ取ったのか、そう教えてくれた。
「ああ、すまないね、ニクス。重くはないか?」
「まさか、ぜんぜんっすよ」
ニクスは快活に応えて、短く笑った。
実際、そうなのであろう。あんなにも重い戦斧を風車のように振り回すのだ。幼い子供を抱きかかえるくらい、どうってこともないはずである。
ただオルフェは、それで気付いた。
「ん?」と、声を上げる。
「ニクス、キミの斧はどうした?」
ニクスが背負っているのは、戦斧ではなかった。両刃の大剣。これはもちろん、カロンのものだ。
「ああ」と、ニクスは応えた。どうやら苦笑を浮かべたようだった。
「あれは、置いてきたっす」
「置いてきた? 沢に?」
「はい。今のオレには必要ないかな、って」
「ニクス?」
オルフェはニクスの発言の意図が見えずに戸惑った。
「先生にはカロンさんがいるっす。だから、オレの出番はないと、そう分かったっす」
「いや、しかしニクス。もし、また今日みたいな――」
「起こさせませんよ。こんなことはもう二度と。オレが、いや村の人みんなが。絶対に」
ニクスはオルフェの言葉を遮り、毅然と言った。
なんと返せば良いのか、オルフェが押し黙ると、ニクスは「それに」と声を和らげた。
「あくまでも今は、の話っすよ。ずっとなんて、そんなつもり、オレもないっす」
「と、言うと?」
「先生、オレね、向き合ってみようって、そう思うっす」
何やらさっぱりとした口調だった。ニクスが今、どのような表情を浮かべているのか、実際には見えなくとも分かるものがあった。
向き合うとは、何についてなのかと、問い返すまでもない。
「そして近いうちに」と、ニクスは言葉を続ける。
「自分を見失なわないように、絶対になってみせます。そしたら戦斧を取りに森に入るっす。そしてカロンさんよりも、ずっとずっと強くなって――。また先生の護衛役を奪ってやろうって、そう決めました」
「ほう」と、カロンが反応した。
「オレに勝てるつもりかよ? それは無理だな」
「でもカロンさん。オレ若いっす。成長期ってやつです。これからまだまだいくらでも強くなれるんで。だからカロンさんの上をいく自信、オレあるっすよ」
くっくっと、カロンは喉を鳴らした。
「大きく出たな。だったらニクス、証明して見せろ。口だけじゃないってことをよ。それが男ってもんだ」
「もちろんっす。覚悟しておいてください。その時はもう、カロンおじさんには引退してもらうすっからね」
「このやろ。調子に乗りやがって」
カロンは応えて、愉快そうに笑った。
オルフェも薄く笑った。ただそれは、可笑しかったからではなかった。
嬉しくて笑ったのだ。
ニクスの言葉が、オルフェはとても嬉しかった。
「おっ」と、カロンが声を弾ませた。
「村だ。先生、やっと返ってこれたな」
オルフェはその言葉に、ルリビタキが示すヤコウダケの光の向こうへ目を凝らした。
レーテ川のせせらぎが耳に届く。
森が開ける――
帰ってきた、ようやく。村に。
すぐにエウリーケの姿が頭に思い浮かんだ。クロトを無事に連れて帰れた。彼女はどれほどの笑顔で迎え入れてくれるだろうか。
想像するだけで、オルフェの口元は自然と綻んだ。




