(四)ノ29
力まかせのニクスに対し、体にダメージのあるカロンは張り合うつもりがなかった。
このような場合はわざと押し込まれ、相手の重心を前のめりへと誘うほうが容易い。
カロンはタイミングを見計らい、力で押してくるニクスの足を払った。
軽くそうしただけで、ニクスはあっさりとバランスを崩した。目を見開き、「えっ?」という口の形になる。
そしてカロンは、すかさずニクスの右手首を掴み返す。素早く背後へと回り込み、遠慮なく腕をねじり上げた。
「ぐっ!!」
ニクスが短く悲鳴を上げた。冷静さを欠いたニクスでは、カロンの相手にすらならない。
顔を歪め、苦痛に呻くニクスに、カロンは後ろから耳元で低い声で説付ける。
「目を覚ませ。こんなことして何になる」
「くっ……、離せ」
「自力でやってみろ」
カロンはニクスの右腕を極めたまま、今度はもう片方の手で後頭部を掴み、沢の中へと押し倒した。うつ伏せのニクスの背に乗って体重をかける。
「ほら、オレを振り落せよ」
「クッソ、この!」
ニクスは沢の中でもがいた。身をよじり、腰を跳ね上げて抵抗するが、カロンの体幹がその程度で揺らぐはずもない。
「どうした? 簡単だろ。お前の自慢の力はそんなものなのかよ。あん?」
カロンはあえてニクスを煽った。
格が違う。そのことを思い起こさせようとした。
足掻いても無意味だと知っているはずだ。何故なら、かつてカロンはニクスを散々に打ち負かしてきたからだ。
それはパーン司祭に頼まれてやったことだ。ニクスを森から遠ざけたいからと。
村で最も強い者が先生を守るべき。だから自分こそがその役目に相応しい。
それがニクスの言い分だった。
ならば話は簡単だ。カロンはニクスよりずっと強いのだから。
ただニクスは、なかなか素直に認めようとしなかった。
最初に負けたのはたまたま。二度目は調子が悪かった。次は運に見放された――
言い訳を重ねては何度も何度も挑んできた。
だからカロンは、その度に実力差を見せつけてやった。ぐうの音も出ないほどに、ニクスの自信を徹底的に打ち砕いた。
そうやってカロンは、オルフェの護衛という役目をニクスから奪い取ったのだ。
絶対に敵わぬ相手だと、心身に沁み込ませていた。
「だって!」
顔を上げ、ニクスは沢の水が口に入るのも構わずに大きな声を上げた。
「だって、なんだ!?」
「こいつらの所為で……、先生が!」
ここでカロンは気付いた。ニクスの声色が変わっている。正気に戻ったのか?
「オレの大切なものを、また奪おうとするから」
「お前……」
カロンはニクスを抑えつけていた腕の力を緩めた。やはりこれは、普段のニクスだ。
そして今の言葉だけで、この若者の思いを察した。
獣を前にすると、性格が豹変するようになった経緯はパーン司祭から聞いて知っている。親が獣に殺されるのを目撃したからだと。
ただ今日は、そこに別の理由が加わった。オルフェだ。ゴブリンによって、オルフェが酷い怪我を負った。
孤児となり、ムーサイの教会に引き取られて育ったニクスにとって、パーン司祭と共に、オルフェの存在は心の拠り所。それを失う恐ろしさ。守り切れなかった自分自身への怒り。
カロンがこの状態のニクスを見たのは初めてだが、今日は特別に酷かったのかもしれない。
「ほら、起きろよ」
カロンはニクスの背から降りた。ニクスの腕を取り、少し乱暴に上体を起こさせる。ニクスが顔を上げた。
「だったら」と、カロンはニクスの大きな目を真っ直ぐに見据えて言った。
「お前がすべきはこんなことか? 怒りのままに獣をなぶり殺しにする。なんの為にこの森に入った? 思い出せ」
「分かってるっす。オレだって、必死に我慢してて――。でも先生が! あんな目にあったら。もう、自分でも何が何だか分かんなくなって」
ニクスは悔しさに唇を噛んだ。強い意志を持っていた目は伏せられ「オレだって、オレだって」と弱々しく声を震わせた。
「もう、こんなことしたくなかったっす。クロトちゃんを見つけたい。先生をただ守りたい。それだけだったのに。なんでオレ、こんな……」
ニクスは顔を俯けた。「ちくしょう……」と呟き、ひっく、ひっくと嗚咽する。
膝の上で握られた血だらけの拳が震え、そこにポタリと、滴が垂れて散った。
「ったく、お前は」
カロンは鼻から息を抜き、目の前にあったニクスの、固い毛質で逆立った髪に手を乗せて、ぐしゃぐしゃにかき回した。
「泣く奴があるかよ」
そう言うカロンの声も少しだけくぐもっていた。三十歳を迎え、最近はやたら感情を貰い易くてかなわない。
人差し指で鼻の下をこする。確かにこの若者は、とカロンは思った。
ニクスは人格の一部を歪めてしまった。それは間違いない。
普段の村での姿は、素直で明るく、そして情に深い若者。あくまでもそれが、ニクスの本質。
ただその明るい人懐っこさは、飢えた愛情への裏返し。
幼い子が、当たり前に受けられるはずのものを突然に失い、その足りない分を満たしてくれたのがパーン司祭であり、そしてオルフェだ。
パーン司祭を父と敬い、オルフェを兄のように慕いながら成長していったのだから、家族も同然の思いだろう。
だからニクスは、オルフェを失うのかもと恐怖し、自身への不甲斐なさと、そして獣への怒りに我を忘れた。
どうしようもなかった。
ニクスの気持ちは、カロンにも分かるものがあった。カロンとて、恩人の為なら命を張る覚悟がある。
ほう、とカロンは大きく息をついた。悔し泣きをするニクスを見つめる。
「ともかく、これで」と、カロンは声に出した。独り言のように呟いたが、ニクスへの労りの念も込めている。
「ケリがついたな」
色々あったが、オーガとゴブリンを倒し切り、ニクスも正気を取り戻した。
今は落ち込んでしまっているが、この若者は大丈夫だろう。またすぐに、いつもの明るさを取り戻すはずだ。
これで終わった。ようやくだ。
もう大丈夫。あとは村へと先生とクロトを連れ帰るだけ。
カロンはすべての緊張を解いた。
ただそれは、この森においてやってはならぬことだった。
安堵感に、体の痛みと疲労を委ね、カロンは油断した。
だからいきなり動いたそれに、頭がうまく回らなかった。
死んだふりをしていたのか、あるいは息を吹き返したのか。沢の中から起き上がり、駆け出したものがなんであるのか、その理解が遅れた。
それは真っ直ぐにオルフェの方へと向かっている。
「ん?」
カロンは虚を突かれ、体が反応できなかった。
「先生っ! クロトちゃん」
ニクスが叫びながら、一目散に追いかけていく。
ゴブリン――
カロンはここでようやく事態を認識した。慌てて腰を上げた。すぐにニクスの後に続く。
そして駆けながら理解した。ゴブリンがオルフェの方へと向かったのは、偶然ではない。明確な狙いがあった。
クロトだ。
大人のオルフェは無理でも、幼いクロトを脇に抱える程度なら、非力なゴブリンでも容易い。ゴブリンはただ逃げるだけではなく、この期に及んでも小賢しく、クロトを獲物として連れ去るつもりなのだ。
沢はまだ物の認識ができる程度の暗さだが、空を遮る森はとっくに闇である。森の茂みへと逃げ込まれれば、カロンとて見つけ出すのは至難の業だ。
カロンは体の痛みも忘れて懸命に駆ける。それよりもニクスの方が身軽だ。小柄な背中がぐんぐんと遠ざかり、ゴブリンへと迫っていく。
だがそれでもダメだ。ニクスも間に合いそうにない。
「先生!」
カロンは叫んだ。そうしたところで、怪我を負ったオルフェが動けるはずがない。幼いクロトが逃れるのも無理だ。分かっている。しかし――
「くそっ!」
カロンは込み上げる苛立ちに言葉を吐き捨てた。絶望感が、急激に心の中に広がった。
このままでは先生が! 嬢ちゃんが――
その時だった。
カロンの耳に微かな声が入り込んできた。
「ヴィント・ヴェーアデン・シャルフシュヴェールト・デン・ファイント・シュナイデン」
澄み渡るような美しい声。
そしていきなりだった。ゴブリンの動きが止まった。
オルフェたちまであと僅か。岸へと上がったところだった。
小鬼の頭が、ポトリと落ちた。首から下の痩せた体が崩れ倒れる。
かまいたちにやられたかのように、すっぱりとした切断面。大量の血があふれ出た。
カロンは足を止めた。ニクスもそうした。息を荒くしたまま、二人とも声のした方へと顔を向ける。
エルフだった。
彼女は沢の中に両膝をついたまま、今しがた倒れたゴブリンの方へと、伸ばした右腕を向けた姿勢だった。
疲労に顔を歪め、肩を大きく上下させている。
これが、マ法――
ゴブリンの首を切り落としたのは、エルフの放ったマ法だった。
カロンは思わず、乱していた息すらも飲み込んでいた。




