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(四)ノ28

 先生は?

 カロンはオーガを倒すと、すぐに沢の向こう岸側へと意識を向けた。

 左目を覆う血を拭うのももどかしく、開いているほうの右目だけを凝らす。

 オルフェはカロンが傍を離れた時から変わらずに、岸辺で体を仰向けに横たえたままの状態だった。

 ゴブリンに襲われた形跡はない。幼いクロトが、オルフェの傍らでちょこんと座っていた。

 そのクロトに慌てた様子は見受けられないが、果たしてオルフェの容体がどうなのか。ここからでは、伺い知るのが難しい。


「先っ――」

 カロンはオルフェの元へ駆け寄ろうとしかけて、それを思い留めた。

 まだだ――

 まだ、すべてが終わった訳ではない。今はとにかく、この場の安全を確実なものとするのが最優先だった。


 周囲を見渡す。立っているゴブリンは一匹としてなかった。エルフが、残っていた全てのゴブリンを仕留めたのだ。

 四十にも及ぶ小鬼の死屍累々の中で、沢に両膝をついて項垂れるエルフ。彼女は本当に多くのゴブリンを切った。

 体力が尽きたのだろう。美しく潔癖なエルフも、今はじゅうの返り血に肌を穢したまま、それを拭う気力すら残っていないようだった。

「助かったよ」

 カロンは口先で呟き、エルフに深く感謝した。彼女がクロトとどう関係するのか、それは正直、カロンにはどうでも良かった。

 ただ、はっきりとしているのは、彼女の介入がなければ、カロンだけではあの状況を打破するのは無理だったということ。

 だからカロンは、姿勢を正してエルフへと頭を下げた。


「さて、と」

 カロンは顔を上げると、鼻から息を抜いた。この沢の中にあって、いまだ忙しなく動く者がいる。

 低く唸る声。何かが、グシャ、グシャと潰されていく音。

 ずっと聞こえていたそれが、カロンを憂鬱にさせる。

 ニクスはまだ、狂気の中にあった。我を忘れ、執拗にオーガをいたぶり続けていた。

 仰向けに倒した巨躯は、その体の厚さだけで大岩ほどもある。ニクスはオーガのその胸の上で馬乗りとなり、顔面を何度も何度も殴った。

 殴る度に血がはじけ飛んだ。それはオーガのものだけでなく、ニクスのも混じっていた。自身の打撃の強さに、左右の拳の皮膚が破れていた。


 オーガの顔面は血だるまとなり、そして無残に変わり果てていた。顎が砕かれ、牙も抜かれ、鼻が折られ、目は両方ともが潰された。

 それでもなまじタフなだけに、オーガは死に切れない。

「アガツ、ガ……」と、ニクスに殴られる度に、苦しみに声を上げる。その悲痛な響きは、もう殺してくれと訴えているかのようだった。ただ、それがニクスの嗜虐心をより刺激してしまう。

「アハッ、アハ……」と、口元に笑みを浮かべて、ニクスは一心不乱に殴り続けた。


「もうやめろっ! やめるんだ、ニクス!」

 見るに堪えない光景に、カロンは無駄と思いながらも声を張った。やはりニクスには届かない。

 カロンは舌打ちをした。

「バカ野郎が」

 言葉を吐き捨てながら、大剣ツヴァイヘンダーを肩に担ぐ。そして沢の中を駆けた。


 体が鉛のように重い。先ほどまでの戦いで受けたダメージが、ずっしりと圧し掛かってくる。

 それでもカロンは力を込めて、地面を蹴った。

 オーガの胸の上へと飛び乗りながら、ニクスの背後から腕を伸ばした。ニクスはオーガをいたぶることに夢中で、周囲がまるで見えていない。

「このっ」

 カロンはニクスの後ろ襟を掴んだ。

「いい加減にしやがれ!」

「なっ?」

 ようやく気付いたニクスが声を上げる。抵抗する間は与えない。強引にニクスを、オーガの胸の上から叩きつけるようにして落とした。

 不意を突かれ、ニクスは受け身も取れずに沢の中に体を打ちつける。


 ニクスと入れ替わる形となったカロンは、間髪入れずにツヴァイヘンダーの柄を両手で握りなおした。大剣の刃を逆さまして構える。

 狙いをオーガの額へと定め、自身の体重を乗せて深く突き刺した。

 じゅうを殺すのに躊躇いはない。ただ、無用な苦痛を与える必要もなかった。

 頭蓋骨を破り、図体の割には随分と小さい脳を確実に貫く。断続的に上がっていたオーガのうめき声が止まった。


「邪魔するな!」

 ニクスが沢の中で上体を起こし、尻もちの体勢で抗議する。露わにした怒りは、突然おもちゃを取り上げられた子供のそれである。

「お前はっ!」

 カロンも感情的になった。大剣の柄から手を離し、声を荒げてオーガの胸からニクスの上へと飛び降りた。両手でニクスの襟元を乱暴に掴んで引き寄せ、額同士をくっつけるように顔を近付けて凄む。

「いったい何をしてるんだ!」

「うるさい!」

 ニクスは反抗した。カロンの手首を掴みながら立ち上がり、無理やり振りほどこうとする。単純な力比べなら、ニクスに分がある。

 ただ腕力に勝るからと、それが何だというのか。カロンには大したことではなかった。

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