超常生命体『壁』
正樹はうなされて跳び起きた。そして、窓から差し込む月光の薄明かりに照らされた、ログハウスの壁が、生き物のようにウネウネと蠢きながら、恐ろしい口のような裂け目を開けて、自分の方に覆いかぶさって来ようとしているのを見た。
「わぁーっ!」
正樹は悲鳴を上げて寝袋から跳び出し、隣に並んで寝ていた友人たちと教師を、次々に踏みつけながら大慌てで逃げた。踏みつけられた人たちは、
「うわっ!」
「なんだっ!」
「痛てっ!」
と、口々に叫びながら跳び起きた。
正樹はパニック状態で、
「壁がっ、壁がっ」と言いながら、彼を見つめる人々のあいだでうろたえていた。
「おい、正樹、どうしたんだ?」
「壁がどうしたって?」
「落ち着いて、何があったか説明しろっ!」
と、友人たちが正樹に声をかけたが、正樹はまだ混乱していて、
「壁……壁が……」と、譫言のように言いながら視線を泳がせていた。すると教師の鴇田が近づいてきて、正樹の両肩に手をかけ、
「永井、しっかりしろ。いったいどうしたんだ?」
と訊いた。それで正樹は少し落ち着きを取り戻し、
「……先生、壁が……」と言って、彼を恐怖のどん底に突き落とした壁の方を見た。
だがその壁は、木材を組みあげている、何の変哲もないログハウスの壁に戻っていた。
「壁がどうかしたのか?」
鴇田はできるだけ穏やかな声でそう訊いた。
「……壁が……動いて……口を開けて……襲いかかってこようとしたんです」
正樹は、どうか信じてほしい、という必死の目を鴇田に向けて、言った。
「悪い夢を見たんだな。……少しは落ち着いたか?気分はどうだ?吐き気や目まいはないか?」
「い……いえ……だいじょうぶです」
やはり信じてはもらえないか……。少し気落ちしながらも、正樹はそう答えた。
友人たちは正樹を見まもっていたが、そのうちのひとりの石井湊斗が声をかけてきた。
「正樹、安心しろ。お前に踏んづけられたことは忘れてやるから」
すると、高田大輝も、
「そうだ、安心しろ。お前が悪夢を見て、しょんべんを漏らしたことは仁藤綾音には黙っておいてやる」
広沢陸も、
「俺も仁藤には黙っておいてやろう。だが、阿部陽毬には話すかもしれん」
友人たちの言葉で、正樹は完全に自分を取り戻し、
「大輝、しょんべんは漏らしてないぞ!陸、阿部だろうが誰だろうが、女子にしゃべったらジャーマンスープレックスホールドをかます!」
鴇田は、
「よし、元気が出てきたようだな。眠れそうか?」
「は……はい……」
実のところ、とても眠れる気分ではなかったが、正樹としては、そう答えるしかなかった。
「よし、みんな、さあ寝よう。明日は早い」
鴇田の言葉で、皆、それぞれの寝袋にもぐりこみ始めた。
大輝が、この騒ぎにも関わらず、彼の隣の寝袋でぐっすりと眠りこんでいる加藤秀一を見て、
「こいつ、よく起きねえな。すげーな」と言った。
加藤は、正樹とは反対側の壁ぎわで寝ていたので、踏まれなかったようだが、それにしてもずっと目が覚めなかったのは少し驚きである。
「加藤は過眠症だからな。一度眠ると、ちょっとやそっとでは起きれなくなるって……」
加藤と同じクラスの石井がそう言った。
「そう言ってたな……。じゃあ明日の朝は無理なんじゃねえか?」
「かもな。でも気にしててもしょうがない。さあ寝よう」
加藤以外の者たちも、それぞれの寝袋に収まると、すぐに寝息を立て始めた。だが正樹だけは、とても眠れるものではなかった。自分のすぐ脇で、今は何事もなく静かに立っている壁が、気になってしかたがなかった。あれは夢ではなかった。自分は確かに、目が覚めたあとで、あれを見たのだ!
正樹はその後も一睡もできず、壁を気にしながらずっと起きていた。
そのうちにスマホの鳴る音が聞こえて鴇田が起き、
「みんな、時間だ。さあ起きるぞ。おい、広沢、起きろ。石井も。さあ、みんな起きろ!」
陸も湊斗も、そして大輝も、眠気と必死に戦いながら寝袋から抜け出してきた。正樹もむろん、すぐに寝袋から抜け出した。だが加藤だけは、やはりまだぐっすりと眠りこんでいるようで、寝袋の中で全く動こうとしない。
「おい加藤、早朝観察に行くぞ。起きろ、さあ起きるんだ」と、鴇田が起こそうとするが、加藤は、
「う〜ん……あと五分……五分だけ……」と、起きようとしない。
鴇田は湊斗に、
「石井、加藤の過眠症ってのはどの程度のものなんだ?」
「ナルコレプシーとかではないようですが、とにかく一度眠ってしまうとなかなか起きれないらしいです。専門医の指導を受けていて、生活習慣には気をつけているようですが、まだ時々学校にも遅刻して来ます」
「ゆうべ寝る前は、必ず起きるから起こしてくれと言っていたが……」
鴇田はそれからもなんとか加藤を起こそうとしたが、加藤は寝袋から出ようとしなかった。
「しかたがない、加藤は置いて行こう」
鴇田はそう言って、加藤以外の四人を引き連れてログハウスの外へ出た。外は早朝というよりはまだ未明で、東の空はいくらか明るくなってきているとはいえ辺りはほぼ暗闇である。全員がライトを手にしている。今は真夏だが、高原にあるこのキャンプ場はこの時間はとても涼しい。
外では鴇田の妻の優子と三人の女子が待っていた。彼女たちは隣のログハウスに泊まっていたのだ。
「遅かったじゃない」と優子が言うと、鴇田は、
「ごめんごめん、ひとりどうしても起きない奴がいて……さあ、それじゃあ行こう」
そして一行は、キャンプ場を囲む森の一角へと向かった。
正樹たちは、都内のとある高校の生物部の部員たちで、鴇田はその顧問なのである。鴇田の父親は不動産関係の会社を経営しており、このキャンプ場もその会社が運営していた。鴇田は、そのコネでキャンプ場に設置されているログハウスを優先的に借りて、毎年夏休みに、三年生の部員の希望者全員を自費で連れてきているのである。キャンプ場の周りに拡がる森は、昆虫などの野外観察に適した場所だった。
森の中に少しだけ入っていった場所に、白いシーツを広げ、それをライトで照らしている場所があった。ライトの電源は、キャンプ場からコードリールのコードを伸ばして取っていた。白いシーツには、様々な昆虫たちが集まっていた。
「お、ルリボシカミキリがいるぞ」
「こっちにはオオミズアオがいるわ。なんて幽玄な色……」
「おい、こっち!ミヤマだ、ミヤマクワガタがいる!」
少年少女たちは、しばし夢中になって集まった昆虫たちを観察していた。昆虫は、よほど珍しい種でもなければ、採集せずに逃がしてやる。この日も特に希少種は見つけられず、昆虫たちの写真を撮って記録をつけ、朝日が尾根から顔を出す前に撤収を始めた。
一行は、駐車場に停めてあるマイクロバスに、撤収した機材などを積んで、ログハウスの前に戻ってきた。
「加藤のやつはまだ寝てるのかな?」と、鴇田が言うと、
「俺、ちょっと見てきます」と湊斗が言って、ログハウスの中に駆けこんでいった。彼はすぐに戻ってきたが、血相が変わっていた。
「先生、加藤がいません!トイレの中にも」
鴇田の顔色も変わった。「なんだって!」
鴇田はログハウスの中に跳びこんでゆき、ほかの者もそのあとに続いた。
加藤はやはりいなかった。彼の寝袋は残っているが、その中に彼の姿はない。寝袋と壁のあいだにスマホが転がっている。
「スマホも持たずにいったいどこへ行ったんだ?」
鴇田が首をひねる。
「とにかく、みんなで手分けして捜しましょう」
優子が言い、全員がキャンプ場に散らばっていった。
太陽が顔を出し、陽光があたりを照らし始めた。
みんなで大声で加藤を呼んで捜していると、ほかのログハウスやテントの中から、キャンプに来ていたお客さんたちが何事かと出てきた。鴇田が事情を説明すると、彼らも加藤の捜索に加わってくれた。
だが加藤は姿を現さない。
「森の奥へ入って行っちゃったのかしら?」
「そうだな……。森の奥へは何本かの遊歩道が伸びている。すっかり明るくなったし、手分けしてそっちの方を探してみるか……」
鴇田と優子がそう話していた時だった。加藤が、元のログハウスからひょっこりと出てきたのである!
一番近くにいた大輝がそれに気づき、
「先生、いました!加藤 がいました!」と、鴇田を呼んでから、加藤に駆け寄った。
「加藤、どこ行ってたんだ?みんな心配したんだぞ!」
だが加藤はきょとんとした顔で、
「え……?いや…どこにも……」
加藤と大輝の元に、鴇田と優子が駆け寄ってきた。
ほかの部員たちも、捜索に協力してくれた人たちも、続々と集まってくる。鴇田は加藤に、
「加藤、いったいどこにいたんだ?……いや、まあ、とりあえず良かった。詳しいことはあとで聞く」と言ってから、周りの人たちに、
「お騒がせしてたいへん申し訳ありませんでした。この通り見つかりました。捜すのを手伝っていただき、ほんとうにありがとうございました」と言って頭を下げた。優子もほかの部員たちも、皆、頭を下げて、礼を言った。人々は、よかったよかったと口々に言いながら、散っていった。ただ加藤だけが、相変わらずきょとんとした顔で突っ立っていた。
加藤は、自分はログハウスの中にいて、どこにも行かなかった、と言った。鴇田はそんな加藤を責めることはなく、
「先生が悪かった。やはりお前を残しておくべきではなかった。何としても起こして一緒に連れて行くべきだった。起きた時に、たったひとりで残されているのを知って、心細い思いをしたんだろう」と、逆に謝った。
そんな鴇田を正樹は、この先生は本当にいい先生だな、と思った。
鴇田は歳よりずっと若く見えるが、五十代半ばのベテラン教師である。優子とのあいだに子宝には恵まれなかったようだが、そのぶんこうして生徒に愛情を注いでくれる。
「さあ、それじゃあ朝食にしましょう。食べ終わったら、すぐに帰り支度を始めるわよ」と優子が言い、部員たちはお湯を沸かし始めた。ゆうべはバーベキューで、皆、たらふく食べたので、今朝はカップ麺で軽くすませるのである。
朝食を食べながらの会話では、昨夜正樹が起こした騒ぎが話題になってしまった。陸が、正樹が悪夢に驚いて、小便を漏らしながら全員を踏みつけてまわったと、あることないこと女子部員たちに喋ってしまったのだ。正樹はもちろん怒って、
「おい、陸!俺に背中を見せるなよ。ジャーマンスープレックスでフォールしてやる!」と言った。
だが陸は涼しい顔で、
「フッフッフッ、残念だったな正樹。俺が、恋のライバルをひとり減らすためなら、ジャーマンスープレックスを喰らう危険くらいは冒す男だということに気がつかなかったお前の負けだ」
正樹も陸も、学年一の美少女という呼び声の高い仁藤綾音に恋心を抱いていたのだ。
「まったく、どいつもこいつも綾音綾音って……。ここにもこんなに可愛い女子が三人もいるっていうのに」
そう言ったのは、女子部員のひとりの阿部陽毬である。彼女は綾音と同じクラスであり、しかも非常におしゃべりな女子だった。彼女に知られたことは、綾音の耳にも入ると思って間違いなかった。
「そうだ、正樹、この際だから、三人のうちの誰かを選べ」と、陸。すると陽毬がすかさず、
「ちょっと!私たちにも選ぶ権利があるわよ!」
正樹はがっくりとうなだれて、
「う……今日の俺は、なんでこんなにディスられなければならんのだ?」
すると大輝が、
「みんなを踏んづけたバチだろう。先生まで踏んづけたんだから」
湊斗も、
「今後は、悪夢を見たぐらいで人に危害を加えないようにすることだな」と、正樹をディスってくる。
正樹は思わず加藤に助けを求めた。
「加藤〜。お前は俺の味方になってくれるよな?お前だけは踏みつけなかったんだから」
だが加藤は、またしても きょとんとした顔で、
「え……?……あ……うん……」と、生返事を返してきた。
正樹は、今朝の加藤は少しおかしいな、と思った。
少し肥満気味のからだに愛嬌のあるまるい顔を乗せている加藤は、友達から苗字で呼ばれることが多い。
「なんか、加藤って名前のやつは、苗字で呼びたくなるんだよな」と湊斗が言っていたが、ほんとうにそうなのかどうかは正樹にはわからない。ただ、加藤は、なんとなく加藤と呼びたくなる男だった。
穏やかな性格で、いつもニコニコしている。育ちがいいのだろう。大きな邸宅で、祖父母と両親、妹の六人家族で暮らしている。正樹も何度か遊びに行ったが、家族全員が皆ニコニコして迎えてくれた。もっとも、加藤の祖父はたちの悪い癌に取り憑かれていて、最近、積極的な治療をやめて、緩和ケアを中心とする療養になったという。加藤もさすがにそのことを話すときは沈痛な表情だったが、普段は笑顔を絶やさない、人当たりのいいやつなのだ。
だが今朝の加藤は、ほとんど笑顔を見せず、なんだかぼんやりしているように見える。普段から口数は少ないのだが、こんな時はにっこりと笑って、「僕でよければ味方になるよ」くらいのことは言ってくれるやつなのだ。
大輝も加藤の様子に気がついたのだろう、
「加藤、今朝はなんだか元気ねえな。どっかぐあい悪いのか?」と訊いた。
加藤は、意外なことを訊かれて戸惑っている、という感じの表情で、
「え?……いや……どこも……」
大輝は少しのあいだ加藤の顔をじっと見つめていたが、
「まあいいや。加藤だってそういう時もあるだろう。……ところで、今回のレポート、約束通りおまえんちでまとめていいんだよな?」
すると加藤はようやく笑顔を見せて、
「もちろんだよ。みんなでウチに来てよ」と言ったが、正樹にはその笑顔がいつもの加藤の心からの笑顔ではなく、なんだかつくり笑いのように見えたのだった。
鴇田はレンタカーのマイクロバスを運転し、全員をそれぞれの家まで送ってくれた。正樹は昨夜の睡眠不足のせいで車内で爆睡し、起きた時は家に着いた時だった。車内に残っている部員は、正樹のほかは大輝と女子部員ひとりだけになっていた。
正樹の家は一戸建てで、この家で両親と妹の瞳と四人で暮らしている。加藤の家と比べると悲しいほど小さな家だが、正樹と瞳にそれぞれ部屋も与えられていて、正樹には愛着のある家である。
鴇田と優子に礼を言い、大輝と女子部員に、じゃあまた、と言って、正樹は家に入った。
両親はどちらもまだ仕事から帰ってきていない。瞳は自分の部屋にいるようで、ドアから音楽が漏れている。正樹がドアの外から自分が帰ったことを告げると、ドアの向こうから、「おかえりー」という声が聞こえてきた。顔を出さないのはいつものことであり、正樹も自分の部屋に入る。
六帖の小さな部屋に、ベッド、机、衣装ケースなどが置いてあり、残るわずかなスペースも、ドアと机、ベットを結ぶ動線以外は、漫画本や雑誌、雑貨などが占有している。
正樹はベッドにからだを投げ出すと、ゆうべ見たもののことを考えた。
あれは一体なんだったんだろう?……夢ではなかった。自分は確かに、目が覚めたあとであれを見たのだ。だが、やはり現実のものだったとも思えない……。
幻覚のようなものではなかったのだろうか?
正樹は今まで幻覚を見たことはない。むろん、幻覚を見るような精神疾患があるわけでもない。だが、正常であっても、幻覚を見ることがあるのではないだろうか?
幻覚を見た原因について思い当たることはない。強いて言えば 、あの時起きる直前、ひどくうなされていた気がする。ただ、何か夢を見ていたのかどうか、全く記憶がないのだが、何かひどく恐ろしい夢を見ていて、それが原因で、起きたあとも精神状態が不安定で幻覚を見てしまった、という可能性はないだろうか?
正樹はそれ以上納得のいく考えを推し進めることはできなかったが、ともかくあれは現実のものではなかったのだ、と自分に言い聞かせようとした。だが……
――もしあれが現実だったとしたら……
正樹はその考えを振り払い、自分の部屋の壁を見つめた。
お気に入りの、男性アーティスト、女性アイドルグループ、アニメのキャラクター、レーシングカー、バイク、といったポスターやら写真やらが貼ってある。落ち着いた色調の壁紙の大半を覆い隠して、ごちゃごちゃした感じになっているが、正樹にはこれが落ち着く眺めなのだ。
だか不意に、その壁が襲いかかってくるイメージが湧いて、正樹は上体を起こした。
正樹は深く息を吸ってそれを吐き出すと、もう一度部屋の壁を見まわした。
馬鹿な……。そんなことが起こるわけがない。ここは安全な、自分の部屋なのだ……
それから十日余りが過ぎた。
正樹は家族と共に、静岡から帰ってきた。静岡市近郊に住んでいた正樹の母方の祖父がくも膜下出血で急逝したのだ。葬儀を滞りなく終え、帰宅すると、少し気落ちしている母が、正樹に言った。
「加藤君のおじいちゃんは、元気になったっていうのにねぇ」
正樹は驚いた。加藤が一緒に暮らしている彼の祖父は、末期癌で、余命いくばくもないはずだった。訪問診療や訪問看護による緩和ケアを受けながら、自宅で療養しているという話だった。
「え?どういうこと?……加藤のおじいちゃんが元気になったって……癌が治ったっていうこと?」
「そうよ。あら、あんたは当然知っていると思ったのに……」
母の話によると、加藤の祖父は、自宅療養中に急に元気になり、病院での検査の結果、癌が完全に消失していることが分かったという。正樹の家の近所に、たまたま加藤の祖父の訪問看護を請け負っている看護師がいるのだが、その人から直接聞いたので、間違いないだろうという。その人が、数日前に訪問した時、加藤の祖父がピンピンして歩いているのを見てびっくりして、訪問診療の医師と電話で相談したのち、病院に連れて行き、検査を受けさせたのだという。
母は、その話を聞いた直後に、自分の父の訃報が来て、そちらのことで頭がいっぱいになってしまったのだが、帰宅して一息ついて思い出したのだという。
正樹は驚くと同時に、疑問を抱いた。加藤はなぜそんな大事なことを教えてくれなかったのだろう?
このあいだの、キャンプ場での生物部の合宿のレポートをまとめる作業を、一昨日に加藤の家で行うことになっていたのだが、その前日に祖父の訃報が届いたため、正樹は加藤の家へは行けなくなってしまった。ただ、その時の加藤の家の様子は、スマホに届いていた。レポートは一時間ほどでまとまり、そのあとは打ち上げで盛り上がったようだ。
加藤の家では、大画面テレビでのゲームができたり、卓球台やビリヤード台も置いてあって、楽しい時間を過ごせるのだ。レポートを彼の家でまとめるのも、実はそちらの方が目的なのである。
だが、加藤の祖父のことについては、何も知らされていなかった。
すぐに対話アプリで連絡を入れる。
〈加藤のおじいちゃん、癌が治ったんだって?〉
すぐに返信が来た。
〈うん、元気になったよ〉
〈どうしてすぐ教えてくれなかった?〉
〈ごめんごめん、正樹のおじいちゃん、大変なことになったろう。だからちょっと知らせにくかった〉
そうか、気を遣ってくれたのか、と正樹は思った。
加藤は、こちらの祖父が亡くなったのに、自分の祖父が元気になったとは知らせられなかったのだろう。
〈気を遣ってくれたんだね。でもすごいね。末期癌が治るなんて〉
〈うん、テレビ局や新聞社が取材に来たよ〉
さすがにニュースにもなったようだ。静岡では葬儀の準備やら何やらでずっとバタバタしていて、ニュースに触れる機会もなかった。
〈どうして治ったのか、お医者さんは 何か言ってた?〉
〈不思議だ不思議だと、首をひねっていたよ。現代の医学でも解明できないことが起こるんだなぁって〉
現代の医学でも解明できないことか……。そんなことが身近に起きるとは……
その時、自分を襲ってこようとしたログハウスの壁のことを思い出し、正樹は慌ててそれを振り払った。
〈加藤の家での打ち上げは盛りあがったみたいだね〉
〈うん、みんなでゲームをしたりして、楽しんだよ。女子三人はそのあと帰ったけど、湊斗と大輝と陸はウチに泊まっていったよ〉
〈そうか〜。俺も参加したかったよ〉
〈近いうちに、正樹もウチに泊まりに来るといいよ〉
加藤の気遣いをありがたく思った正樹だが、それに甘えるべきではないだろう。
〈ありがとう、でも、これからお互い受験勉強に本腰を入れなきゃならないしね。受験が終わったら十連泊くらいさせてもらうよ〉
すると加藤は、
〈受験は長い人生のひとつのイベントに過ぎないよ。ウチに泊まっていけば、肩の荷が下りると思うよ〉
そう言われると、正樹としても反発したくなる。
〈確かにひとつのイベントに過ぎないけど、今はそのイベントに全力を傾ける時期だろう〉
加藤はそれに特に反論することもなく、
〈まあ、そうだね。でも、ウチに泊まりたくなったら、いつでも来ていいからね〉
〈ああ、ありがとう〉
加藤とのスマホのやり取りを終えて、少ししてから、あれ?でもやっぱり少しおかしいな、と正樹は思った。
加藤は、自分の祖父の癌が治ったことを知らせなかったのは、正樹の祖父が亡くなったことを知ったからだという。だが、正樹が知らせる数日前に、加藤の祖父は元気になっていたはずなのだ。
なぜすぐ知らせてこなかったのか……?
それと、スマホに残っている彼の文章を見ていて、少し気になったことがあった。先ほどは、受験は長い人生の云々という文章に目がいって気がつかなかったが、そのあとの、彼の家に泊まると肩の荷が下りる、とはどういう意味だろう?
正樹はもう一度聞いてみようかと思ったが、すぐにまた連絡を入れるのは少し気が引けるので、湊斗に連絡してみることにした。
〈加藤のおじいちゃんの癌が治ったってこと、知ってた?〉
これもすぐに返信が来た。
〈もちろん。加藤の家に行った時、ピンピンしてる姿を見たよ〉
〈その前に、加藤から報告が来た?〉
〈いや、加藤としては、実際に元気になったおじいちゃんを見せて、報告したかったんだろう〉
そうなのか……。自分なら、末期癌が治るなんていう奇跡を目のあたりにしたら、すぐにみんなに知らせようと思うんだけどなぁ、と正樹は思った。が、加藤は違うのだろう。釈然としないものは残るが、湊斗もまったく問題視していないようなので、このことをこれ以上追及するのはやめることにした。
〈そうなんだね。ところで、加藤が、ウチに泊まりに来ると受験の肩の荷が下りる、と言ってたんだけど、どういう意味だろう?〉
〈それは、加藤の家に泊まってくればわかるよ〉
正樹は、自分に呆れてしまった。この質問を湊斗にしてどうする?
〈そうだね、ごめん、変なこと聞いちゃった〉
正樹は、自分が少し神経質になっているような気がした。どうでもいいようなことを気にしすぎているのではないか?加藤もそんなに深く考えず、文章を綴ったのだろう。正樹はこのことはもう気にしないことにした。
夏休みが終わり、二学期が始まった。三年生は大学受験に向けて追い込みの時期である。三年生の部活動はだいたい終わり、正樹も生物部の部室に行くことはほとんど無くなった。生物部の友人たちとはクラスが違うため直接会う機会が減り、スマホで連絡を取り合う程度になっていた。正樹の現在の実力では、志望大学に合格するのはかなり厳しい状況なので、勉強に本腰を入れねばならず、友人たちとのつき合いが減ったことをさほど苦にすることもなかった。
そして、九月を一週間ほど過ぎたある日、瞳が、友達の家で泊まりで勉強会をやる、と言って出かけ、翌日帰ってきた。瞳も中学三年生で、来年受験である。
さらに時が流れ、明日土曜日から敬老の日まで三連休になるという日の夜、正樹はうなされて目を覚まし、そして目を疑った。
習慣で、シーリングライトの常夜灯を灯して寝ているのだが、その薄明かりの中、正樹はまたしても見てしまったのだ!
部屋の壁が、生き物のようにウネウネと蠢き、恐ろしい口のような裂け目を開けて、自分の方に覆いかぶさってこようとしていたのである!壁に貼ってあるポスターや写真も、その生き物の一部と化しているようだった。
「わぁーっ!」
正樹は悲鳴をあげてベッドから跳び出し、部屋を跳び出て、階段を転がるように降りてゆき、両親の寝室へと跳び込んだ。だがそこでもまた、正樹は驚愕の光景を目にしたのである!
廊下から差し込む光によってほの明るく照らされた部屋の壁が、生き物のようにウネウネと蠢きながら、今まさに両親を呑み込もうとしていたのである!
「父さん!母さん!」
正樹は両親に向かって叫んだ。両親は、自分たちを呑み込もうとしている壁に抗うでもなく、目を閉じて脱力しているようだった。眠っているのか、それとも、もう……
「父さん!母さん!」
正樹はもう一度両親を呼び、ふたりを助けに向かおうとしたが、足がすくんで思うように動けなかった。
やがて両親は、すっかり壁に呑み込まれてしまった。両親を呑み込んだ壁は、しばらくウネウネと動いていたが、やがて何事もなかったように、ただの平らな普通の壁に戻ってしまった。
正樹はいつのまにか腰を抜かし、その場にへたり込んでしまっていた。心臓は早鐘のように打つが、顔から血の気が引いて、正樹は何も考えられなくなってしまう。ただ本能が、危険から遠ざかろうとからだを動かし、正樹は部屋から這い出した。
と、そこへ、誰かが階段を降りてくる音が聞こえてきた。瞳だ!正樹はそれで頭が働きだし、からだも動かせるようになった。正樹は立ち上がると、階段をゆっくり降りてきた瞳に、
「瞳、大変なんだ!父さんと母さんが――」
だが正樹は、瞳の様子が何か変だ、と感じた。瞳は、正樹があげた悲鳴や階段を駆け下りたりした時の音を聞きつけて、部屋から出てきたはずなのだ。普通なら階段を駆け下りてきて、「どうしたの?お兄ちゃん」と訊くものではないだろうか?だが瞳は落ち着き払って階段降りてくると、
「だいじょうぶよ、お兄ちゃん。」と言った。そして、つくり笑いのような笑顔を見せると、
「怖がることは何もないのよ。さあ、自分の部屋に戻って、安心してゆっくり眠るのよ」
瞳の笑顔を見て、正樹は、夏休みのキャンプ場の朝、加藤が見せた笑顔を思い出した。加藤の笑顔も、今、瞳が見せたようなつくり笑いのような笑顔だった……
そして、正樹の頭の中でひとつの筋立てが組み立てられていった。
あの朝、ログハウスでひとりで寝ていたはずの加藤は、一時行方をくらましたのだ。あの時加藤は、ログハウスの壁に呑み込まれていたのではなかったのか?
その後、姿を現した加藤は、どこか様子がおかしかった。壁に呑み込まれて、何かが変質してしまったのではないだろうか?
キャンプ場から家に戻った加藤……。加藤の家はどうなったのだろう?もしかしたら、ログハウスと同じように……
そして瞳だ……。瞳は十日ほど前、友達の家で勉強会をやると言って出かけ、ひと晩泊まって帰ってきたのだ。
――ああ!瞳の友達……そのひとりは、加藤の妹なのだ!瞳と加藤の妹は、中学で同じクラスなのである。瞳が泊まってきた家は、加藤の家なのだ!
瞳は、加藤の家で壁に呑み込まれた……?
そして、瞳も加藤のように変質し、家に戻ってきた……
――ああ!そして……
この家もログハウスと同じように……
「お兄ちゃん、どうしたの?ほんとに何も怖がることはないのよ」
瞳がそう言って、正樹のほうに一歩近づいた。だが正樹は、逆に一歩あとじさった。こいつは瞳じゃない!……そしてこの家も……
正樹は周りの壁を見まわした。
――もう元の家じゃないんだ!
家中が襲いかかってきそうな気がして、正樹の恐怖は絶頂に達した。心臓は先ほどよりもっと早鐘のように打ち、気が遠くなりそうになるが、正樹は必死に足を動かし、玄関に向かって駆け出した。
玄関を跳び出し、なおも全力で駆け続ける。やがて息が続かなくなり、立ち止まると、両膝に手をついてハァハァと荒い息をした。
喉がカラカラだった。近くの児童公園へ行き、水飲み場の水を飲む。それで少し落ち着き、正樹はベンチに腰を下ろした。
夜の公園は、子供はもちろん、誰の姿もない。
――どうしよう……
これから いったいどうしたらいいのだろう?
警察に駆けこむか?……だがこんな話を信じてくれるだろうか?
警察だろうが誰だろうが、とても信じてもらえそうな話ではなかった。
ではどうしたらいいだろう?
考えが堂々巡りし、結論を出すことができなかった。
スマホも財布も持ってきていない。靴は履いていた。無意識に履いて出たようだ。服装は寝ていた時の服装――Tシャツに短パンである。
今は九月の半ばを少し過ぎたあたりで、この格好でも寒くはない。だがスマホも財布もないというのは、あまりにも心細かった。
――家に取りに戻るか……?
だが先ほどの恐怖心がよみがえってきて、とても戻る気になれない。
――ああ、どうしよう……
正樹は頭を抱えた。こんな時、頼りになるやつは……
友人たちの顔が浮かぶ。ああ、だが……
湊斗も大輝も陸も、加藤の家に泊まっているのだ!
生物部以外の友人もむろん何人かいるが、家を訪ねたことのある者はなく、住所も分からない。むろん、連絡を取る手段さえない。
スマホがなくても、住んでいる所が分かっている人……
真っ先に思い浮かんだのは、父方の祖父母の家だった。祖父祖母共に健在で、歩いても二時間くらいで着けるところに住んでいる。一時的な避難先としては最も有力だが、事情をうまく説明しないと、正樹の家に連絡されてしまうだろう。
それに関連して、小学生の時の友達、タッちゃんのことが思い浮かんだ。正樹は小学生の高学年まで、父親の実家である祖父母の家で暮らしていたのだが、その頃一番の友達だったのがタッちゃんなのだ。
とてもいいやつで、よく遊びに行ったので家もよくわかっている。彼の両親もふたりの姉も、とても優しい人達である。
正樹がこちらに引っ越して来てからも、しばらく連絡を取り合ったり、祖父母の家に遊びに行った時に会いに行ったりしていたのだが、中学も高校も別になり、最近は疎遠になってしまっていた。
だが、正樹が突然訪ねて行っても、家に招き入れてくれる可能性は高そうだった。ただ、今の正樹の力になってくれるかというと……
だがとにかく、祖父母やタッちゃんの家のある方へ向かって、歩き出すことにした。あの辺りなら土地カンもある。両親や瞳が追いかけてきそうで、ここでじっとしていることはできなかった。
今、何時くらいなんだろう?
正樹は空を見上げた。
都会の灯を反射してわずかに赤みを帯びた灰色の雲が、夜空の半分以上を覆っている。月は見えないが、星はいくつか瞬いている。だが何時なのかはまったくわからない。
正樹が昨夜寝たのは、十一時半ころだった。その後、あの恐怖の目覚めを迎えるまで、そんなには眠っていない気がする。だとすると、今は零時半か一時ころか……
向こうには、三時くらいには着いてしまうかもしれない。まだ夜中といっていい時間である。まあ、朝まで時間を潰すことはできるだろう。とにかくここでじっとしていることはできない。
大きな通りはなるべく避けて、できるだけ裏通りを歩く。この時間の住宅街はさすがに人通りが少なく、車もたまにしか通らない。だが、なんだか追われてるような気がして、正樹は時々うしろを振り返った。
ああ、どうしてこんなことになっちゃったんだろう?なぜ家の壁があんなふうに……
だがいくら考えてもわかるわけがない。こんな、ホラー映画のようなことが実際に起こるなんて……
ああ、あのログハウス、あのログハウスはいったい……?
その時、正樹はふと、自分たちの前やあとに、あのログハウスに泊まった人たちがいたのではないかと思った。もしその人たちも壁に呑み込まれていたとしたら……
その人たちの家も……
そして、その家に泊まった人たちも、その人たちの家も……
そんなふうに、人と家が変質しながらまるで感染症のように拡がっていっているとしたら……
正樹は周りの家々を見まわした。この家のいくつかも、もうすでに変質しているのだろうか?ああ、それは、どれくらい拡がっているのだろう……?
変質した人は、見た目ではまったくわからない。生活態度も、そんなに変化しないようだ。瞳は、加藤の家から帰ってきてから十日ほど、普通に生活していた。少しぼんやりしていることが多いという印象はあったが、この年頃の女の子の気持ちの浮き沈み、という程度にしか見えなかった。
加藤も普通に学校生活を送っていたようだ。湊斗も大輝も陸もだ。ただ、たまに会った時の会話とか、スマホでのやり取りとかに、微妙な違和感を感じることはあった。しかしそれも、日々の生活の中ですぐに忘れてしまうようなささいなものでしかなかった。
変質した家も、人を呑み込まない時はまったく普通の家である。壁に襲われるまで、正樹は家が変化していることにまったく気がつかなかった。
変質した人も家も、社会に気づかれることなくひそかに拡まっていっているとしたら……
正樹は目の前が真っ暗になる思いで、それでもなんとか歩き続けた。歩き続けるしかなかった。
どれくらい歩いただろう、不意に人影が横の路地から跳び出してきて、正樹は立ち止まった。その人も正樹に気づいて、こちらを見た。
その人の顔を見て、正樹は驚いた。街灯の明かりの下、その愛らしい顔がはっきりとわかる。
――仁藤綾音!
それは、正樹の憧れの女子、仁藤綾音ではないか!
綾音は泣いているようだった。たがすぐにうしろを向いて手の甲で涙を拭うと、また正樹のほうに振り返り、
「あなた、生物部の永井君だったわね」
あ、俺のこと憶えててくれてる、と正樹は嬉しくなった。学園祭の生物部の展示の時などに言葉を交わす機会があり、憶えていてくれたようだ。が、とっさのことで言葉が出てこない。
だが綾音はかまわずに話しかけてくる。
「陽毬から夏休みのキャンプの時の話を聞いたわ。悪夢を見て錯乱して、オシッコとウンチを漏らしながら周りの人にドロップキックを喰らわしてまわったって」
げ!話に尾鰭が付き過ぎてる……
「あ……阿部のやつ……」
すると綾音はコロコロと可愛らしく笑いながら、
「だいじょうぶよ。わたし、あのコの話、いつも半分ぐらいしか信じてないから」
「は……半分どころか全部違ってる!悪夢を見たっていうのも――」
だがそこで正樹は言葉を詰まらせた。あれは夢ではない、現実だったのだ。今ははっきりそう言える。だが、あの話を綾音にしても信じてもらえないだろう……
「永井君って、面白そうな人だわ。学園祭の展示の説明も、丁寧で印象良かったわ」
お……なんかいい感じの言葉が……
「そ……そう?に……仁藤さんだったから、特別に丁寧に説明したんだよ」
「わたしだから?陽毬が、永井君わたしに気があるって言ってたけど、ほんと?」
綾音は小首をかしげて、にっこりと笑う。
可愛い。別格の可愛さである。テレビに出てくるアイドルの女の子でも、彼女より可愛い子はあまりいない。顔が可愛いだけでなく、しぐさも喋り方もいちいち可愛い。どうしたら自分が可愛く見えるか、意識してやっているのかもしれないが、わざとらしい感じはほとんどしない。
「に、仁藤さんに気がない男子なんていないよ。それより、仁藤さん、泣いてたみたいだけど、何かあったの?」
すると綾音は顔を曇らせて、
「うん……ちょっとね」
だがまたすぐにとびきり可愛い笑顔を見せると、
「そうだ、永井君に聞いてもらおうっと。一緒に来てくれる?」
綾音はそう言うと、顔だけこちらを向けたままからだの向きを変える、これまた可愛いしぐさを見せてから歩き出した。綾音に一緒に来てくれる?と言われて一緒に行かないわけにはいかない。正樹はもちろんついて行く。
「どこに行くの?」
綾音は指をうしろで組んでくるりと振り向き、うしろ歩きをしながら、
「ママのお店。わたしのママのカラオケショップが向こうの通りにあるの」
「カラオケショップ……こんな時間にやってるの?」
綾音はまたくるりとからだを反転させて進行方向に向き直り、ただ顔だけ横に向けて、
「ううん、営業時間外よ。でも、だから行くの」
そのカラオケ店の入口は、やはりシャッターが下りていた。綾音が店の裏手にまわり込んでゆくのでついて行くと、もうひとつ小ぶりなシャッターがあった。
「ここは従業員用の出入口なんだけど、このシャッターは顔認証で開けることができるの。そして、私の顔も登録されてるの」
綾音が機器に顔を向けてボタンを押すと、シャッターが自動で上がっていった。
「さあ、入って」
シャッターの奥のドアを開けながら、上体をひねるようにして顔をこちらに向け、綾音が言った。これも自動でついた照明が、微妙な陰影をつけてその顔を照らし、可愛いだけでなくどこか妖艶な雰囲気を醸している。中に入ると綾音は、
「この建物、木造建築なんだけど最新の技術が使われてて、防音、防火、耐震性に優れているのよ」
「へぇ、木造なんだ。なんか、温かみを感じるね」
「でしょう」
綾音は個室のひとつに正樹を招き入れた。テーブルを挟んで向かい合わせにソファーがあり、奥の壁に大きなスクリーンがはめ込まれている。テーブルの上にはリモコンやマイク、典型的なカラオケ店の個室である。
「店が空いてる時とか、こういう営業時間外には、わたし、自由に使っていいことになってるの」
それから綾音は正樹の格好をまじまじと見て、
「永井君、もしかして完全に手ぶら?」
正樹はきまり悪そうに苦笑しながら、
「う、うん、ちょっと事情があって、何も持たずに出てきちゃったんだ」
綾音はあごの下に指を当てるポーズをつくって、
「あ、家族と喧嘩して、ウチを跳び出してきちゃったのね」
「あ……まあ、近いかな……」
「それで、どこへ行こうとしてたの?こんな時間に、まったくの手ぶらで」
正樹は祖父母の住んでいるあたりの地区名を告げて、
「そこに父親の実家があって、おじいちゃんとおばあちゃんが住んでいるんで、とりあえずそこに行こうかと……」
「あ、けっこう近くなのね。永井君、歩いてきたってことは、永井君のおウチもけっこう近くなのね」
「わりと近いかな。……でもここまでけっこう歩いたけど。……そうだ、今何時くらいかな?」
綾音はスマホを見て、
「今、二時半を少し回ったところよ。急ぐの?」
「いや、逆。朝までどうやって時間を潰そうかと思ってたんだ」
「じゃあここで時間を潰すといいわ。……あ、これ、飲み物を選んで。わたし、飲み物もタダなの」
綾音はメニューを開いて正樹に渡した。
「ホント?ありがとう」
綾音は、正樹の選んだものと自分の分のソフトドリンクの入った、大きめの紙コップふたつを持ってきた。
なんだか思いもかけないラッキーな展開になってきたぞ、と正樹は思った。あの、奈落の底に突き落とされるような恐怖の出来事がきっかけで、こんなラッキーな展開になるとは……
ただ、あの出来事の衝撃を思うと、この幸運も手放しでは喜べなかった。はたしてこの先自分は家に帰ることができて、元の生活を送ることができるようになるのだろうか……?
綾音は正樹のそんな心の奥の暗雲を知るよしもなく、正樹と向かい合うようにソファーに座って、紙コップの中身をストローでかき回しながら、自分の話を始めた。
「わたし、今日とってもショックなことがあって、寝ようと思ってもぜんぜん眠れなくって、それで、ここで二、三曲歌ってストレス発散しようと思ったの」
「ショックなこと?」
「うん……そうなの」
綾音は少し言いよどむように間をあけてから、
「わたしね、彼氏いるんだけど……」
え?そうなのか、と正樹は思った。綾音の彼氏の噂は聞いたことがなかった。
「他校のコなの。誰にも話さず内緒にしてたの。彼氏いないと思われてたほうが男子チヤホヤしてくれるし」
う……意外とあざとい。
「すっごいイケメンのコなの。陸上やってて、インターハイにも出場したコなの。頭も良くって、東大目指してるの」
くそっ、三拍子揃ったやつか……。綾音のハートを射止めるやつはそういうやつなんだな。
「でもね、その彼が、今日……」
綾音の目にみるみる涙が溜まってきた。涙目も可愛い。
「なんか、ぎこちない笑みを浮かべて、ウチに泊まりに来ないか、一緒に寝ようって言うの」
その言葉に、正樹はハッとした。
「今日は会ってから、なんだかぼーっとしてることが多いな、と思ってたら、いきなりそう言うのよ。そんな人だと思わなかった……。わたし、ほっぺたを思いっきりひっぱたいて、彼を置いて走って帰ってきたの」
いきなり実力行使か……。意外と気が強いんだな。
「でも……」と、綾音はまだうるうるしている、そして吸い込まれるような瞳を正樹に向けて、
「男の人ってそういうものなのかしら?愛する女を早く自分のものにしたいっていう……。永井君、どう思う?」
そういうことか。綾音としてはまだ彼に未練があるのだ。三拍子だもんなぁ……。それで、彼とよりを戻すことを自分に納得させる言葉を、男の俺から引き出したいのだ。
まあ、男ってのはそういうもんだよ、彼を許してやんなよ。そんなふうに言ってやれば、綾音は喜ぶだろう。だが正樹は、綾音の彼の言動に、不穏なものを感じていた。
「仁藤さん、どうか落ち着いて聞いてほしい。君の彼は、壁に呑み込まれちゃったんじゃないかと思う」
さすがに綾音は目をまるくして、
「えっ?カベって言った?呑み込まれた?……どういうこと?」
「夏休みのキャンプ場で、俺は悪夢を見たわけじゃない。あれは現実だった。俺は、壁に襲われて呑み込まれそうになったんだ」
「カベって……」
綾音は部屋の壁に目をやって、
「こういう壁のこと?」
「そう、キャンプ場のログハウスの壁だ。その壁は、そこでひとりで寝ていた加藤を呑み込んだ。加藤ってのは生物部の部員のひとりで――」
「そのコのことも陽毬に聞いて知ってるわ。おっきな屋敷に住んでいるコね」
「うん、そう。加藤はみんなが早朝観察に出かけたあともログハウスでひとりで寝ていて、壁に喰われたらしい。ログハウスから出てきた加藤は、なんだかぼんやりしていて、つくりの笑いのような笑みを浮かべるんだ」
「あ、それ、今日の彼氏と同じような感じだわ」
「そうだ。壁に喰われるとそんなふうになるんだ。俺の妹も、加藤の家に泊まりに行って――俺の妹と加藤の妹は友達で――そんなふうになってしまった。そして、俺の家もログハウスと同じになってしまった。人を呑み込むんだ。俺も呑み込まれそうになった。父さんと母さんは呑み込まれてしまった。俺は必死で家から逃げてきたんだ」
するとそこで綾音は吹き出して、コロコロと笑い出した。
「やぁだ、永井君って想像力が豊かなのね。こんなすぐ、そんな話を思いつくなんて」
あ、やっぱそうなるよな、と正樹は思った。
綾音は口元に手を当てて、可愛らしいあくびをすると、
「ああ、でも、永井君に話を聞いてもらったら、なんだかすっきりして、眠くなってきちゃったわ」
そう言って、ソファーに横になり、すやすやと眠ってしまった。
なんという無防備な。俺には襲ってくる勇気はないと見切っているのか……
確かにそんな勇気はない。正樹はせめて綾音の可愛い寝顔を眺めていたかったが、よからぬ妄想で頭がいっぱいになりそうだったので、そっと部屋を出て行った。
廊下の壁にもたれてひとりで座っていると、心の奥の暗雲がどんどん広がっていく気がした。綾音も、自分の話を信じようとはしなかった。それはそうだろう。いったい誰がこんな話を信じてくれるのだろうか?自分はこれから、どうしたらいいのだろう?
正樹は、ハッと目を覚ました。いつのまにか眠ってしまっていたのだ。
異様な気配を感じ、正樹はうしろを振り向いた。
そしてまたしても見た!背後の壁が、生き物のようにウネウネと蠢きながら、恐ろしい口のような裂け目を開けて、覆いかぶさってこようとしていたのだ!
「わぁーっ!」
正樹は転がるようにして壁から離れた。その時、個室のドアが開き、綾音が出てきた。
「仁藤さん、あれを見て!」
正樹は壁を指さして、そう言った。だが振り向いて壁を見てみると、それはもう元の壁に戻っていた。
「あ……」
正樹はがっかりして肩を落とした。だが綾音は、
「だいじょうぶよ、永井君。わたし、永井君が言ってたことが本当だって分かったから」
「え……?」
正樹は綾音を見た。綾音はぼんやりと突っ立っていた。それは、常に可愛らしく振る舞っている綾音ではなかった。そして綾音は、つくり笑いのような笑顔を浮かべると、
「でも永井君、永井君は間違っているのよ。少しも 怖がることではないの。ここでぐっすりと眠ればそれがわかるわ。さあ、部屋に入って。一緒に寝てあげるから」
こういう場合でなければ、それはなんと嬉しい言葉だろう。だが正樹は、少しずつあとずさりながら、
「そ……それは、とっても嬉しい申し出だけど……お、俺、大事な用事を思い出しちゃって――」
ああ!綾音は、部屋で眠っているあいだに、壁に喰われてしまったのだ!正樹は、
「ごっ、ごめん、さよならっ」と言いながら綾音に背を向けて、この建物に入ってきた時の出入口に向かって駆け出した。
建物を跳び出し、さらに息の続く限り走り続けた。
ハァハァと肩で息をしながら、正樹はヨロヨロと立ち止まった。ああ……なんてことだろう。やはりあの壁は、思いのほか拡がっているのだ。
不特定多数の人が集まるカラオケ店。そういう場所 は一番危ないのかもしれない。
これからどうしたらいいだろう……
相変わらずスマホもない、財布もない。
とにかく、最初に決めていた場所に向かうことにした。父さんの実家がある場所。タッちゃんの家がある場所。
呼吸が落ち着くのを待って、正樹はトボトボと歩き出した。辺りはまだ夜が続いている。長い夜が、まだ続いている……
今何時くらいなんだろう?カラオケ店に入った時、綾音は二時半を回ったところだと言っていた。カラオケ店にいたのは、一時間か一時間半か……?
ああ、せめて夜が早く明けてほしい、と思いながら正樹は歩き続けた。
まもなく、よく知っている場所に出た。タッちゃんと小学校に通った道だ。だがこの時間では、タッちゃんの家はもちろん、祖父母宅も訪ねて行きにくい。尿意を覚えていたので、正樹は公衆トイレのある公園に向かうことにした。
だが公園に向かう路地で、正樹は前方に人影を認めた。街灯に照らされたその人の顔を見て、正樹は驚いた。
「と、父さん!」
それは正樹の父だった。父は穏やかな声で、
「お前がスマホも財布も持たずに向かうのはここじゃないかと思って探しに来たんだ。さあ、帰ろう」
だが正樹は、父に背を向けて駆け出した。だが前方に、今度はふたつの人影。母さんと瞳だ!
「正樹、お願い、帰って」
「お兄ちゃん、帰ろう」
だが正樹は脇の路地へ跳び込む。すると前方に、またふたつの人影。ああ、それは、加藤と湊斗ではないか!
「正樹の家から連絡が来て、僕たちも迎えに来たんだ」
「帰ろう、正樹」
と、その時、背後からも声がかけられた。
「仁藤綾音はお前に譲ってもいい。さあ、帰ろう」
「お前のためを思って言ってるんだ。帰ろう」
振り向くと、陸と大輝である。挟まれた!
だが正樹は、脇に立っている家の、門の中へと跳び込んだ。ここには優しい老夫婦が住んでいる。幼い頃、タッちゃんとこの庭でよく遊ばせてもらった。無断で入るのは心苦しいが、しかたがない。
庭から裏庭へちょっとした石畳の道が続いている。そして裏庭から、裏の路地へ抜けられるのだ。ここは正樹にとって、かつて知ったる町。どこにどういう抜け道があるか、すべて知っている。
だが裏の路地で、思わぬ人物が待ち構えていた。
「永井君、こっちへ向かうところだって言ってたから、来てみたの。やっぱりいたのね。さあ、一緒に――」
綾音だ!カラオケ店から追いかけてきていたのだ。正樹は心のどこかで喜んでいる自分に気づいたが、綾音にかまっている場合ではない。加藤や湊斗たちが追いかけてくる。正樹は綾音の横をすり抜けて逃げた。
ああ、自分はなぜ、大好きな家族や友人たち、そして憧れの女の子から逃げ回らなければならないのだろう……
路地から路地へと駆け、そして抜け道にもぐり込みながら、正樹は逃げる。やがて一軒の家の前で、正樹は立ち止まった。ここはタッちゃんの家である。とりあえず撒くことができたようで、追いかけてくる者はない。
タッちゃんの家と隣の家のあいだには塀もなく、わずかな隙間が空いているだけである。その隙間から、タッちゃんの家の裏手にまわり込む。
ここでしばらく隠れさせてもらって、休息を取ろうと思ったのだ。かなりの疲労を覚えていた。
タッちゃんの家の裏は、旧い大きなマンションの敷地に面していて、その敷地との境には、高いフェンスが設けてある。タッちゃんの家とそのフェンスとのあいだのわずかなスペースに腰を下ろそうとした時、上の方から、
「そこにいるのは誰?」という声が聞こえてきた。
見上げると、タッちゃんの部屋の窓から顔が出ている。部屋からの光が逆光になって影になっているが、きっとタッちゃんだ!
「タッちゃん、俺だよ、正樹。……ごめん、無断でここに入ってきちゃって」
「いいよ、マーちゃんなら。中に入らないかい?」
タッちゃんはこのような再会に、たいして驚いた様子もなく、そう言った。正樹は拍子抜けする思いだったが、中に入れてもらうのはありがたかった。
「ありがとう、そう言ってもらうと助かるよ。……あの、失礼ついでに、このフェンスを登ってそこから入ってもいいかな?昔みたいに。玄関から入ると、おじさんとおばさん起こしちゃうかもしれないから」
タッちゃんと遊んでいた頃、このフェンスを登ってタッちゃんの部屋に入ったり、逆に部屋からフェンスを伝って下に降りたりするちょっとん危険な遊びを、やっていたことがあったのだ。ただ、正樹は、タッちゃんの両親を起こしてしまうかもしれないから、というよりは、実は、表にまわって追っ手に見つかる可能性を怖れたのだったが……
「いいよ、登っておいでよ」と、タッちゃんはあっさりと言った。
フェンスはかなり古く、サビがひどいが、まだ正樹の体重ぐらいは充分に支えてくれた。フェンスからタッちゃんの部屋の窓へも、タッちゃんが手を貸してくれて、さほど苦労することなく移ることができた。
窓の縁で靴を脱ぎ、タッちゃんの部屋へ降りる。
懐かしいタッちゃんの部屋。正樹の部屋とどっこいどっこいの散らかりようである。
「靴はその上にでも置いておくといいよ」と、タッちゃんは床に積まれている雑誌の上を指差した。正樹はありがたくそこに靴を置かせてもらう。
「ホント、久しぶりだねタッちゃん。……急にこんな、家の裏に無断で入ってきちゃって……これはいろいろと事情があって……」
だがタッちゃんはその事情を尋ねることもなく、
「久しぶりだね。マーちゃんに会えて嬉しいよ」
その言葉に、正樹は涙が出そうになった。
「俺も嬉しいよ、タッちゃん。おじさんとおばさん、元気かい?ハー姉ちゃんとココ姉ちゃんも」
「みんな元気だよ。ハー姉ちゃんは今、家にいないけどね。浦和の会社に就職して、今そっちで暮らしてるんだ。マーちゃんのご家族も、みんな変わりないかい?」
「あ……う、うん、か……変わり……ない」
本当は変わりないどころではなかったが、今タッちゃんにそれを説明しても信じてもらえないだろう。正樹は慌てて話題を変えた。
「でもよく、俺が下にいることが分かったね。物音がした?眠ってなかったの?」
「いや、眠っていたよ。でも家が教えてくれたんだ。下に誰かいるって」
「……え?」
正樹は、タッちゃんの言ったことがすぐには理解できなかった。イエガオシエテクレタ?
「この家は変わったんだよマーちゃん。見た目は前の家と同じだけどね。でも変わったんだ」
そして タッちゃんはニッコリと笑ったが、ああ!つくり笑いのような笑顔……
「この家はね、生きているんだよ」
ああ!この家も……そしてタッちゃんも!!
正樹は、絶望に目の前が暗くなる思いだった。
その時、部屋のドアの外から、
「拓海、マーちゃんが来てるだろう?マーちゃんのご家族がお見えになったよ」
タッちゃんは、
「お母さん、いるよ。マーちゃんはここにいるよ」
ああ……万事休す!
外はいくらか明るくなってきていた。
正樹は周りを両親と瞳、そして友人たちにガッチリと固められて歩いていた。祖父母の家に向かっているようだ。
祖父母の家の前に、父のクルマが停まっている。友人たちの自転車も置かれている。
クルマに乗せられたら終わりだ!切羽詰まった正樹は、
「助けてーっ!助けてーっ!」と、思い切り叫んだ。
父が、
「おい、正樹、やめないか!」と、正樹を止めようとするが、正樹も必死である。
「助けてーっ!誰か助けてーっ!」と叫び続ける。
「お願い、正樹、やめて」
「お兄ちゃん、やめて」
「正樹、やめないか!」
「静かにしろ、正樹!」
母や瞳、大輝や陸も、全員で正樹を黙らせようとするが、正樹は全力で抵抗する。
「助けてーっ!誰か助けてーっ!」
そのうちに、近所の人たちが、何事かと家から出てきた。そして、祖父母の家からも、ふたりが跳び出してきた。
「お……お前たち、いったいどうしたんだ?」
正樹と両親の様子に、祖父は目をまるくしてそう言った。
「父さん、母さん、心配いりません。正樹がちょっと……」と、父が祖父と祖母に説明しようとするが、正樹は、
「おじいちゃん、おばあちゃん、助けてっ!」と必死に訴える。どうやら祖父と祖母はまだ壁に喰われていないようだ、と、正樹は直感的に思った。
「と、とにかく、みんないったん家に入りなさい。近所の人たちが驚いているだろう」と祖父が言う。
「あ、トイレ、トイレに行きたいっ!離せ、湊斗、大輝、離せ陸!」
正樹は、自分を捕まえている友人たちから、必死に逃れようとする。
「トイレは家に帰ってから行けばいいだろう」と湊斗。友人たちは、正樹を離そうとしない。
「もう漏れそうなんだ。さっきから我慢してたんだ。離せっ!おじいちゃん、おばあちゃん、トイレに行きたいっ」
「君たちは誰かね?なぜ正樹を捕まえてるんだ?」と祖父が湊斗たちに言った。
「僕たちは正樹君の友人です。正樹君はごらんのように錯乱していて、すぐに家に連れて帰らなければなりません」と湊斗が言う。
「トイレ、トイレに行きたい!おじいちゃん、おばあちゃん、助けて!トイレに行きたいっ」
「正樹を離してやってくれ。トイレぐらい行かせてやってもいいだろう」
「正樹をいじめないで!正樹を離してやって」
祖父と祖母の言葉に、友人たちの手が緩んだ。正樹はそれを振り切り、祖父母の家に跳び込んだ。
トイレに駆け込み、ドアの錠をおろす。漏れそうだったのは本当なので、まず用をたし、水を流す。だがドアからは出ない。窓を開け、そこに体をねじ込んでいく。小さな窓なので、からだを通すのは大変だが、必死に外へ出て行く。
「あっ、正樹が出てきたぞ!」
大輝の声だ。見つかった!
だが祖父母の家の周りには生垣が巡っていて、家の前の庭からまわり込んでこなければ、ここまで来ることはできない。正樹は追手が来る前に窓から抜け出し、地面に降りることができた。
家の裏手にまわり込む。生垣にわずかな切れ目があり、そこから伊藤さんの家の敷地に入れることを知っている。伊藤さんごめんなさい。伊藤さん宅の敷地を抜け、その向こうの路地を横切り、今度は片岡さん宅の敷地に跳び込む。片岡さんごめんなさい。これは立派な不法侵入罪だ。
片岡さんの家の裏は、タッちゃんの家の裏と同じ、旧い大きなマンションの敷地に面していて、高いフェンスが立っている。片岡さん宅とタッちゃんの家は、同じ並びになっているのだ。
フェンスを乗り越え、マンションの敷地を抜ける。
マンションの表側は、少し広い通りに面している。日中はクルマの往来が多いが、この時間帯はそれほどでもない。一台のクルマをやり過ごして、通りを横断し、コインランドリーの横の脇道へ跳び込む。
そこからまた、路地から路地へと逃走を続ける。
時折うしろを振り返るが、誰も追ってくるものはない。撒くことができたのかもしれない。だが油断はできない。相手はクルマや自転車を持っているのだ。
辺りはどんどん明るさを増していた。長かった夜がようやく明けたのだ。相変わらず空には雲が多いが、家と家の隙間から、朝焼けも確認できる。
ひどく疲れていて、足は棒のようだが、正樹は走ったり歩いたりを繰り返しながら、なじみのある場所からあまり来たことのない場所へとやってきた。
すっかり明るくなり、人やクルマとすれ違うことも増えたが、正樹は逆に心細さが増していた。
これからどこに向かえばいい?これからどうしたらいいのだろう?
せめてどこかで休みたかったが、適当な場所が見当たらず、正樹は歩き続けた。すると、川沿いの道に出た。そして、こちらに向かって走ってくる男女ふたりの姿を認めた。そのふたりは見覚えのある顔だった。
鴇田先生と優子さんだ!夫婦で早朝のジョギングをしているのだ。
向こうも正樹の姿を認め、
「永井、永井じゃないか」と、声をかけてきた。
ふたりは正樹の前で立ち止まり、
「永井、どうしてこんなところに?」
「永井君の家、この辺じゃないわよね」
ふたりの優しそうな目に見つめられ、声を聞いて、正樹は感情を抑えきれず泣き出してしまった。
「どうした?永井?」
「永井君、何があったの?」
正樹は泣きながら、
「先生、助けて!お願いです、助けてください」
鴇田は正樹を自分の家に連れていった。正樹はそこで自分の身に起こったことをすべて話した。
「とても信じられる話ではないわ」と優子。だが鴇田は、
「ああ、だが永井は、こんな嘘をつく子じゃないんだ」
そして鴇田は、少し考えてから、
「よし、とにかく確かめに行ってこよう」と言った。
「確かめるって、どこに行くの?」
「キャンプ場だ。ログハウスの壁を確かめてみる」
それから鴇田は正樹のほうを向いて、
「永井、お前も一緒に行くぞ。お前も自分の目でちゃんと確かめるんだ」
そして正樹と鴇田は、鴇田のクルマで、夏休みに訪れたキャンプ場に向かった。
この日は三連休の初日で、ログハウスは予約で埋まっていたようだが、運良くキャンセルが出ており、鴇田が問題のログハウスを抑えることができたのである。
「その壁が本当に生きているのか、それともただの壁なのか、少し削ったりして調べてみればわかるだろう」
「はい……」
正樹はちょっと複雑な気持ちになった。もし壁が生きていることがわかれば、自分が嘘をついてないと証明できる。一方で、もし壁がただの壁だったら、すべては自分の幻覚、妄想ということになるのかもしれない。そうなら、家族も友人たちも、そして家も、すべて元のままで変わりないということになる……
やがてキャンプ場に着いた。
正樹と鴇田は、問題のログハウスの前に立った。
「よし行こう」と鴇田が言い、ふたりはログハウスの中に入っていった。鴇田の手には、木を削るための小刀が握られている。
中に入った。やはり見た目は、なんのこともない普通のログハウスの壁である。
「永井が寝ていたのは、こっちの壁際だったな」
鴇田はそう言いながら、壁に近づいた。
手で壁を触る。
「触った感じ も、普通の木の肌触りだな」
それから鴇田はしゃがみこみ、
「この辺りなら、少しぐらい削っても目立たないだろう」と言って、下の方の壁板に小刀の刃を当て、そこを削り取ろうとした。板のその部分がめくれ上がる。
ああ!だが!!
めくれ上がった部分から小刀を抜いた瞬間、その部分がくにゃりと動いて元に戻り、傷のない元の板に戻ってしまったのである!
「こ……これは……」
鴇田の顔色が変わった。正樹も目を見張った。
鴇田は別の壁板でも試してみたが、やはりめくれた部分が生き物のように動いて元に戻ってしまった。
鴇田と正樹は顔を見合わせた。
「永井、やはりお前の言った通りだ。この壁は生きている!」
「はい……」
「だがこの目で見てもまだ信じられん。いったいこの生き物は何だ?壁に擬態する生き物……いや、擬態なんてもんじゃない。壁そのものになってしまう生き物……」
鴇田はしばらく腕を組んで考えていたが、
「地球の生命体とは考えられない……。宇宙から来た生命体じゃないんだろうか?」
「宇宙から来た生命体……?」
「そうとしか考えられない。……永井はニュースで見なかったか?僕たちがここでキャンプした十日ぐらい前、この近くで火球が目撃されたり、爆発音が聞こえたりしたというニュースが流れたんだ」
「そういえば……。湊斗たちとも話題になっていました。今度のキャンプで、隕石が拾えるかもしれないって」
「そう、火球は隕石である可能性が高い。爆発音は、その隕石が空中で爆発した時に発生したものだろう」
「じゃあ、その隕石にこの生命体が?」
「そう考えると、いちおうの説明はつきそうだ。通常隕石は、太陽系内の微小天体が地球に落ちてきたものだが、その隕石は、太陽系外……どこか遠くの恒星系から飛んできたものじゃないのだろうか。その恒星系には地球のような生命の存在する惑星があり、この生命体も、そこで進化した、あるいは創られたものじゃないか……」
「創られた?」
「うん……もしかしたらだが、その惑星では非常に文明を発達させた知的生命体がいて、この壁はその知的生命体によって創られたものかもしれない。壁になってしまう生命体なんて、人工的に創られたものとしか考えられないんじゃないか?」
「でもどうして壁に?」
「壁というか、家が生命体なら、それは究極の家なのかもしれない。その家は常に、中にいる人を見守っているのだ。……加藤のおじいさんの末期癌が治ったのも、この生命体のおかげである可能性が高い。いや、加藤のおじいさんだけじゃないんだ。優子は医療事務の仕事をしているんだが、最近、突然病院に来なくなってしまう患者さんが増えているそうだ。心配して電話してみると、もう病気が治ったから、と答えるという」
「その患者さん達も、壁が治しているということですか?」
「そうじゃないんだろうか?この壁は、病気の人を治療する力を持っているんじゃ……。もしそうなら、この壁に囲まれていれば、病気の心配をせずに暮らせるだろう」
「でも俺は、病気じゃないのに呑みこまれそうになりました。父さんも母さんも瞳も病気じゃなかった」
「まあ、壁としては、呑みこんでみなければその人が病気かどうかわからないのかもしれない。……いずれにしても、この壁は人間に対してそんなに悪いことはしていないし、病気を治すなど、むしろ良いことをしているようだ」
「はぁ……」
鴇田はそのあと少し考えていたが、
「……この生命体が高い知能を備えている可能性は高いだろう。なんとかコミュニケーションを取れないだろうか?」
そして壁に向かって、
「壁になっている生命体よ、私の言葉が理解できるか?私は君と話がしたい。君は我々の街で勝手に拡がっていっている。このままだと、我々は君を敵だとみなさなければならない」と声を張り上げた。
すると目の前の壁が、ウネウネと生き物のように蠢き始めた。そして、恐ろしい口のような裂け目が開き、そこからいくつかの音が漏れてきた。それは言葉のようでもあったが、正樹には意味のあるものとして聞き取ることはできなかった。
「途中で、ハ・ナ・スと言ったようにも聞こえたが、全体としてはよくわからなかったな」と鴇田は言って、もう一度壁に向かって、
「こちらのしゃべっていることは、理解できているのか?」と声を張り上げた。
また裂け目から言葉のような音が漏れた。だが相変わらず、正樹には意味が取れなかった。
「ス・コ・シと聞こえたような気もするが……。いずれにしても、言葉によるコミュニケーションは難しいのかもしれない。この壁は、言葉でコミュニケーションを取るようにはできていないのかもしれない。発声器官が発達していないようだし、こちらの言葉も、充分には理解できていないのかもしれない。……だがコミュニケーションを取ろうとする意思はあるようだ」と鴇田は言って、また少し考えてから、壁に向かって、
「私は君と話がしたいんだ。そのために、君に呑み込まれようと思う」
正樹はびっくりして鴇田を見つめたが、鴇田はかまわずに壁に話しかけ続ける。
「いいか、話し合うために呑み込まれるんだ。私のからだに対して、それ以外のことをしてほしくない。それを約束できるか?私の言うことが理解できたか?理解できたなら、一回だけ音を出せ」
すると、壁の裂け目から、ひとつの音だけが出てきた。
鴇田は正樹のほうを向いて、
「よし、クルマに寝袋を積んであるから、僕はここでひと眠りするとしよう。最近少し寝不足気味なので、この時間でも眠れるだろう。永井はクルマで待っていてくれ」
「で……でも……」
正樹は不安そうな目を鴇田に向けるが、鴇田は笑顔になって、
「そう心配することはないだろう。僕の推測が正しければ、人間はこの壁にとって主人にあたる存在のはずだ」
それから少し顔を曇らせて、
「むしろ心配なのは、この壁の存在が公になることだ。こんな生命体が、知らないうちに日本中に――いや、もしかしたら世界にも――拡がっているかもしれないことを、一般の人たちが知ってしまったら……。大騒ぎになるだけでは済まないかもしれない。この生命体の宿っている家を探し出し、その家を無理やり排除しようとしたり、そこに住んでいる人に危害を加えたりしようとする者たちが現れないとも限らない」
正樹はその言葉にゾッとした。もしそんなことになったら、自分の家は、そして家族は……
ふたりはログハウスを出てクルマに戻り、鴇田はラゲッジスペースから寝袋を取り出した。鴇田と優子はキャンプが趣味で、キャンプ用品を常にクルマに積んであるのだという。
鴇田は寝袋を持ってログハウスに戻り、正樹はクルマの後部座席で待つことにした。
クルマの中で正樹は、鴇田の言っていたことについて考えていた。
隕石の中に地球外生命体が閉じ込められて、地球にやってくるかもしれない、という話は、以前にも鴇田が正樹たちに話してくれたことだった。鴇田は、生徒が興味を惹かれそうな話を時々してくれるのだ。
隕石は大気圏に突入すると、表面は非常な高温になるが、内部にはそれほど熱は伝わらないのだという。なので、隕石の中に細菌のような微小生命体が閉じ込められていると、生きたまま地表付近まで来る可能性があるのだという。
大気圏を飛行する隕石には非常に大きな衝撃が加えられ続けており、空中で爆発してしまうこともよくあることのようだ。もしも爆発した隕石の破片に地球外生命体が付着していて、それがログハウスの屋根にでも突き刺さったとしたら……?
そうなのだろうか?あの壁は、そうやって地球に来たのだろうか?
ともかく、鴇田の言うように、あの壁が地球上の生命体でないことは確かなようだと、正樹は思った。隕石に乗って、どこか遠い異星からはるばるやってきたというのは有力な説のようだ。
事実、この付近に隕石が飛来し、爆発したのは確実なようだし、鴇田の説はあの壁の正体に迫っていると考えていいのではないか……
だとすると、あの壁が、異星の知的生命体が創った人工生命体だというのも真実をついているのかもしれない。その知的生命体は、あの壁の中で暮らしていたのだ。もしそうなら、あの壁はやはりそれほど危険な存在ではない、ということになるのかもしれない……
ただ、あの壁が、中に住む者を主人だと考えているなら、なぜその主人の意思に関係なく呑み込み、その主人を変質させてしまうのだろうか?そして、自分はなぜ、その変質した人々――家族や友人たちに追いかけられなければならなかったのだろうか……?
疑問は残るが、ともかく今は鴇田を待つしかなかった。鴇田の考えはきっとうまくいくだろう、そう思わせるものをあの先生は持っていた。
正樹は、ハッと目を覚ました。いつの間にか眠ってしまっていたのだ。なにしろゆうべはほとんど眠っておらず、かなり疲れてもいた。
正樹を乗せたクルマは走り出していた。運転席には鴇田がいる。正樹のからだにはシートベルトも装着されていた。鴇田が正樹を起こさないようにしながら、装着してくれたのだろう。
「先生、無事だったんですか」
運転中の鴇田は前方を向いたまま、
「永井、起きたか。すべてうまくいったぞ」と言った。そして、
「あの壁は、こちらの言うことを理解してくれた。そして、すべてを元に戻すと約束してくれた」と続けた。
「ほんとうですか!」
正樹は安堵と喜びの思いでいっぱいになった。
「うん、あの壁はやはり、異星人の創った人工生命体なのだ。異星人の住まいとしての役割を担うように創られているのだ。だから、その住まいの主人の命令には従おうとするのだ」
「そうなんですね、ほんとに良かったです」
「そうだな。……思えばあの壁も哀れな存在だ。自分の星から遠く離れたこの星に漂着して、なんとか自分の役割を果たそうとしていたのだろう。……あの壁の母星はどうなったんだろう?あの壁自身にもそのあたりの記憶はまったくないようだが、もしかしたら、母星は何らかの原因で爆発し、粉々に飛び散ってしまったのかもしれない。そして、その破片の一部に、あの壁の生命体のほんのわずかな細胞が閉じ込められて、広大な宇宙空間を渡ってきたのだろう」
「はあ……そうだとしたら驚くべきことですね」
「うん、だが本当に驚くべきことは、あの壁の能力だ。ほんのわずかな細胞から急速に増殖し、一週間余りで一軒の家になってしまえる。木材のような有機物をあっという間に自分の細胞に造り替えてしまえるのだ。石膏ボードのような無機物も、ある程度自由にコントロールできるようだ」
正樹は自分の家の壁を思い浮かべた。自分の家の壁は、あの壁に取り憑かれる前は確かにただの石膏ボードだったはずだ。それが、普段は以前と変わりない壁そのものになっているが、ある時に生き物のようにウネウネと蠢きだすのである。生物部員の端くれとして、生物についてある程度の知識を持っている正樹だが、あの壁の生命体がどのような構造になっているのか、皆目見当がつかなかった。
「ほんとにすごい能力ですね」
「うん、あの壁の生命体を創った異星人のバイオテクノロジーの技術力の高さが窺い知れるな。……たださすがに、母星を遠く離れた異星で増殖することまで想定されてはいなかっただろう。あの壁を創った異星人と地球人の容貌の違いから、あの壁は地球人を異星人のペットだと思い込み、どんどん呑み込んでしまっていたようだ。ペットのケアもあの壁の役割なのだ。ペットが驚いて暴れないように、眠っているあいだに呑み込むようになっているようだ。麻酔性のガスを出してペットを眠ったままにしておくようだが、永井はそのガスが効きにくい体質なのかもしれん」
「地球人はその異星人のペットに似ていたんですか?」
「いや、そうではないだろう。異星人の容貌はある程度、壁の遺伝子に記録されているのだろうが、そのペットまですべて記録されているわけではないだろう。異星人以外の、家の中にいる動物をペットだとみなすようになっているのだろう。……また、あの壁は、ペットの動物のからだだけでなく、心も癒すような能力も持っているのだが、それが地球人には合わず、心が変質してしまったようになったんだろう。それと、呑み込まれてしまった人には壁の生命体の細胞がいくらかついてしまうため、あの壁は拡まっていったのだ」
「でも先生と話して、あの壁は地球人を主人だと認めてくれたんですね」
「その通りだ。あの壁も、どうも呑み込んでいる動物の知能が結構高いようだ、とは感じていたようだ。……あの壁は、おもに有機物でできたモデルとなる建物にそっくり入れ替わることで、異星人の住まいになるように創られているのだが、この地球では、モデルとなる建物の主人は地球人であることを分かってくれたのだ」
「家や人を元に戻すこともできるんですか?」
「できるようだ。あの壁は非常に高い知能を持っており、人が使っているスマホの電波なども解析してしまっているようだ。その電波を使ってほかに拡まってしまった壁にも連絡を取って、すべてを元に戻すことができるようだ。だからもう安心していい。あの壁はもうこれ以上増殖することはない。もう誰も呑み込むことはない」
前方の信号が赤になり、ふたりを乗せたクルマは停止した。
「だから――」
鴇田は正樹のほうを振り向いて、ニッコリと笑った。が、正樹には、その笑顔がつくり笑いのように見えた。
「永井も安心して家に戻り、今晩はぐっすり眠るといい」
(了)




