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定時間に仕事を終えると、心身ともに疲れきっている。
凰士と一緒にいると何度も息が詰まりそうになるし、お昼も喉を通らない。
あの何か仕出かそうとしている煩い二人も事務所に戻ってこなかったのは良い事だけど、二人きりは疲れるよ。
「帰ろう。」
溜息混じりに呟き、自宅のある駅に降りた。目の前に広がる綺麗な夕陽が瞳に沁みる。
「白雪。また、会ったな。」
背後から肩を叩かれ、振り返るとまぁくんの笑顔。
何でだろう、癒される。
「どうしたんだ?」
「ううん、何でもない。まぁくんも今帰り?」
「そう。食事でも行くか?」
「お茶くらいなら。」
「おう。上手い珈琲を飲ませる店があるんだ。学生の頃によく行ったんだけど。軽食も美味いし、値段も手頃だ。」
「うん。」
まぁくんの隣を歩く。
気分転換には丁度良かった。煩く言われないって、素晴らしい。
「ここだ。」
古い佇まいで、喫茶店という言葉がピッタリのお店。確かに珈琲は美味しそうだ。
「いらっしゃい。」
口髭を生やした初老の男性が迎えてくれる。
あぁ、何か落ち着く雰囲気。
「ブレンド二つ、あと、サンドウィッチ。」
「かしこまりました。」
ほとんど空席の店内。カウンターの片隅で静かに流れるジャズに耳を傾けている初老の男性がいるくらい。
「まぁくん、素敵な所を知っているのね。」
「まぁね。昔は学生とかもちらほらいたんだけどな。ジャズが好きな友達がここに入り浸っていて、連れて来てもらったんだよ。で、珈琲の味に一目惚れ。」
「楽しみね。」
少しだけ素直に笑う事が出来た。まぁくんとこのお店のお陰かな?
「あのさ、白雪。」
「何?」
「白馬の坊ちゃんと別れたって、本当か?」
「どうして、それを?」
「いや、悪い。昨日、白雪と吹雪が話しているのが、聞こえちゃってさ。」
「あぁ、まぁくんの部屋、私の前だもんね。窓が開いていれば、聞こえるよね。」
「ごめん。聞くつもりはなかったんだけど。」
「そんなに気にしないで。事実だから。」
「そう、なんだ。」
「うん。」
噛み締めるように返事をすると、胸の痛みが蘇ってくる。
「でも、白雪、彼の事、好きなんだろう?」
「仕方がないんだって。白馬の跡取りだから、私なんかが見合う女性の訳がないんだから。」
「そうか。」
まぁくんが小さく頷くと、珈琲が運ばれてくる。良い香りが漂っている。
「おまたせしました。」
真ん中にサンドウィッチ、それぞれの前に珈琲が置かれる。
「ごゆっくり。」
瞳を細め、優しい笑みを残し、立ち去っていく。きっと、凄く良い人なのかもしれない。
「あのさ、白雪。」
「うん?」
珈琲の薫りを楽しみながら、カップを口元に運んだ。
「別れた男を忘れるためには、新しい男と付き合った方が、ラクになれる事もある。」
何を急に言い出したの?
「そう思わないか?」
「残念ながら、そんな私を慰めてくれるような男性、いないもの。」
まぁくんがにっこりと笑みを零しながら、人差し指で自分を指す。
「何、言っているの?冗談でしょう。」
「冗談じゃないよ。」
「まぁくん?」
「白雪と再会した時、凄く綺麗になっていたんで、びっくりしたんだ。白雪の部屋に電気が灯ると気になって仕方がなくて、帰りも偶然会えないかと落ち着きがなくなる。俺、白雪の事が好きだ。」
「嘘…。」
「こんな時に言うのは卑怯かと思ったんだけど、今しかチャンスがない気がしてさ。今は白馬の坊ちゃんを忘れる術だと思ってくれていい。でも、白雪と俺なら、きっと恋人としても上手くやれるし、結婚しても何の障害もない。俺はそう思っている。」
「でも…。」
「わかっているよ。白雪が人を利用するようなやり方を好まないし、好きになっていない男と付き合えるヤツでもないって。でも、近い内に両方が解消されるはずだよ。今だけ少し目を瞑ってくれよ。」
「私に同情してくれているんでしょう。」
「違う。」
「だから、そう想い込もうとしているだけ。だって、まぁくんが、私を好きになるはずないじゃない。だって、あの頃、私の事、子ども扱いしかしなかった。」
「白雪?」
「私、まぁくんが初恋だったんだよ。知らなかったでしょう?お嫁さんにしてくれるって約束したのに、さっさと自分の世界を作って、遠くに行っちゃった。」
「ごめんな。あの頃は白雪の気持ち、わかろうともしなかった。でも、今は違う。その頃の約束、現実のモノにしよう。」
私は無意識にカップに触れている自分の左手を見つめた。浮腫んでいるせいだろうか?指輪の痕が残っている気がする。
「ごめんなさい。まぁくんの気持ち、凄く嬉しい。でも、今はムリみたい。」
「今はムリか。じゃあ、完全に振られた訳じゃないんだよな。タイミングの問題だけだな。だったら、今度、ドライブでも行こう。気晴らしにもなるだろう。」
「まぁくん?」
「幼馴染のお兄ちゃん、そのポジションで、暫くは落ち着く事にするよ。その方が、白雪も気楽だろう。」
「ありがとう。」
私を追い詰めないまぁくんの優しさが、温かい。
もしかしたら、私、考えているより早く復活してしまうかもしれない。
「あっ、今度の土曜日に新車が来るんだ。テスト運転も含めて、ドライブ行くか?」
「テスト運転?大丈夫なんでしょうね?」
「大丈夫、大丈夫。あっ、もしかして、新車が来た日に事故るなんて、縁起の悪い事を考えていないだろうな?」
「あっ、バレた?」
「まったく、白雪は。」
呆れた苦笑を零した後、声を出し、笑う。私も連れられて笑えた。
こうやって、少しずつ、凰士の事を思い出に出来るよね?




