第七章 なかば
五つの宝珠を壊してから、数週間が経った。
俺の翼は七枚になっていた。
力は確実に弱まっていた。
最大の変化は、魔力の細かい制御がより難しくなってきたことだ。
以前は無意識にできていたことが、今は少し意識しないとできない。
たとえば、魔力を完全に隠すこと。
以前は自動的にできていたが、今は少し集中しないといけない。
(気をつけなければ……ルージュに気づかれるかもしれない)
そんな中、ルージュには明らかな変化があった。
強くなっているのだ。
五つの魔王を倒す経験を積んで、明らかに戦い方が洗練されてきた。
最初の頃はオーガー一匹でも苦戦していたのに、今では複数の強い魔物が相手でも落ち着いて対処できる。
(……俺の助けが必要な場面が、少しずつ減っているな)
それは良いことだった。
なにしろ俺の力が弱まっているのに、ルージュが強くなっているなら、なんとかなる計算だ。
だが俺は、少し変な気持ちもあった。
(……俺の助けが要らなくなったら、俺は何のためにいるんだ?)
馬鹿げた考えだ、とすぐに打ち消した。
(俺の目的は最弱になることだ。ルージュが強くなることは喜ぶべきことだ。そうだろう?)
うん、そうだ。
当然だ。
(……でも、なんか寂しいな)
俺は思ってから、自分でびっくりした。
寂しい?
俺が?
魔神王が?
(……赤ちゃん思考が出てしまったか。気をつけなければ)
俺は慌てて気持ちを引き締めた。
だが引き締めようとすればするほど、なんとなく胸のあたりがむずむずした。
赤ちゃんの体というのは正直すぎて困る。
六番目の神殿は海の底にあった。
深海王アビサロスの神殿だ。
海辺の崖に立って、俺たちは眼下の海を見下ろした。
波は高く、海の色は深く暗い。
「……海の底……どうやって行くんだ……」
(俺が水中でも呼吸できるようにしてやればいいが……どうせまた「運がいい」とか「お守り」とか言われるんだろうな)
俺は覚悟を決めた。
「ぁあ!!!」
「え!?飛び込んで、ってこと?海に???」
(そうだ。飛び込め。俺が何とかする)
「……わかった!信じる!!ベービィちゃんのことは絶対信じる!!!」
(お前の俺への無条件の信頼は毎回心臓に悪い)
ルージュは迷わず海に飛び込んだ。
「うわああああっ!!!冷たい!!!」
(そうだな。海は冷たい。俺は魔力で体温を保てるが……)
俺は水中でルージュと自分に水中呼吸の魔法をかけた。
「……息できる!!!なんで!?!?!?!?」
(魔法だ。俺の魔法だ。でも知らなくていい)
「すごい!!なんかわからないけどすごい!!」
(毎回同じ反応をするな……まあいい)
深海の神殿は幻想的だった。
巨大な珊瑚礁が立ち並び、光る魚が泳ぎ、古い石造りの神殿が海の底に沈んでいる。
あちこちに海藻が揺れ、海底に積もった砂が光を受けてきらきらしていた。
「すごい……きれい……」
ルージュが呟いた。
水中でも声が届く。これも俺の魔法のおかげだが、ルージュは気づいていない。
(そうだな。確かにきれいだ)
俺も素直にそう思った。
魔王の城にいた頃は、こういう景色を見る機会がなかった。
世界というのは広く、美しいものだと、俺は改めて思った。
(……旅というのも、悪くないな)
自分でそう思ったことに、少し驚いた。
深海王アビサロスは、タコのような巨大な魔王だった。
無数の触手を持ち、水を操り、体から青白い光を放っている。
「よく来た、陸の生き物よ。これほどの深みまで来るとは驚いた」
「やっぱり誰もなかなか来ないんですか?」
「来ようとする者はいるが、来られた者はいない。お前は特別だ」
(ルージュが特別なのではなく、俺が助けているからなのだが……まあいい)
「嬉しいです!!では行きます!!!」
(嬉しがって突っ込むな……)
深海での戦いは、陸と勝手が違った。
水の抵抗で動きが遅くなる。
触手が伸びてくるのも、水中では対応が難しい。
(ここは積極的に助けなければ……)
俺はアビサロスの触手の動きを先読みして、水の流れを微妙に操った。
ルージュが触手に捕まいそうになる瞬間、ごくわずかな水流を作り、ルージュの体をほんの少しずらす。
「なんか触手が当たらない!!ギリギリで外れる!!」
(そうだ。ギリギリで外れるように俺が調整している)
「なんか流れが助けてくれてる気がする!!」
(そうだ。流れがある。乗れ)
「このままっ!!!!!」
ルージュが聖剣の光を最大限に放ちながら、アビサロスの核心部に向かって突進した。
水中で放たれた聖剣の光は、水の中を泡のように広がり、アビサロスの体を内側から震わせた。
「ぐぁぁぁぁっ!!!」
六つ目の宝珠が砕けた。
六枚。
半分になった。
(……半分)
俺は水中でぼんやりとそれを感じていた。
力がまた落ちた。
今度はかなり大きな落差があった。
(六枚が七枚になった時より、今回の方が落差が大きい。やはり加速しているようだ)
ルージュが俺を抱えて海面に向かって浮かびながら言った。
「半分!!半分来た!!!ベービィちゃん!!!!」
(そうだな。半分だ)
「あと六つ!!頑張ろうね!!!」
(……うん。頑張ろう)
海面に出ると、夕陽が海を赤く染めていた。
波に揺られながら、俺はルージュの腕の中で空を見上げた。
赤い空だった。
(……半分か)
もう半分、力が残っている。
もう半分、旅が残っている。
どちらが先に尽きるかはわからないが、俺はなんとなく、この旅が終わる時のことを想像した。
力が全部なくなった時、俺はどうなるのだろう。
ただの赤ちゃんになる。
ただの、普通の、赤ちゃん。
(……それでいい)
それが望みだったはずだ。
(……それでいい、よな?)
俺は自問した。
答えは、すぐには出なかった。
波の音だけが、静かに続いた。
「ベービィちゃん、なんか難しい顔してる」
ルージュが俺を覗き込んだ。
「どうしたの?疲れた?」
「ぅ……」
(疲れてはいない。考えていただけだ)
「ご飯食べたら元気出るよ!今日は街に泊まれるし、美味しいもの食べよう!」
(……そうだな。食べよう)
「何が食べたい?」
「ぶぅ」
(なんでもいい。お前が決めろ)
「じゃあシチューにしよう!温かいのがいいよね!」
(シチュー……温かいか。それは悪くない)
ルージュは俺を抱えたまま、濡れた体で歩き始めた。
夕陽の中を、二人で街へ向かった。
俺の翼は六枚になっていた。
だが、ルージュの腕は温かく、街の灯りは明るく、シチューはきっと美味しいだろう。
(……今日は、それだけで十分だ)
俺は小さく息をついて、ルージュの腕の中に頭を預けた。
「あ、くっついてきた。かわいい」
(くっついてない。頭を預けただけだ。全然違う)
「ふふ」
ルージュは笑いながら、少しだけ俺を抱く腕に力を込めた。
俺は何も言わなかった。
「ぅ」だけ言った。
それで十分だった。




