9話
昼休みの教室。
唯斗は、ぼんやりと窓の外を見ていた。
春の光が、校庭の桜を照らしている。
でも、その景色はどこか遠く感じられた。
「……唯斗」
瑠衣の声に、彼は振り返った。
彼女の手には、昨日のアルバムのコピーがあった。
「この写真、やっぱり変だよ。
先生に聞いても、“最初からこうだった”って言うし、
他の子たちも、誰も違和感を覚えてない」
「でも、俺たちは覚えてる。
この写真の“空気”が、違うって」
「うん。
それに……この人の顔、
ぼやけてるのに、名前の音だけが、
頭の中に残ってる気がする」
「音……?」
「うん。
“ゆ”……だったかな。
それとも、“あ”?」
唯斗は、目を閉じた。
耳の奥に、誰かの声が響いた気がした。
**「……ユウ……」**
(今の……誰の声だ?)
「私、たぶん……
その人の名前、呼んだことがある。
何度も、何度も」
「俺も。
でも、思い出せない。
名前の“形”だけが、頭の中に残ってる」
ふたりは、しばらく黙っていた。
その沈黙は、
**記憶の奥に手を伸ばすための静けさ**だった。
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放課後。
ふたりは、塔のふもとにいた。
黒いしずく花が、二輪、完全に咲いていた。
「……昨日より、増えてる」
「うん。
でも、怖くはない。
むしろ、少しだけ……懐かしい」
「この花、あの人の記憶とつながってるのかな」
「きっと、そうだと思う。
咲くたびに、少しずつ思い出す。
でも、全部は戻らない。
まだ、“名前”がないから」
唯斗は、咲いた黒い花に手を伸ばした。
指先が、花びらに触れる。
その瞬間――
**「……ユ……」**
声にならない声が、
風の中から聞こえた気がした。
「今、聞こえた?」
「うん。
“ユ”って……誰かが呼んだ」
「やっぱり、“ユ”なんだ……」
ふたりは、顔を見合わせた。
その目に浮かんでいたのは、
**確信に近い、でもまだ届かない焦燥**だった。
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その夜、夢界はノートを開いていた。
ページの上に、
今日の記録が淡々と綴られていく。
**『ふたりの記憶に、音の断片が浮上。
“ユ”の音、複数回確認。
記録外個体の名、輪郭を得つつある。』**
彼は、ページの隅に浮かび上がる文字を見つめた。
**『記録外個体:仮称「ユ」
記録再接続率:37%』**
「……もう、時間の問題か」
夢界は、ノートを閉じた。
そして、塔の奥にある扉を見つめた。
「名前が戻れば、
あの人は“影”じゃなくなる。
でも、それって――
ふたりの“今”が、変わるってことだ」
彼は、ポケットから“余白の紙片”を取り出した。
そこに、こう書いた。
**『ふたりの記憶が、名前の輪郭に触れた。
それは、選ばれなかった未来の名残。
でも、今のふたりがそれを呼んだとき、
物語は、もう一度始まる。』**
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翌朝。
教室に入ると、
名前のない転校生が、
ふたりに向かって微笑んだ。
「おはよう」
その声に、
ふたりの心が、わずかに揺れた。
「……おはよう」
返した声は、自然だった。
でも、その奥にあるものは、
**懐かしさと、痛みと、少しの罪悪感**だった。
(この人は、
俺たちが“選ばなかった未来”にいた人だ)
(でも、今ここにいる。
名前も、記録もないまま)
ふたりは、そっと目を合わせた。
その目に浮かんでいたのは、
**「思い出したい」という願いと、
「思い出してはいけない」という恐れ**だった。
(続く)




