第80話 ミズホと寝台列車
待ちに待った長期休暇。
――ついに、私たち《ダークキャッツ》の冒険が本格的に始まる。
最初の目的地は、水の塔がある異界アクアスだ。
火の塔がある異界と違って、アクアスへ向かうための通行制限は特にないらしい。ギルドランクが足りないせいで足止めされることもなく、比較的行きやすい場所だと聞いている。そう言われると、余計に気になってしまう。水の塔がある世界って、いったいどんな場所なんだろう。青く澄んだ海みたいな景色が広がっているのかな、と考えるだけで胸が弾んだ。
ただ、そこへ辿り着く道のりは意外と長い。
アクアスへ行くには、《マール》と《ラフランス》という二つの異界を経由しなければならないらしい。最初にそれを聞いた時は、ずいぶん遠いんだなあと思ったけれど、幸いその二つを一気に越える手段があった。
――寝台列車。
元々、私とエリーがいた異界は、他の異界とほとんど繋がりがなかった。だから、異界を渡る方法にもいろいろあるなんて、ここへ来るまで知らなかった。徒歩で境界を越える方法もあれば、こうして鉄道でいくつもの異界を横断する方法もあるらしい。
本当に、自分の知っていた“普通”が、外へ出るたびにどんどん崩れていく。
知らないことばかりで戸惑うはずなのに、それより先に「もっと知りたい」が来るあたり、私もだいぶ変わったのかもしれない。
今回、私たちが乗るのは、異界横断鉄道の長距離寝台列車。
アクアスまでは、それでも一週間ほどかかるという。さすがに聞いた時は「一週間!?」と声が出そうになったけれど、駅に着いて実物を見た瞬間、その長旅への文句は少しだけ引っ込んだ。
「私たちが乗る列車は……これか……」
思わず立ち止まってしまう。
目の前に停まっていたのは、いつも学校へ行く時に使う電車とは比べものにならないほど大きな列車だった。艶のある車体は長く、窓ガラスには空と駅舎が細く映り込んでいる。先頭から最後尾まで視線で追うだけでも大変なくらいで、まるで一つの建物がそのまま線路の上に乗っているみたいだった。
「これは《異界横断鉄道》で、いろいろな異界を結んでる長距離列車なんだって」
隣でパンフレットを開いたエリーが、いつもの落ち着いた口調で説明してくれる。
こういう時、エリーが一緒にいてくれると本当に助かる。私はつい目の前のものに夢中になってしまうけれど、エリーはちゃんと必要な情報を拾ってくれるからだ。
乗車手続きを済ませ、私たちは列車の中へ足を踏み入れた。
車内は外から見た印象以上に広くて、通路も落ち着いた色合いでまとめられている。床は磨き込まれていて、照明は明るすぎず柔らかい。いかにも“長旅のための空間”という感じで、ただ移動するだけの乗り物とはまるで違っていた。
客室は十五両編成の一番後ろ。そこまで移動するだけでも、ちょっとした探検みたいで楽しい。
「ここが、私たちの客室ね。四人で過ごすには割と快適そうだわ」
エリーが扉を開けながらそう言う。
中を覗き込んだ私は、思わず声を弾ませた。
「へえーっ、なかなかいい部屋じゃん! あ、見て、ルームサービスまである!」
ベッドは思ったよりしっかりしているし、座席も広い。荷物を置く場所も十分あって、窮屈さは感じない。これから一週間お世話になる場所だと思うと、ちょっとした秘密基地みたいで、それだけで気分が上がった。
――その時までは。
列車がゆっくりと動き出し、駅の景色が後ろへ流れていく。
最初のうちは、それだけで十分面白かった。旅に出たんだ、という実感が胸の中でふくらんでいく。知らない異界へ向かう高揚感もある。水の塔のこと、この先の冒険のこと、考えれば考えるほど楽しみで仕方がない。
けれど。
「……飽きた……」
走り出して一時間。
私は早くも限界を迎えていた。
窓の外を眺めても、景色が劇的に変わるわけじゃない。もちろん見慣れた街並みとは違うけれど、ずっと見ているとだんだん“流れていく景色”そのものに慣れてしまう。一週間同じ列車の中。しかも基本はこの客室で過ごすことになる。
……無理かもしれない。
向かいではエリーがすっかり落ち着いた様子で本を読んでいる。
フライヤは手帳みたいなものを開いていて、たぶん日記か何かを書いているのだろう。
ルアナは黙々と武器の手入れ中。あの集中力、少し分けてほしい。
私はというと――暇を潰せるものを、何ひとつ持ってきていなかった。
え、うそでしょ。
長旅なのに?
私、何考えてたの?
いや、たぶん何も考えてなかったんだと思う。冒険が始まるってだけで浮かれていたから。
でも、落ち込んでいても仕方がない。
たしかパンフレットには、この列車にはいろいろな施設があるって書いてあった。食堂車とか、談話室とか、暇つぶし用の設備とか。だったら、このまま客室でだらけているより、自分で見に行った方が早い。
「よし。探検しよう」
私は立ち上がると、すぐそばで丸くなっていたクロをひょいと抱き上げた。
「って、なんで我も行くことになってるニャ!」
「いいじゃない。クロもどうせ暇だったでしょ?」
「む……」
即座に否定してこないあたり、図星らしい。
私はくすっと笑って、クロを連れたまま客室の扉へ向かった。
通路へ出ると、列車特有の小さな揺れが足裏に伝わってくる。
規則正しい走行音。どこか遠くで鳴る車内アナウンス。すれ違う乗客の声。閉じた空間のはずなのに、この列車の中にはちゃんと一つの世界がある。そう思うと、少しだけ胸が高鳴った。
ただの暇つぶしのつもりだった。
少し車内を歩いて、珍しいものを見つけて、時間を潰せればそれでよかった。
――この列車で、これから面倒なトラブルに巻き込まれることになるなんて。
その時の私は、まだ想像もしていなかった。




