第72話 ルシフェル召喚
真っ白な廊下が、地下へと向かっていた。びみょうな傾斜。車いすを押していた青年は、タイヤが加速しないように、慎重に進めていた。その椅子にはひとりの老人が鎮座していた。
「怖いかね、レオナルドくん?」
老人は、しわがれた声でそうたずねた。
「い、いえ……」
ほほほと、老人は気味の悪い声を上げた。黒で統一された法衣に、金色の刺繍。いたって簡素なデザインだ。レオナルドと呼ばれた青年自身もまた、僧衣に身をつつんでいた。
「そんなに緊張せんでもよい。ちと珍しい御方に、お会いするだけのことよ」
カエクスII世。それが老人の名だった。
その恐れ多い名を、レオナルドは口にしなかった。代わりに敬称で答えを返した。
「猊下……本当に付き添いは、私でよろしかったのでしょうか……?」
レオナルドの問い掛けに、老人はぎこちなく首をひねった。ぽっかりと穴の空いた両目の奥に、青年は底知れぬ恐怖を感じた。すべてを見透かされているような気がした。
レオナルドは、乾き切った口を動かし、もう一度同じことをたずねる。
「本当に、私でよろしかったのでしょうか? 他の枢機卿をお選びしたほうが……」
「自分では役者不足と、そう言いたいのかね?」
カエクスの問いに、レオナルドはうなずいた。
13人いる枢機卿団。その枢機卿のとりまとめ役が、他ならぬこの老人であった。それに対して、レオナルドは、ただの司祭に過ぎなかった。
青年の心配をよそに、カエクスは前方へ顔を向けた。
「老人ばかりでは、ルシフェル様もがっかりなさるじゃろうてな」
カエクスはそう言って、例の気味悪い笑い声をもらした。本心なのか、それともからかわれただけなのか、青年には区別がつかなかった。
彼は黙って、車椅子を押し続けた。どこまで続くのだろうか。両サイドの松明は均等に並んでおり、だんだんと感覚が狂ってくる。
意識が半ば朦朧としかけたところで、正面に一枚の扉が現れた。青銅製の、いつ朽ち果ててもおかしくない代物だった。その把っ手には、大きな錠前がかけられていた。
「猊下、鍵をお願い致します」
カエクスはふところから器用に、ひとさしゆび大の鍵を取り出した。そして、まるで鍵穴が見えているかのように、あっさりと解錠した。
扉は、ひとりでに奥へとひらいた。中には闇が広がっていた。
「どうした? 入らぬのか?」
カエクスにうながされて、レオナルドは車いすを押した。車輪が、敷居でがたんと跳ねた。バリアフリーなどとは、およそ無縁の時代の設計である。レオナルドは、ひからびた老人の体重に感謝しつつ、車椅子を押し上げた。
レオナルドの右脚が床に着地したところで、四方に炎がはじける。青年は、危うく悲鳴を上げかけた。心臓に悪い演出を呪いつつ、レオナルドは部屋の中央へと向かった。四方は石造りの壁で、数十センチおきに松明が置かれている以外は、なにもなかった。
……いや、あった。レオナルドは、床に描かれた魔法陣に気が付いた。
「円陣の中に入らんようにな」
レオナルドの不注意を見咎めたように、カエクスは車椅子を静止させた。本当に盲目なのだろうか。レオナルドは、いつも疑問に思う。
静寂──炎の揺らぐ音すら聞こえる。
「下がっていなさい」
カエクスの指示に、レオナルドは無言で従った。一歩後退したところで、カエクスは右手を上げ、歯の見えないひからびたくちびるを動かす。
「すべての異端と、すべての虐げられし者のために、今、貴女様のお力を。Sub nomine regiae noctae domina est vocanda」
空間のゆがみ。それとも、空気に色がついているのだろうか。闇とほとんど見分けのつかない紫色のなにかが、竜巻状に魔法陣の中を旋回し始めた。
レオナルドは身中悪寒と戦いながら、召喚の儀式を見守った。
光がはじけ、突風がレオナルドを襲った。青年は、袖で視界をおおった。
「……」
風は、一瞬にして消え去った。レオナルドは、恐る恐る腕を下げた。
カエクスの乗った車椅子の向こう側に、人影があった。羊のような捻じ曲がった角と、浅黒い肌。若い女だった。
「ルシフェル様、お久しゅうございます」
カエクスは胸に手を当てて、慇懃に頭を下げた。女の容姿に見蕩れていたレオナルドは、挨拶のタイミングをのがした。それを叱責するように、女の瞳がレオナルドへ向けられた。
「その後ろにいるのは?」
氷のような声。レオナルドはハッとなり、すぐにカエクスと同じポーズで頭を下げた。
「レ、レオナルドと申します……お見知りおきを……」
青年の自己紹介に、ルシフェルはふんと鼻を鳴らした。その拍子に、尖った悪魔の尾が、彼女の尻で揺れていることに気がついた。
女はレオナルドを無視して、犬歯の見え隠れするくちびるを動かした。
「ここに呼び出されるのは、100年ぶりくらいかしらね」
「100年ぶりくらいではございません。きっかり100年ぶりでございます」
カエクスの細かい訂正を受け、ルシフェルは面倒くさそうに首を鳴らした。仁王立ちしたままの格好で、カエクスをにらみかえした。
「私を呼び出した理由は? 第三次世界大戦でも起こったの?」
ルシフェルは、電話の用件でも訊くかのような、つまらなさそうな顔をした。
「夢の国の使者が帰って参りました」
沈黙。それに続いて、ルシフェルの瞳にするどさが宿った。
「夢の国の使者が……? それって、確かな情報?」
「エミリア・フォン・ローゼンクロイツの部下が、じかに目撃したとのことです」
カエクスの報告に、ルシフェルはややうつむき加減になった。右手の人差し指で、組んでいる左腕の肘をこづいた。呼吸を止めているようにすら見えた。そもそも、していればの話だが。
1分ほどの深慮のあと、ルシフェルはその緋色のくちびるをひらいた。
「で、あなたたちはなにをしてるの? ちゃんと追っ手を派遣したんでしょうね?」
ルシフェルのきつい言い方にもかかわらず、カエクスは平然と答えを返した。
「極東の情勢が不穏でして、東京のアシヤ一族が壊滅。現在は、ワンと共産党政権が、一進一退の攻防を続けている状況にございます」
「共産党政権? ……蒋介石はどうしたの?」
「ルシフェル様がお帰りのあと、共産党軍に負け、台湾へ逃げ込みました」
ルシフェルは、軽く舌打ちをする。いらだたしげに、言葉を継いだ。
「じゃあ、ラスプーチンに援軍を頼んで、さっさと片付けなさい」
「ラスプーチンは、ワンおよびアシヤの危機につけ込み、三つ巴を展開中です」
はあ?と言わんばかりの顔で、ルシフェルはその美顔を崩した。
「あんたら、なにやってるの……? 私との契約を忘れたわけ?」
カエクスは、おおげさに首を振った。
「いえいえ、まさかそのような……超人的能力を授かる代わりに、夢の国に対する番兵として働く。それが、我々とルシフェル様の契約にございます」
「だったら、今すぐラスプーチンたちに命じなさい。すべての抗争は中止。緊急講和よ」
「しかし、ラスプーチンは無法者ゆえ、私の命令には……」
「聞こえなかったの!? さっさと講和なさい!」
女の大声が、松明の炎を揺らした。
レオナルドは、黙ってふたりのやり取りに聴き入っていた。
カエクスが返事をする暇もなく、ルシフェルは先を続ける。
「万が一従わない場合は、私の名で命じなさい。それでも反抗するなら、私が授けた能力は剥奪、即刻凡人にもどってもらうから、そのつもりで」
女はそう言うと、鞭のような尾を激しく揺らした。怒っているのだろうか。これでは、まるで犬のようである。レオナルドは、不謹慎な印象を受けた。
女は深呼吸して、その胸を大きく揺らした後、急に声の調子を落とした。
「大統領の動向は?」
「ご安心を。アメリカにとどまり、いずれの勢力にも加担しておりません」
目下のやり取りに、レオナルドはふと疑念をいだいた。なぜ大統領の所在が殊更に重要なのか、それが分からなかったのである。報告を聞いたルシフェルは、安堵の表情を浮かべていた。
「さすがに大統領は、耄碌してないみたいね……他の組織は?」
「血塗れメアリー、オルレアンの魔女、吸血姫らは、EU圏内にとどまっております」
「EU? なにそれ?」
「ヨーロッパ連合でございます。最近、急速に国民国家の解体が進んでおりまして……」
ルシフェルは、聞きたくないと言った感じで、右手を振った。
「人間の考えることなんて、ロクなもんじゃないんだから、どうでもいいわ」
女の暴言に、カエクスはただ笑うばかりであった。レオナルドも、追従を浮かべた。
ルシフェルは、今までの情報をまとめるように、長い爪をあごに添えた。天井を見上げながら、ぺろりとくちびるを舐めた。
「こうなると、幹部会が必要ね……今すぐ召集できる?」
カエクスの顔から、笑みが消えた。難題を突きつけられた子供のように、口をすぼめて首を前に落とした。
「幹部会でございますか……全員を集めるおつもりで?」
「当然。じゃなきゃ意味がないでしょ。場所はアメリカの……」
そこまで言って、ルシフェルは口をつぐんだ。額に手を当て、なにか考え込んでいる。
しばらくの思案の後、彼女は右手を大きく伸ばした。ひとさしゆびの爪を突き出し、前言を撤回した。
「アメリカはまずいわね……ワンたちの現在地は?」
「上海とうかがっております」
即答するカエクス。この情報は、レオナルドがもたらしたものである。
「オッケー、じゃあ上海に全員集合よ。今から12時間以内にね」
12時間。その時間制限に、レオナルドは口を挟みそうになった。
その前に、カエクスが同じ言葉を告げた。
「それは難しいかと存じます」
ルシフェルは眉間にしわを寄せ、ふたたび腕組みをした。
「どうして?」
「各組織とも、独自の活動をおこなっておりますので……特に、メアリー様はご病気が重くなられていると……」
ルシフェルは、小馬鹿にしたようなタメ息を漏らした。
「そんなの理由にならないわよ。この私が命令しているの。遅刻したら、能力剥奪のペナルティだから、そこんとこよろしく。病欠も禁止」
能力剥奪。ほとんど最も重いペナルティだった。
そこまで緊急を要するのだろうか。
レオナルドの戸惑いをよそに、ルシフェルは追加事項を述べる。
「あ、それと枢機卿、あんたは参加しなくていいから、ローマにいなさい」
「ほお……そうなると、司会がおりませんが……」
「いくらなんでも、ガキじゃないんだから、子守り役は不要よ」
ルシフェルの指示に、カエクスはうなずきかえした。
「して、議題は?」
ルシフェルは、眉をひそめた。
「夢の国対策に決まってるじゃない……他になにがあるの?」
「しかし、悪の組織の幹部とは言え、夢の国と直接対峙した者はおりません。いきなり対策を練れと言われても、おぼつかないと存じますが……」
カエクスの理由付けに納得したのか、ルシフェルは中指をくちびるに添えた。
「それもそうね。夢の国を現に見たことがあるのは、私だけだし……でも、あなたたちには、奴らと戦うために十分な力を授けてあるわ。そのおかげで私は……」
ルシフェルは、地面にある魔法陣を蹴った。魔力が衝突したのか、火花が散る。
「こんな魔法陣からも出られないってわけ。そのへんの事情、よーく加味しなさい」
「いったん、すべての魔力をお引き上げになられるというのは?」
カエクスの大胆な提案に、レオナルドは目を見開いた。そんなことをすれば、カエクスは寿命が縮み、下手をすれば死に至りかねない。そこまでして忠誠心を示す枢機卿に、レオナルドはあらためて敬意を感じざるをえなかった。
けれども、ルシフェル自身がそのアイデアを拒んだ。
「それはダメ。あなたたちの力を回収しても、結局はアレを封印する必要があるから。そこに魔力の大部分を使ってるわけだし、問題の解決にならないわね」
ルシフェルは、対象をぼやかした。レオナルドは、ちらりと枢機卿を盗み見た。
どうやら枢機卿は、「アレ」が何か分かっているらしい。皺だらけの顔からは読み取れないが、雰囲気でそうと知れた。ローマの地下で働いているにもかかわらず、レオナルドは「アレ」に関する情報を、一度も耳にしたことがない。それどころか、ルシフェルがなにかを封印していることすら、初耳であった。
レオナルドは視線を上げ、ルシフェルの顔をまなざした。彼女は、疲れているようだった。召喚酔いなのか、はたまた魔力の使い過ぎなのか、それとも──
「ま、とにかく頑張ってちょうだい。以上よ」




