第71話 黒雲、城を圧して
清美は震えていた。おこりにかかったように、全身を震わせていた。
今にも卒倒しそうになる彼女の意識を支えているのは、道遥の指。彼女の二の腕に掛けられたそれは、優しくも、厳しい調子で、肌に食い込んできた。
「人を……殺しちゃった……」
声が割れる。自分でも、なにを言っているのか分からなかった。奥歯が鳴り、今にも涙があふれそうになった。
これは現実なのだろうか。清美は、硬直した両腕をあげた。赤銅色の液体がべっとりと、少女の手の平に広がっていた。叫びそうになった清美の口を、道遥の手が封印した。
「お静かに……」
おさえられた悲鳴を補うように、清美の瞳から涙があふれ始めた。滂沱のごとく流れ出る涙の川が、清美の紅潮した頬を伝った。
ぼやける涙の向こうで、王の声が聞こえた。
「人を殺めた程度で取り乱すとは……とんだ助っ人ですね……」
清美はなにも考えられなかった。血糊がつくのも構わず、顔をおおった。
「王殿、少しは言葉をお選びください」
道遥の声。清美はかばわれたことに、なんの感情もいだけなかった。
死んだ兵士の絶叫が、頭の中にフラッシュバックしていた。
「蘆屋殿、その少女は足手まといです。もうすぐ第二派が来ます」
耳元に、蘆屋の息遣いが聞こえた。
頬を寄せられた感触に、清美は初めて気が付く。
「戦えますか?」
無理だ。そう言いたいにもかかわらず、舌が動かなかった。むりやり動かそうとする清美だが、感じるのは筋肉の痙攣ばかりだった。
王の声が聞こえる。
「蘆屋殿、どう見ても戦える状態ではありません。ここに打ち捨ててください」
「戦えますか?」
清美は首を振った。それだけが、彼女にできる唯一の仕草だった。
少年のタメ息。それは失望にも、後悔にも聞こえた。
「……分かりました。彼女を避難させます」
「避難ではありません……ここに捨ててください」
氷の刃のように、王の声が清美の胸を突いた。
だがそれすらも、今の清美には、心地よかった。いっそのこと、ここで捨てられたほうが楽ではないか。少女は、そんなことを思った。
「それはできません」
蘆屋ははっきりと、そう答えた。それは、清美の予想していない言葉だった。
その真意も解せぬままに、声が入れ替わた。
「蘆屋殿、あなたがぜひにとおっしゃるから、その少女を引き入れたのです。彼女のせいで我々が不利になるようなら、あなたに全責任を負ってもらわねばなりません」
責任。悪の世界に責任というものがあるのかを、清美は知らなかった。知りたくもなかった。ただひたすら、この場から立ち去りたいと思っていた。あるいは、彼らに立ち去って欲しいと。今の彼女には、どちらも同じことであった。
混濁する清美の意識をよそに、会話は続けられた。
「彼女は、安倍清明のクローン。貴重な戦力です」
「血筋が確かでも、経験がなければただの生娘。それに、安倍清明はあなたの宿敵だったはず。なぜそれほどまでに庇うのです? まさか、抱いて情が移ったわけでもありますまい」
二の腕にかけられた指に、力が入る。清美の肌は、それをはっきりと感じ取った。
「そういう勘ぐりは、やめていただきたい」
「ならば、現状を冷静にご覧ください。我々は、北京警察の主力とぶつかっています。彼女の狼狽に関わり合っている暇はないのですよ。どうか、ここへ捨ててください」
「彼女を捨てては行けません。ならば、私も残ります」
二度目のタメ息。それは、王の口から発せられたものだった。
涙で見えなくても、それは分かった。
「一月前にお会いしたときと、まるで人が違う……やはり、その少女となにかあったのではありませんか? ……いえ、お答えにならなくても結構。揉めている時間はありません。あなたが意固地になられるなら、こちらにもそれなりの考えがございます」
「それは?」
「その少女に死んでもらいます」
二の腕が締め付けられた。肩を抱きよせられ、清美はバランスをくずした。
「その場合は王殿……ここであなたと、長年の決着をつけることになります」
強烈な殺気が、清美を襲った。間違いなく、王のものだ。
殺される。そう考えた清美だが、一瞬にしてその空気は消え去った。
後には、空しいすれ違いだけが残った。
「ふぅ……これでは埒が開きませんね……私は今、あなたの力をコピーさせてもらっています。それゆえに、あなたを殺すことができない。そこまで考えての拒絶なのでしょう。日本人は、こういうところで妙に賢しいから困るのですよ。私の同化能力は、あくまでも相対的な代物。雑魚をいくら取り込んでも、意味がないのですから」
「別に駆け引きをしているわけではありません。ただ、彼女を置き去りにするのは、自殺行為だと申し上げているのです。隠密課に回収されるおそれもあります」
舌戦は、そこで終わりを告げた。引いたのは、王のほうだった。
涙の薄れ始めた清美は、蘆屋の温もりを感じながら、王の視線を避けていた。自分は足手まといになっている。そのことは、彼女自身がよく知っているのである。
「仕方がありません……今回は貸しに致しましょう……」
王は呆れ気味に、そうつぶやいた。
その瞬間、銃声が鳴り響いた。王と蘆屋の体に気が充満し、臨戦態勢に入った。
蘆屋は清美をじぶんのうしろにさげた。
「安倍殿……いえ、緑川殿、後ろをお下がりください……ここは私にお任せをッ!」
○
。
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清らかな笛の音が、天高く昇り、星辰をふるわせていた。
聞き知らぬ曲にもかかわらず、ムサシは妙に心が落ち着いた。戦場に似つかわしくない心境に、ムサシはただただ驚くばかりだった。
前方で、炎が上がった。かすかに銃声も聞こえていた。あれは、清美たちが向かった方角だ。そう気付いたムサシは、心にわずかな波風が立つのを感じた。しかしそれも、十三不塔が奏でる音色の前では、極めて無力であった。
「だれも来ないアルね……」
5階建てのビルの屋上。その端に腰掛けた一向聴が、頬肘をついた格好で、そうつぶやいた。暇そうに、脚をぶらぶらさせていた。高所には慣れているのか、地上との距離など、まったく気にしていない様子であった。
十三不塔は演奏をやめ、腰を上げた。
もう少しだけ聞いていたい。そんな思いが、ムサシの中に広がった。
十三不塔は笛をしまいながら、
「ここは、一番の住宅街だからね。北京警察も、迂闊には手出しできないよ」
と言った。そして、大きく背伸びをした。体がなまってしまいそうだと言わんばかりに、その場でぴょんぴょんと飛び跳ねた。
ムサシは十三不塔に話しかける。
「救援に行かなくていいのか? 王たちの向かった方角は、えらく騒がしいが……」
「大丈夫、大丈夫。王様は負けたりしないから」
首領に対する絶大な信頼。それとも油断だろうか。ムサシは判断しかねた。
王の実力がどれほどのものであるのか、彼は知らないのだ。
「だったら、手薄になってそうな地域に移動するのは?」
「なに? そんなに戦いたいの?」
十三不塔は、からかうようにムサシの顔をのぞきこんだ。
「……そういうわけじゃない」
ムサシは、自分の胸騒ぎの中身を、理解しかねていた。この場に留まっていることがどれほど安全かは、彼自身が一番よく知っている。このままいけば、人を殺めることもないだろう。ただそれは、ムサシがあらかじめ覚悟していた事態とは、似ても似つかぬものだ。
ムサシは息をつき、両腕を組んだ。
「ただ、じっとしているのが怖くてな……」
「分かるよ。初めは誰でもそうだから。動かないことが、かえって恐怖になるのさ」
小学生のような外見の男に、先輩顔をされた。ムサシは、なぜか笑ってしまった。
「ん、なにがおかしいの?」
「いや……こんなことになるとは、思ってなくてな……」
十三不塔は両腕を後頭部で組み、そのまま前に歩み出す。
その歩調に合わせて、彼はひとつの詩を口ずさんだ。
黑雲壓城城欲摧
甲光向日金鱗開
角聲滿天秋色裏
塞上燕支凝夜紫
半卷紅旗臨易水
霜重鼓寒聲不起
報君黄金臺上意
提攜玉龍爲君死
十三不塔は、そこでくちびるを閉ざした。
一抹の風が、ムサシと彼とのあいだを吹き抜けた。
「……なんだそれは? 歌か?」
「唐代の詩人、李賀の『雁門太守行』だよ」
中国語を解さないムサシには、ひとつもピンとこなかった。ただ、十三不塔の声調とリズムだけが、それを歌っぽく響かせただけのことである。
「詩を口ずさむ余裕があるとは、大したもんだな」
「ん? バカにしてるの?」
「いや……褒めてるのさ……」
ムサシは、本音をつぶやいた。
自分のほうが、よほど焦燥に駆られている。ムサシはそう思った。早くこの戦いが終わって欲しいと、そう願っていた。もちろん、その後の身の振り方も問題なのだが、それよりも今は、自分が殺人を犯してしまう可能性に、頭を悩ませなければならなかった。
自分は、人を斬れるだろうか。ムサシは、自問自答した。
「えっと、黒金ムサシくんだっけ?」
十三不塔に名前を呼ばれ、ムサシはうなずき返した。
「きみは、剣道をやってるんだよね? 人を斬ったことはあるの?」
「……ない」
あるはずがない。ただのスポーツだ。ムサシは、心の中で付け加えた。
「ふーん……じゃあ、斬ろうと思ったことは?」
ない。ムサシは、そう動かしかけたくちびるを止めた。
しばらく思い悩み、そこから得た結論を口にした。
「……ある」
「へえ、あるんだ。それはどういう……」
「正確に言うと、トモエの話だがな」
「トモエ?」
十三不塔は、ふと首を傾げた。ムサシは、自己紹介が遅れていることに気づいた。
「女体化したときの名前だ」
「ああ、そういう……でも、結局はきみのことじゃないか」
ムサシは、なんと説明したものか迷った。
カオルや清美なら、首肯することができるだろう。あのふたりは、男でも女でも、大して性格が変わらない。ほがらとジュリアについても然りだ。
とくに清美は、外見も体格もほとんど一緒である。本人はそのことに不満らしいが、男版と女版で心身が一変してしまうムサシにとっては、かえって羨ましいことであった。
「なんて言えばいいんだろうな……俺は性別転換すると、性格が変わるんだ……自分で言うのも変だが、トモエのほうが直情的だと思う……」
「ああ、それで男になってから、やたらと無口なんだね」
それだけではない。戦いのまえの緊張ということもあった。
だがムサシは、敢えて首を縦に振った。
十三不塔は笑った。
「若いのに、随分と図太いんだね。見直したよ。僕なんか、何年経っても緊張するからね」
「嘘だろ。だったら、歌なんか歌わない」
ムサシの返答に、十三不塔は口元をほころばせた。
「違うよ。そうやって余裕を見せること自体が、余裕のない証拠なのさ」
やや皮肉めいた謙遜に、ムサシは目を閉じた。海風が東から吹いてくる。どことなく潮の香りのするそれは、ムサシを深い瞑想へといざなった。
それを打ち破るかのように、一向聴がおごそかに口をひらいた。
「……来たアル」
ムサシは、まぶたを上げた。
耳を澄ませてみても、風鳴りの音が聞こえるばかりだった。
どうやら一般人の自分では、分からない物音らしい。
十三不塔は、
「王様と蘆屋のディフェンスを抜けないとみて、こっちに迂回してきたみたいだね」
と分析した。
「じゃ、あたしたちの出番アル」
ムサシは、蘆屋に調達してもらった刀の柄に手をかけた。
「俺も行ったほうがいいか?」
怯懦ではない。単に足手まといになると思ったのだ。
震える指を押さえ込み、ムサシは自分にそう言い聞かせた。
「んー、ムサシお兄ちゃんは、ちょっと足手まといかなあ……」
十三不塔はそう言うと、軽く肩を回した。準備体操のつもりだろうか。
今からマラソンでもするような言い方に、ムサシは自分が歯がゆくなってきた。
「じゃあ、俺はどうすればいい?」
「ここで待っててくれればいいよ。なにかあったら、無線で連絡して。見張り役ってことで」
ムサシが返事をする間もなく、十三不塔はその場でトンボ返りをした。
ポンと煙が上がり、一匹の巨大な虎に変身した。好きな動物に一定時間生まれ変わる。それが、十三不塔の能力だった。
「ハイヤ!」
一向聴は、虎の背中に飛び乗った。
「善は急げヨ! 遅れは許されないアル!」
「もう……人を乗り物代わりにしといて、よく言うよ……」
「いいから行くネ!」
十三不塔は、コンクリートの地面をひと掻きすると、そのまま宙を舞った。
一向聴の悲鳴。虎は尾をひるがえして、ビルの闇へと消えた。カチカチという爪の音だけが、ふたりの移動先をムサシに告げ知らしていた。
だが、やがてそれも聞こえなくなった。
静けさのもどった屋上で、ムサシはひとり苦笑した。
「足手まといか……面と向かって言われるときついな……」
「そんなことはない」
闇から聞こえた声に、ムサシは身がまえた。
「だれだ?」
ムサシの問いに、答えは返ってこなかった。
ただ闇がうごめき、黒いスーツを着た壮年の男がひとり、彼の前に姿を現した。一見して東洋人のようだ。けれども、国籍は分からなかった。
正体をもう一度尋ねようとしたとき、ムサシは男の腰にある棒状のものに気が付いた。それが刀の鞘だと分かるまで、ものの数秒とは掛からなかった。
ムサシは臨戦態勢をとった。
「名乗れッ!」
ムサシの口上にもかかわらず、男は平然と歩を進めた。
「きみは仕える先を間違えている。七丈島では、あれほど活躍してくれたではないか。きみは足手まといではない。単に、寝返った相手が悪かっただけなのだよ」
七丈島の出来事を持ち出され、ムサシは相手の正体に勘づいた。
「……隠密課の連中か?」
男は、ムサシの数メートル前で歩を止めた。目を見開き、じっと少年を見据えた。
「私は隠密課課長、柳生影勝、お会いできて嬉しいよ。黒金ムサシくん」




