第2話 市場は、まっすぐ歩けない
起 ぶつかる市場
収穫祭の三日前、ベルフィオラの大市場は、朝から大変なことになっていた。
「どいて、どいてーっ!」
野菜を山ほど積んだ荷車が、石畳の通りを進んでくる。
「待ってください、こっちも通ります!」
反対側からは、布を抱えた染め物屋が駆けてきた。
その間を、朝食のパンを買いに来た人、学校へ急ぐ子ども、魚をかついだ行商人、かごを持ったおばあさんが行き交う。誰もが一歩ずつ進みたいのに、誰かが進めば誰かが止まり、止まったところへまた別の人がぶつかる。
ごとん。
荷車の車輪が、果物の箱に当たった。
ころころころ、と赤いりんごが石畳を転がる。
「ああっ、りんごが逃げた!」
まじゅ姫は、りんごを追いかけて市場の角を曲がった。今日はめずらしく、髪をリボンでまとめ、王女らしい青い上着を着ている。けれど、両手にりんごを抱え、片方のブーツに魚のうろこをつけている姿は、あまり王女らしくなかった。
「ひとつ、ふたつ、みっつ……あれ、あの子もりんごを持ってる!」
市場のはずれで、男の子がりんごを拾って立ち尽くしていた。まじゅが近寄ると、その子は真っ赤になった。
「ちがうよ。取ったんじゃないよ。転がってきたから、戻そうとしてたの」
「知ってる。困ってる顔だったもの」
まじゅは笑って、男の子のりんごを受け取った。
そこへ、見習い書記のフィンが、人波をかき分けながらやってきた。手には書類の束、肩には小さなかばん。そして、顔にはいつもの困った表情を浮かべている。
「姫さま。先に市場へ行かないでください。収穫祭の準備について、組合長とお会いする予定だったでしょう」
「来たよ。りんごと一緒に」
「来る途中で、予定外の仕事を増やしているように見えます」
フィンが見渡すと、通りの真ん中では、二台の荷車が向かい合ったまま動けなくなっていた。
片方には麦の袋。もう片方には、祭りに使う大きなかぼちゃが積まれている。どちらの御者も、引くに引けない顔をしていた。
「そっちが下がれ!」
「こっちは朝から待ってたんだ!」
「麦は今日中に粉屋へ届ける約束だ!」
「かぼちゃだって、明日の飾りつけに間に合わない!」
その声に、通りの人たちも次々に言い始めた。
「荷車は裏道を通ればいいのよ」
「裏道は狭くて危ない」
「客が立ち止まっているからだ」
「店を端へ寄せたら売り物が見えないじゃないか」
「子どもが走るから悪い」
「大人だって押してる!」
まじゅは、りんごを抱えたまま、ぴたりと動きを止めた。
みんな、正しいことを言っている。
だから、ますます通れない。
そのとき、市場の奥から、よく通る声が響いた。
「静かにおし!」
声の主は、八百屋のミレイアだった。第一話でパン屋通りの騒ぎを一緒に見た、赤いスカーフの市場組合長である。
「姫さま、フィン君。ちょうどいいところに来たね。収穫祭の市場割りについて、役所からのお達しを持ってきたんだろう?」
フィンは書類を抱え直した。
「はい。今年は来客が多い見込みなので、露店を増やす案です」
「増やす?」
ミレイアの片眉が上がった。
「この通りを見てから言いな。市場はもう、まっすぐ歩けないんだよ」
まじゅは、転がったりんごを箱へ戻した。
「じゃあ、まず、どうしてまっすぐ歩けないのか、見てみよう」
フィンは小さくため息をついた。
「今日は、肖像画の予定はないのですね?」
「ないよ」
「それはよかった」
承 みんなの「ここを通りたい」
まじゅとフィンは、朝から昼まで市場を歩いた。
……正確には、歩こうとした。
香辛料店の前で立ち止まり、干した葉の香りをかいでいる人がいる。その横を、荷物運びの少年が大きな箱を抱えて通ろうとする。布屋では、色鮮やかな布が風にはためき、見物人が足を止める。魚屋の前は、水を流しているため、みんなが端を避けて狭いところに集まる。
さらに、通りの真ん中には、荷車が荷を下ろす場所がある。朝は荷車で詰まり、昼は買い物客で詰まり、夕方は帰る人と片づける店主で詰まる。
「同じ場所が、時間によって違う顔をしてますね」とフィンは言った。
まじゅは市場の地図をのぞき込んだ。
「ここ、細いのに、みんな通りたがる」
「井戸があるからです」とミレイア。「水をくみに来る人もいるし、広場への近道でもある」
まじゅは、何人かに声をかけた。
「どこへ行くの?」
「粉屋」
「薬草店」
「西門。急ぎの配達だ」
「祭りの飾りを見たいの」
「ただ座って休みたいだけだよ」と、ベンチにいた老女が言った。「でも、ここしか日なたがないんだもの」
まじゅは、ひとりひとりの答えを、ひらめき帳に書いた。
粉屋へ行く人は、荷車といっしょ。
薬草店へ行く人は、においを気にして魚屋を避ける。
子どもは、甘いお菓子屋の前で止まる。
休む人も、通る人も、同じ場所がいる。
昼すぎ、まじゅたちは市場の外れにある空き地へ出た。
そこでは、霧峰山地から羊毛を運んできた羊飼いの少女、ダダンが、羊たちを休ませていた。まじゅと同い年くらいの、日に焼けた頬の少女だ。
「ダダン!」
「まじゅ姫」
ダダンは、羊の耳の後ろをかいてやりながら言った。
「王都の市場は、朝からずっとうるさいね。山のカケスよりうるさい」
「みんな、行きたい場所があるのに、進めないんだ」
「ふうん」
ダダンは羊の群れを見た。
羊たちは、細い木の柵のあいだを、もこもこと進んでいる。一匹が立ち止まりそうになると、後ろの羊も止まる。けれど、前から別の羊が来ると、ダダンが手をたたいた。
「行く羊は右、帰る羊は左。朝と夕方で道を変えるんだ」
「でも、羊はどっちへ行けばいいかわかるの?」とまじゅ。
「最初の何匹かは迷うよ。でも、柵に青い布を結んでおくと、朝に出る羊は青いほうへ進む。夕方は黄色い布を出す。毎日同じだから、すぐ覚える」
まじゅは、ぱちりと目を瞬かせた。
青い布。
黄色い布。
同じ道でも、時間によって、進む向きを変える。
「わかったかもしれない!」
「姫さま」と、フィンがすぐに言った。「まだ『かもしれない』の段階です。紙に書く前に、人の話をもう少し聞きましょう」
まじゅは、口をとがらせた。
「ちゃんと『かもしれない』って言ったのに」
「前より進歩です」
その夜、まじゅとフィンは市場組合の小さな集会所へ行った。
店主、荷運び人、買い物客、井戸番、子ども連れの人、そして、露店を増やしたい役人が集まっている。
まじゅは、羊の話をした。
「朝は荷車が市場へ入る時間だから、通りを荷車の進む向きだけにするの。昼は買い物の人が多いから、反対向きにしてみる。青い旗と黄色い旗を立ててね」
しん、と部屋が静かになった。
最初に口を開いたのは、かぼちゃ荷車の御者だった。
「なるほどな。正面から荷車が来なけりゃ、朝の荷下ろしはずっと早い」
だが、すぐに布屋の主人が手を挙げた。
「うちの店は、反対側から来るお客さんが多いんだ。昼に一方通行になったら、遠回りで来なくなる」
「荷車だけ優先されるのも困る」と、買い物かごを持つ女性が言った。「朝しか来られない人もいるのよ」
「子どもたちは?」と、学校の先生が言う。「学校は朝に始まります。市場を遠回りさせるのは危ない」
まじゅの案は、出したとたんに、あちこちから小石を投げられたようだった。
けれどフィンは、手帳を開いた。
「反対意見は、失敗の印ではありません。考えることが増えただけです」
まじゅは、少しだけ顔を上げた。
「じゃあ、朝に市場を通らないと困る人から、もう一回聞かせて」
転 旗だけでは、道にならない
次の日、まじゅたちは試しに、市場の真ん中の通りへ青い旗を立てた。
朝の八つ鐘まで、荷車はこちらから
反対側には黄色い旗を立てた。
歩く人はこちらから
旗のそばには、フィンが大きな字と絵で案内板を書いた。荷車の絵。人の絵。井戸の絵。市場に文字の読めない人もいるためだった。
最初の十分は、うまくいった。
荷車は正面からぶつからず、人も端を歩く。御者たちは驚いたように、いつもより早く荷を下ろした。
「ほら、できた!」
まじゅが言いかけたときだった。
「ちょっと待って!」
黄色い旗の下で、小さな女の子が泣き出した。母親と手をつないで薬草店へ行こうとしていたのに、歩く人の道が魚屋の水場の横を通るため、足もとがぬれて進めないのだ。
さらに、青い旗の道では、荷車が止まっていた。
麦の袋を運ぶ御者が、荷下ろしの場所へ入れない。そこには、朝しか店を開けられない牛乳売りがいて、桶を並べていた。
「わたしの場所はどうなるのさ」と牛乳売りの女性が言う。「毎日ここで売ってきたんだよ」
「でも、荷車が通れないと、みんなの品物が届きません」とフィン。
「なら、わたしはどこで売ればいいの?」
その言葉に、まじゅは答えられなかった。
道を分けたら、進みやすくなると思った。
でも、道の端には、そこを使って暮らしている人がいた。
まじゅは市場の真ん中に立ち、流れの止まった人々を見た。青い旗と黄色い旗は、風にぱたぱたと鳴っている。
色をつけただけでは、道にはならない。
そのとき、トトが人混みの向こうから走ってきた。王城の台所から、お使いを頼まれてきたらしい。腕には空のかごを抱えている。
「まじゅ姫! お昼のスープ用の豆を買いに来たのに、店までたどり着けない!」
「ごめん。今、道を直してるの」
「道って、旗のこと?」
トトは首をかしげた。
「旗じゃなくて、みんながどこに行くかがわかればいいんじゃない?」
「どこに行くか……」
「僕、豆屋に行きたい。牛乳屋のおばさんは、朝のうちに売りたい。荷車のおじさんは、荷を下ろしたい。学校の子は、学校へ行きたい。みんな、同じ市場にいるけど、行き先は違う」
まじゅは、昨日のひらめき帳を開いた。
粉屋へ行く人。
薬草店へ行く人。
井戸へ行く人。
休む人。
荷を下ろす人。
彼女は、昨日はそれを「混雑の理由」として書いた。
けれど、違う。
これは、「道をつくる材料」なのだ。
「フィン。市場の地図、もっと大きく描ける?」
「ええ。ですが、今からですか?」
「今から! それと、店の人たちにも、紙を一枚ずつ配って。朝、どこに荷を下ろすか。どの時間に一番お客さんが来るか。水場が必要か。静かな場所が必要か。書けない人には、私が聞く」
「わかりました」
まじゅは、牛乳売りの女性の前に立った。
「おばさん。朝、ここで売りたい理由、もう少し教えて」
女性は少し驚き、それから言った。
「牛乳はあったかいうちに売りたいの。それに、子どもを学校へ送ったあと、ここへ来るのが一番早い」
「じゃあ、学校へ行く子どもが通る道のそばにいたほうがいいんだね」
「そうさ」
次に、魚屋へ聞く。
「水を流す場所を変えられる?」
「変えられるが、排水の穴がここにしかない」
「じゃあ、ぬれない板の道を置ける?」
次に、ベンチの老女へ聞く。
「おばあさん。日なたの休む場所は、ほかでもいい?」
「花屋の壁ぎわなら、午後も暖かいよ。でも座るものがないね」
次に、学校の先生へ。
「子どもたちが安全に通るには、何がいる?」
「急ぐ荷車と交わらない道。それから、立って見守る大人」
市場の人々は、最初、半信半疑だった。
けれど、まじゅが一人ずつ、急がず話を聞くのを見て、少しずつ声を出し始めた。
「うちの店は、昼だけ人が増える」
「荷下ろしなら、裏の細道を使える日もある」
「祭りの日だけ、花屋の前を休む広場にしよう」
「お菓子屋の列は、壁側に並んでもらえばいい」
フィンは紙を地図の上へ置き、色の違うひもを引いた。
青いひもは、朝の荷車の道。
緑のひもは、学校へ行く子どもの道。
赤いひもは、井戸と薬草店へ行く人の道。
白いひもは、休む場所と買い物の列。
地図の上で、ひもは何度も交差した。
まじゅは、その交差する場所に、小さな丸をつけた。
「ここには、人が立って案内しよう。ここは、時間をずらせばぶつからない。ここは、通れないから、店の場所を少し替えよう」
ミレイアは、地図をじっと見ていた。
「道っていうのは、石畳のことじゃないんだね」
「うん」とまじゅ。「みんなが、相手の行き先を少しずつ知っていることかもしれない」
結 みんなで歩く道
収穫祭の初日。
市場の入口には、昨日よりずっと大きな案内板が立った。
文字の横には、絵がある。
•朝の青い車輪――荷車の通る時間
•緑の小さな靴――学校へ行く子どもの道
•赤い水差し――井戸と薬草店への道
•白いベンチ――休む広場
石畳には、色のついた小さな印が並んでいる。毎日塗り直すのは大変なので、祭りの間だけ、砕いた色石と水に強い手のひら術で印をつけた。
牛乳売りの女性は、学校へ向かう緑の道のそばに店を移した。子どもたちは、通りながら牛乳を買っていく。
魚屋の水場には、石工ガロが作った低い木の橋がかかった。ぬれずに歩けるようになったので、薬草店へ行く人も安心して通れる。
花屋の壁ぎわには、古い木箱と布を使った休み場所ができた。ベンチの老女は、さっそくそこに座り、通る人へ「青い印はこっちだよ」と教えていた。
もちろん、最初からすべてがうまくいったわけではない。
昼前には、青い車輪の印を見た観光客が、「荷車に乗れる道だ」と勘違いして並んだ。午後には、お菓子屋の列が長くなりすぎて、白い休み場所を半分ふさいだ。
けれど、そのたびに、近くの人たちが集まった。
「お菓子屋の列は、ここを曲がらせよう」
「案内の絵を、もっと大きくしよう」
「休み場所に花を置いたら、列と間違えないかも」
まじゅは、あちこちを走りながら、ひらめき帳に書き込んだ。
夕方、祭りの鐘が鳴るころには、二台の荷車が向かい合って止まることはなかった。
人々は、急ぐときには急ぎ、立ち止まりたいときには立ち止まれた。
市場は相変わらずにぎやかで、少しせまくて、魚のにおいと花の香りと焼き菓子の甘いにおいが混じっていた。
でも、ぶつかる音は減っていた。
「姫さま」
ミレイアが、祭りの飾りに使う小さなかぼちゃを一つ差し出した。
「最初は、また姫さまの思いつきで市場がひっくり返るかと思ったよ」
「ひっくり返りかけたね」
「だけど、最後にちゃんと聞いた。そこは、えらかった」
まじゅは、かぼちゃを受け取った。
「最初から聞けばよかったんだけど」
「最初からできる人なんて、面白くないよ」
フィンが、少し離れた場所から手帳を閉じた。
「本日の記録です。荷下ろしにかかる時間は、昨日の半分。子どもの遅刻はゼロ。牛乳売りの売り上げは――」
「それは言わなくていいよ」と、牛乳売りの女性が笑う。「でも、悪くないね」
ダダンは、羊毛の荷を荷車に積みながら、まじゅへ言った。
「王都の人は、羊より話すことが多いね」
「羊も話すよ。耳としっぽで」
「じゃあ、王都の人は?」
まじゅは、祭りを楽しむ人々を見た。
「足で話すのかも。どこへ行きたいか、どこで止まりたいかって」
ダダンは、よくわからないという顔をしたあと、笑った。
「まじゅ姫らしい答え」
王城へ戻る途中、まじゅは市場の入口で立ち止まった。
青い印、緑の印、赤い印、白い印。
誰かひとりのための道ではない。けれど、誰かひとりを忘れないために、たくさんの道があった。
まじゅはひらめき帳を開いた。




