第1話 なくなった朝のパン
起 朝のパンが泣いている
ベルフィオラの朝は、鐘より先にパンのにおいで目を覚ます。
王城の高い塔の窓から見下ろすと、まだ青い朝もやの向こうで、パン屋通りの煙突が一本、二本、三本と白い息を吐いていた。焼けた小麦、甘いバター、少し焦げた皮。町の人たちは、そのにおいを吸い込むと、「今日も朝だな」と思うのだった。
ところが、その朝のまじゅ姫は、肖像画を描かれるためにじっと椅子へ座ってなどいなかった。
彼女は塔の屋根のてっぺんにまたがり、片手で雨どいをつかみ、もう片方の手で目の上にひさしを作っていた。
「姫さま! そこから一歩も動かないでください!」
塔の小窓から、見習い書記のフィンが青い顔を出した。
「動かないよ。動いたら落ちるもの」
まじゅは、いかにももっともらしく答えた。
「そういう意味ではありません!」
その下では、宮廷画家が絵筆を握ったまま、ほとんど泣きそうになっていた。今日こそ姫の正式な肖像画を仕上げるはずだったのに、肝心の姫は、王冠もかぶらず、髪に枯れ葉を一枚つけて、屋根の上にいる。
まじゅは返事をせず、じっと城下町を見ていた。
「フィン。あそこの煙、見える?」
「煙? どれですか」
「パン屋通りの、一番大きな煙突。煙が北に流れてる」
フィンは目を細めた。
「北……ですか。風向きが変わったのでは」
「ううん。今日は南から風が来てる。旗がそう言ってるもの」
城門の上に掲げられた青い旗は、南からの風を受けて、北へまっすぐなびいていた。
けれどパン屋通りの煙だけは、まるで目に見えない手で押されたように、南へ流れていた。
まじゅは鼻をひくひくさせた。
「それに、朝のパンが泣いてるにおいがする」
「……パンは泣きません」
「泣くよ。ちゃんと焼けなかったときは」
そのとき、城下のほうから、かん高い声が聞こえた。
「たいへんだ! また硬いぞ!」
続いて、別の声。
「昨日買ったのは石みたいだったわ!」
「呪いだ、きっとパン泥棒の呪いだ!」
まじゅは、ぱっと目を輝かせた。
「ほらね。朝のパンが泣いてる!」
「姫さま、まさか……」
「行こう、フィン!」
「行くのは構いませんが、まずは屋根から降りてください!」
まじゅ姫は、雨どいをするすると伝って、二階の窓のへりへ飛び移った。
「それは降り方ではありません!」
フィンの叫び声は、朝の鐘にかき消された。
承 硬いパンと、怒る人たち
パン屋通りは、いつもなら朝食を買う人でにぎやかな場所だった。けれどその日は、焼きたての香りよりも、ため息と文句でいっぱいだった。
店の前には、大きな札が出ている。
本日の丸パン 売り切れ
ただし、硬いものが混じるかもしれません
札の前で、腕まくりをしたパン職人のバルドが、頭を抱えていた。小麦粉のついた眉をしかめ、今にもかまどへ飛び込みそうな顔をしている。
「バルドさん!」
まじゅが声をかけると、職人は顔を上げた。
「まじゅ姫さま。今日は、買いに来たんじゃないでしょうな」
「うん。パンが泣いてるって聞いたの」
「泣くどころか、こっちが泣きたいですよ」
バルドは、売れ残った丸パンを一つ差し出した。
「食べてみなさい」
まじゅがかじると、表面はぱりりとしていた。けれど、中はいつものふわふわではなく、ぎゅっとつまっている。噛むたびに、口の中の水分が全部持っていかれそうだった。
「うわ。これは……元気のないパンだ」
「昨日からずっとです。焼き上がりは悪くない。ところが、朝になると硬くなる。発酵の具合もまちまちで、ふくらまない生地まである」
フィンは手帳を開いた。
「小麦粉は変えましたか」
「変えてない」
「水は」
「いつもの井戸水だ」
「かまどは」
「先週、掃除したばかり」
まじゅは店の中を歩いた。大きなこね鉢。粉袋。棚に並ぶ、昨日までならふっくらしていたはずのパン。奥には、布をかけた発酵室がある。
「ここ、入っていい?」
「手を洗うなら」
「もちろん!」
まじゅはきちんと手を洗い、発酵室へ入った。そこは、かまどの熱がほんのり届く、ぬくい部屋のはずだった。
けれど、まじゅはすぐに腕をさすった。
「……さむい」
「寒い?」
バルドも入ってきた。すると、顔をしかめた。
「そういえば、前より火を強くしているのに、朝は温まりにくいな」
部屋の隅には、小さな温度石が置かれていた。魔法をかけた石で、青から緑、黄、赤へと色を変え、部屋の暖かさを知らせてくれる。
今は青と緑のあいだだった。
「発酵って、あったかいほうがごきげんになるの?」と、まじゅ。
「温かすぎてもだめ、冷たすぎてもだめです。生地の中の小さな酵母が、ほどよく働く場所がいるんですよ」とバルドは答えた。
「酵母って、目に見えないのに働くんだね」
「見えないからといって、いないわけじゃない。町の決まりと同じですな」
フィンが小さくうなずいた。
まじゅは窓へ近づいた。発酵室の小窓は閉まっている。けれど、すき間から冷たい空気がすべり込んでいた。窓の外では、向かいの古い空き地に、新しい高い石壁ができている。
「この壁、いつできたの?」
「三日前です」と、バルド。「北伯さまの倉庫を広げるんだとか。まだ途中ですがね」
そのとき、店の扉が勢いよく開いた。
「バルド! うちの子が、おまえのパンを食べて歯が欠けたって言ってるぞ!」
入ってきたのは、八百屋のミレイアだった。両手を腰に当て、怒った顔をしている。
「歯は欠けてません!」と、後ろの男の子があわてて言った。「でも、スープにひたしても、ぜんぜんふにゃふにゃにならなかった」
「それはそれで問題だな」とフィンが真顔で言った。
「パンが悪いのではない!」と、バルドが声を荒らげる。「小麦も水も、手順も、ずっと同じだ!」
「じゃあ、だれかが悪さをしたのかしらね」
ミレイアの言葉に、店の外の人々がざわめいた。
「呪いだ」
「最近、夜中に黒い影を見たぞ」
「石壁を造った連中が、パン屋を追い出したいんだ」
まじゅは、みんなの声を聞いていた。けれど、すぐに「犯人を探そう」とは言わなかった。
ひらめきが、まだ小さな種のままだったからだ。
「ねえ」と、まじゅは言った。「パンが硬くなったのは、三日前から?」
「そうです」とバルド。
「石壁ができ始めたのも、三日前?」
「そうだけど、それが何だい」とミレイア。
まじゅは店の外へ出た。通りの旗は北へなびいている。だが、石壁の近くでは風がぶつかり、くるりと回って、パン屋の裏窓へ吹き込んでいた。
まじゅの目が、また琥珀色に光った。
「わかったかもしれない!」
「姫さまがその顔をするときは、たいてい私の計算することが増えます」とフィンはつぶやいた。
転 風の道を探せ
「壁が、風を曲げてるんだよ」
まじゅは石壁を指さした。
「南から吹く風がここへぶつかって、それから、くるっと回って、バルドさんの発酵室へ入る。だから部屋が冷えるんじゃないかな」
バルドは腕を組んだ。
「風だけで、パンがあんなに変わるものですかね」
「確かめようよ」
「どうやって?」
まじゅは通りを見回した。そして、八百屋の前に干してあった、赤いカブの葉を見つけた。
「ミレイアさん、葉っぱを少し分けて!」
「どうして私のカブの葉を?」
「風を見るため!」
「風なんて見えないでしょう」
「だから、葉っぱに飛んでもらうの」
ミレイアは口を開きかけ、閉じた。まじゅ姫の思いつきに巻き込まれるときの、町の人々の顔だった。
「……売り物じゃない分だけよ」
まじゅはカブの葉を細くちぎり、石壁の近く、路地の角、発酵室の窓のそばへ、少しずつ放した。
風が吹く。
葉は南から北へ飛ぶはずだった。ところが石壁の前でふわりと浮き、ぐるりと円を描く。そして数枚が、発酵室の窓のすき間へ吸い込まれた。
「ほら!」
「本当だ……」
バルドが、窓の前で葉を受け取った。
フィンは手帳に図を書いた。石壁、通り、パン屋、風の矢印。そして、ぐるぐる回る印。
「壁が高く、端が通りに対して直角なので、風が逃げられないのですね。さらに、裏口の細い路地が筒のようになって、冷たい空気を集めている」
「じゃあ、壁を壊せばいい!」
まじゅが言った途端、低い声がした。
「それは、困りますな」
振り返ると、石壁の前に、石工たちを連れた男が立っていた。灰色の上着に、倉庫会社の印をつけている。北伯の倉庫建設を任されている、石工親方のガロだった。
「その壁は、来週から荷を入れる倉庫の外壁です。壊すとなれば、工期も費用も、守るべき荷も、すべてやり直しになる」
「でも、パンが硬くなるよ!」
「パン屋だけのために、何十人もの仕事を止められません」
通りの空気が、今度は冷たくなった。
バルドは黙っていた。ミレイアは石工たちをにらんだ。石工たちも、悪いことをしているつもりはない顔だった。倉庫ができれば、雨に弱い果物や布を安全に置ける。働き口も増える。
まじゅは「壁を壊す」と言った自分の言葉を、口の中で転がした。
早すぎた。
パン屋の困りごとだけを見ていた。
「ごめん」と、まじゅはガロに言った。「壊す前に言っちゃった」
ガロは少し驚いた顔をした。
「……姫さまでも、あやまるのですな」
「まじゅだから、あやまるよ。それでね。壁を壊さずに、風だけ逃がすことはできない?」
「風を?」
石工親方は、壁を見上げた。
「壁に穴を開けろというのなら、倉庫として困る」
「大きな穴じゃなくていいの。風が通る小さな道。城の暖炉にある、煙の道みたいに」
まじゅは、朝に見た煙の流れを思い出していた。
フィンが手帳をめくった。
「通気口……ですか。壁の上の方に、雨が入らない向きで小さな風抜きを作る。あるいは、発酵室の窓の外側に、風よけの板をつける」
「板なら、わしらでも作れる」とガロ。
「でも、本当に効くかはわからない」とバルドが言った。
「だから、小さく試そう」とまじゅ。
その日の午後、パン屋通りは妙な作業場になった。
石工たちは、余った板で発酵室の窓に小さなひさしをつけた。風がまっすぐ入らず、上へ流れるよう、板の角度を何度も変えた。バルドは発酵室に温度石を置き、時間ごとの色を書き留めた。フィンは紙に表を作り、トト――王城の台所見習いで、いつのまにか来ていた少年――は、生地のにおいをかいで「今のは元気」「今のはちょっと眠そう」と言った。
「酵母の気持ちがわかるの?」とまじゅ。
「わからないけど、パンのにおいはわかる」とトト。
夕方、最初の試し焼きができた。
みんなが、丸パンを囲む。
バルドがナイフを入れる。
さくり。
中から、白い湯気が立った。
まじゅは息をのんだ。
「ふくらんでる!」
けれどバルドは、すぐには笑わなかった。
「一晩置いてからです。朝に硬くならなければ、成功です」
その言葉で、みんなは少しだけ静かになった。
ひらめきは、答えではない。
確かめて、待って、また見なければならない。
結 朝に残った、やわらかさ
翌朝。
まじゅ姫は、今度は屋根ではなく、ちゃんとパン屋の前に立っていた。
けれど、あまりに早く来すぎたため、店はまだ開いていない。
「姫さま。朝の四時です」と、フィンはあくびをかみ殺した。
「朝のパンのためだもの」
「肖像画のためには、これほど早く起きられないのに」
「肖像画は逃げないよ」
「画家の心は逃げかけています」
しばらくして、店の奥で音がした。バルドが出てきた。彼は一言も言わず、昨日の試し焼きのパンを棚から取り出した。
まじゅ、フィン、トト、ミレイア、ガロ。それに、近所の人たちが見守る。
バルドはパンを両手で割った。
ぱりっ。
そして、ふわり。
中身は白く、やわらかく、まだほんのり温かかった。
誰かが小さく拍手した。
次の瞬間、通りじゅうがわっと沸いた。
「やわらかいぞ!」
「朝のパンが帰ってきた!」
「歯が欠けない!」
昨日の男の子が、パンをひとかけ食べて叫んだ。
「スープに入れなくても、おいしい!」
バルドは、大きな手で目元をぬぐった。
「よかった……」
ミレイアは、さっそく店の前に新しい札を書いた。
本日の丸パン ふわふわです
風の道を見つけたパン
「ちょっと待って」とガロが言った。「壁の通気口は、まだ試作だ。雨の日に水が入らないかも確かめなきゃならん」
「そうだね」とまじゅはうなずいた。「それに、別の通りの風も変わるかもしれない」
みんなが少し驚いた。
昨日までのまじゅなら、成功したとたんに万歳をして、次の騒ぎへ走っていたかもしれない。
「じゃあ、毎朝一週間、温度石の色とパンのやわらかさを記録しよう」とフィン。
「雨が降ったら、わしが壁を見に来る」とガロ。
「うちは、売れ行きを書くわ」とミレイア。「硬いパンが減っても、値段が上がったら困るからね」
「僕は食べる係!」と男の子。
「それは、記録係ではありません」とフィン。
けれど、まじゅは笑った。
「食べた人の感想も、大事だよ」
その日、パン屋通りの人たちは、壁とパンと風について、何度も話し合った。
石工は、倉庫の壁の上に小さな風抜きを作った。パン屋は、窓のひさしを少しずつ調整した。バルドは、発酵室の温度を毎朝書き留めることにした。ミレイアは、ほかの店にも「建物を変えるときは、風や水の道も見ておこう」と伝えた。
夕方、まじゅは王城へ戻った。
待ちくたびれた宮廷画家が、椅子を指さす。
「姫さま。今度こそ、動かないでくださいませ」
「うん。今日はちゃんと座る」
まじゅは椅子に腰かけ、背筋を伸ばした。
画家が絵筆を取る。
けれど、窓の外からふわりと、焼きたてのパンのにおいが流れてきた。
まじゅは鼻をひくひくさせた。
画家が息を止める。
「姫さま?」
「大丈夫。今日は泣いてないにおいだから」
まじゅは、にっこり笑った。
その笑顔が、ようやく肖像画の中に描かれた。




